第45話 錬金術師

 ホーエンハイムという名の豚男。スルタンが言った男はあっさり見つかった。

 暇を持て余した老人が嫌な顔を隠さず示した家を訪ねると、街中が食料品の高騰に苦しんでいるのが嘘のように丸々と太った男が戸を開けて出てきた。


「どちらさん?」

 間の抜けた顔といい、浮世離れした雰囲気がある。体毛が薄いのか髭は一本も生えておらず、いまいち年齢の分からない男だ。

「ハシシを受け取りに来たと言えば分かるか」

「ハシシって何?」


 すっとんきょうなその顔に一瞬困惑したが、恍けているわけではないだろう。スルタンはこの男に何も伝えていない。ハシシを知らないのは当然だ。

「実験の失敗作を受け取りに来たと言えば分かるか」

 合点がいったというに、ホーエンハイムは声を洩らした。

「はいはい、彼……えー名前なんだっけ。まあとにかく彼の代わりってわけね。ここで話すのもなんだし入りなよ」


 中庭のある一般的な住宅に通される。物音はなく一人暮らしのようだ。見える範囲には様々な物が溢れ、倉庫と居住区を混ぜて引っ掻き回したように散らかっていた。俺が視線で物色している間にホーエンハイムは入り口の戸を閉めて向き直る。


「それで彼はどうしたの?」

「気にするな。今日から俺がお前の取引相手だ」

「あっそう。まあ誰でも良いよ。問題が起きても僕を巻き込まないでね。僕はお小遣い稼ぎができればそれで良いからさ」

 あっさりとしたものだ。俺が誰であるかも興味が無さそうだ。


「数百人単位に飲ませるだけのハシシは用意できるか」

「具体的な量によるけど、まあ材料が足りないね」

「俺が用意しよう。何が足りない」

「ジンの死骸」


 突拍子の無い返答に、俺は言葉に詰まった。それを見て取ったようにホーエンハイムは「ちょっと待ってて」と言って部屋の中からガラス瓶を持ってくる。

「見える、この灰。これがいわゆるジンの死骸だ」

 ガラスには色が入っていて中身が見えづらいが、確かに灰が入っている。アスワドならジンの死骸と木の燃えカスの区別ができるだろうが、ホーエンハイムの前で尋ねるわけにもいかない。


「僕の夢はね、アル=イクシールを作ることなんだ。知ってる? 万能の治療薬にして飲めば不老不死にもなれる霊薬。それこそが始祖パラケルススから始まる僕たちが探究し続けてきたものだ。賢者の石なんて言い方もするね」


 興味はないがわざわざ遮って不機嫌にさせるのも面倒だ。俺は黙って続きを待った。

「長い間研究し続けてきたけどね、はっきり言ってこんなものは夢物語だ、非現実的だ。そう諦めかけた時、僕は気付いた。この世にもう一つ、非現実的な存在がいることを」



「ジンか」

「そう! そして仮定は間違っていなかった。ジンの死骸であるこの灰を使ったところ、そうだ思い出した、君たちがいうところのハシシが出来上がった」

 だから多量に摂取するとマジュヌーンのようになるわけか。アスワドが反応していたのもジンの死骸を使っていたからだ。


「しかしあれは未完成なんだ。薬のような使い方もできなくはないけど、取り過ぎれば毒にもなる。なによりアル=イクシールとは程遠い。そこでさらに実験したところ、何が足りないのか分かった。ねえ、なんだと思う?」

 ホーエンハイムの顔が耳まで紅潮している。俺が適当に答えてもその興奮は収まらず、一気呵成に捲し立ててきた。


「ジンの格だよ! 今まで使ったジンは弱すぎた。強力なジンの死骸を使えば使うほどアル=イクシールに近づいていき、僕は一つの結論に達した……マリードだ。マリードの死骸があればアル=イクシールは作れる、とね」

 最悪だな。

 今となってはこの街に残るジンはリズク教団にしかいないだろう。いくら新種のハシシが欲しいとはいえ、可能な限り奴らを率いるマリードとは戦いたくない。


 今この街に残っている新種のハシシの総量はどれほどだ。それともほかの街、それこそカイロにでも移ってジンを狩るか。

 何にせよ、新種のハシシはしばらく使い物にならない。

「……頃合いを見てまた会いにくる。それと、お前は今狙われている立場にある。安全な場所に隠れた方が良い」


「あー」

 顔に赤みを残したままホーエンハイムは我に返る。

「失敗作でもアル=イクシールは強力だからね。今まで誰も訪ねてこなかったのは彼が上手くやっていたからかな。僕がお小遣い稼ぎに流した途端、嗅ぎつけて交渉を持ちかけてきたからね、優秀な男だった。でも一度明るみに出れば一斉に虫が集ってくるのは当然だ。うん、そうしよう」


「どこに隠れるつもりだ」

「荷物を纏めるからまた明日来てよ。そしたら一緒に行けば良い」

 世間に興味を持っていないこの男が嘘を吐いて逃げるとは考えにくい。それに新種のハシシを作る道具をここに残していくわけにはいかない。一日程度であれば流石にマムルークやリズク教団もここに辿り着きはしないだろう。


「分かった、それで良い」

 ひとまず新種のハシシは確保した。そう納得するしかない。

 俺はホーエンハイムの家を後にした。顔を動かさず視線だけで辺りを窺う。


「まさか俺たちジンの死体を使ってるだなんておっそろしいよなあ」

 アスワドは無視した。

 弦音が微かに耳に届く。六本の矢が飛んできた。四本は当たりそうにない。一本は身を捩って軌道から外れる。もう一本は胸──避けられない。


 俺は横向きに倒れた。刺さってはいない。寸前で掴んで止めた。しかし矢が刺さったふりをして身悶えていると、遠くで手を挙げるリヤードの姿が見えた。にやついた笑みを浮かべて近づいてくる。

「俺を嵌めた報いだな」


 俺は荒い息と視線で応える。堪えきれなくなったようにリヤードが噴き出した。

「どんな気分だか教えてくれよ、ハリル。念願のハシシが手に入ってようやく仇を討てるって時に、無様に死にかけてる今の気分をな」

 リヤードの高笑いが響く。騒いでいるのがマムルークだと気付いた周辺の人間はあっという間に姿を消し、俺とリヤードだけがその場に残された。


「それともう一つ教えてやる。お前が探してたボズクルトだけどな。観兵式が終わった後ぐらいからずっとこの街にいないんだよ。もしかしたらカイロかどこかに引っ越したのかもな。つまりは、お前の行動は全て無意味だったってわけだ」

 リヤードが腹を抱えて笑い、その視線から俺が外れた。


 瞬間、俺は動いた。掴んでいた矢を素早く番えてリヤードに放つ。太腿に突き刺した。俺は立ち上がって隠れている六人の射手を次々に射殺し、太腿を抑えて蹲るリヤードを見下ろした。

「お前の死体が見つからない以上、生きているだろうとは思っていた。だとすれば俺を着けているであろう事もな。ボズクルトの今の名前は、所属は、知っている事を話せ」


「誰が言うかよ!」

 その顔を蹴った。リヤードが鼻から血を流しながらもわざとらしい笑みを浮かべる。

「お前も終わりだ、ハリル」


 リヤードを殺せば、俺の正体が暴露される手筈になっている。その結果、俺がマジュヌーンであり、さらに城塞を襲ったと知れば今のクトゥブはどう動くだろうか。ふとそんな疑問が過るが、クトゥブが娘思いなのは事実だろう。どのみち俺はアル=アッタール邸という安全な拠点を失う。


 それがどうした。俺は躊躇なくリヤードの息の根を止めた。

「これからどうすんだ、ハリル」

 アスワドの問いに対する答えはなかった。


 観兵式の日から一月以上経っているのにボズクルトがダマスクスに帰っていないとなれば、リヤードの言う通り別の街に移った可能性もある。それに新種のハシシの出所を押さえたは良いが材料が足りない。

 ここまで来てまた手詰まりか。

 ひとまずアル=アッタール邸に戻ろう。俺の正体が公になって追い出されるまで時間はある。何も自ら出ていく必要はない。




 翌日、俺はホーエンハイムを迎えに行った。ラバ一頭で足りる程度の荷物を纏めたホーエンハイムは街中を呑気に進み、あろうことかアル=アッタール邸の前で立ち止まった。


「ありがとねえ。君のお陰で無事避難できた」

 俺はその場では何も問わずに別れた。ホーエンハイムは侍従たちに荷物を任せて堂々とアル=アッタール邸に入っていく。

 少し待って俺もサービトとしてアル=アッタール邸に戻った。使用人たちにホーエンハイムの居場所を聞くわけにもいかない。噴水の縁に腰掛けて機を窺う。


「あー気持ちよかった」

 ホーエンハイムの声が聞こえた。上機嫌にハンマームから姿を現して俺の隣に座ってきた。

「どうもどうも。いやあ、来たばかりだけどここは良い家だねえ」


 俺はホーエンハイムの腕を掴み、空いている客室に引っ張り込んだ。扉を閉めてターバンをずらし視力を蘇らせる。

「あれ? なんで君がここに? というか眼は見えるの? 見えないの?」

「眼が潰れているのは本当だ。ただ、俺はマジュヌーンだ」


「そういうこと、よろしくね」

 急に口を挟んだアスワドのふざけた声に、ホーエンハイムは口を半開きにして何度も頷いた。

「なるほどなるほど、それなら納得だ」


「告げ口すれば殺す」

「しないしない。僕もアル=イクシールの失敗作横流しにしてた事バレたらアミールに怒られるし、そこはお互い様って事で」

 それが疑問だ。ホーエンハイムとクトゥブはどういう関係だ。それを聞くとホーエンハイムは当然のような顔をした。


「アミール・クトゥブは僕の後援者だよ。僕一人じゃ実験設備も用意できないし、なによりどうやってジンの死骸を用意すると思ってるんだよ。僕がジンを殺せると思ってるの?」

 クトゥブは裏で何を企んでいる。

 クトゥブもまた、アル=イクシールを欲しがっているからホーエンハイムを援助しているのだろう。それに小麦の退蔵もしている。


 いや、クトゥブが善人でなかろうが俺には関係ない。

 ボズクルトはどこにいる。俺にとっての問題は、ただそれだけだ。 


 リヤードが用意していたという俺の正体の暴露も今のところ動きがない。それならダマスクスに残ってボズクルトの手がかりを探すか。それともカイロにでも向かって新種のハシシの材料となるジンを狩りつつボズクルトを探すか。

 どちらも一長一短だ。有効手段とは言い難い。


「サービト、お嬢様がお呼びだ。どこにいる?」

 ウトバが俺を探している。俺はずらしたターバンを戻し、未だ病床のナーディヤの下に急いだ

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