第34話 信用

 この街にいるマジュヌーンは例の女マジュヌーンしかいない。ミシュアルの正体はその身内だったのか。奴らはマムルークを襲撃するだけでなく、組織の内部にもミシュアルのような人間を潜入させていた。


 その可能性にもっと早く気付くべきだった。目まぐるしく思考が働いた。頭の中で無数の天秤が揺れ動く。


「動くんじゃねえ!」

 仮面の男が怒鳴った。別の男の絶叫が木霊する。仮面の男は腹を裂かれた男の口に曲刀を突っ込み、ゆっくり貫通させた。

「俺の質問に答えろ。裏切り者は誰だ!」


 仮面の男は近くで茫然とハシシを吸っている女を捕まえて、その顔に浅い切り傷を付けていく。そして、頬に曲刀を刺した。さらに小刻みに捩じりつつ、少しずつ突き入れていく。

「逃げられると思ったか? 逃げられねえよ!」

 女の耳元でがなり立て、曲刀を力任せに振り払う。


 後方で戦闘が始まっていた。闇に隠れた射手が構わず矢を放ち、応戦するような音も聞こえてくる。しかし仮面の男は一切を意に介さず、近くの人間を殴り倒した。


 動くなら今しかなかった。

 俺は腰に下げた曲刀を抜き、隣に立つミシュアルを斬り殺した。瞬間、仮面の奥の鋭い眼が俺に向いた。即座に俺は口を開く。

「こいつが笛を吹くのを見た。裏切り者はこいつだ」


 仮面の男が俺に歩み寄ってきた。後方の戦闘も我関せず、緩慢な動きで一歩一歩圧力を掛けるように迫りくる。

「証拠はあんのか?」

 付き合っていられない。全ての疑いをミシュアルに押し付けて殺した以上、誰よりも多くの戦果を挙げて仮面の男の信頼を得る以外に道はない。


 俺は無視して振り返った。視界の端に仮面の男が曲刀を振り上げるのが見える。速い。明らかに俺を殺しに来ている。俺は身を屈みながら曲刀を避け、そのまま駆け出した。群衆を縫って敵の数を確認する。

 十人と少し、ほとんどが男で女は三人。しかし最前線で戦っているのはその女たちだ。


「マジュヌーンは女だけだ、多分な」

 アスワドが言った。

 ミシュアルもこの状況が読めていたわけではない。急遽合図を出して集まれたマジュヌーンは三人しかいなかったのだろう。


 俺は女マジュヌーンの死角から襲いかかった。そいつは応戦する男を殺そうとする寸前だ。俺に気付くわけがない。気付いても対応しようがない。

 炎が、俺の視界に広がった。

 炎の壁だ。それが、俺と女の間に立ち上がっている。

 

 ジンの力か。怪力だけでなく炎を操れる奴もいるらしい。だが問題はない。昔、鍛冶屋から聞いたことがある。この炎のように赤色のものは温度が低い。それに人間の皮膚は想像以上の頑丈だ。ただの炎ならそう簡単に燃えはしない。


 俺は炎の壁に突っ込んだ。

 息を吐いていた女の眼が、驚愕に見開かれる。俺は勢いのままに女の顔面に曲刀を突き刺し、力任せに振り払った。吹き上がる血も人間以上に激しかった。紅い噴水に混じって灰のようなものが舞っている。


 残りの女二人が俺を見ていた。俺が曲刀を構え直そうとした途端、一人が俺に掌を向けた。

 炎が飛んできた。同時にもう一人の女が駆けてくる。


 炎を避けようとしてもその度に照準を合わせてくる。厄介な妨害だ。俺はそいつに向かって曲刀を投擲した。当たらないのは分かっている。しかし回避行動の合間に炎が止まる。その隙に、俺はもう一人の女に突撃した。


 時間がない。敵の武器は剣だ。狡猾に俺と距離を取ろうとしてくる。経験が浅いな。全力で前に走る俺から一定の距離を保てるわけがない。

 すぐに追いついた。女の顔が苦しそうに歪んだ。しかしマジュヌーンの膂力が尋常でない速度の反撃を可能にする。


 突き──俺の内股を狙っている。俺は身を捻りながら前進した。太腿の前部を剣先が掠めていく。


 俺は一回転して裏拳を叩きこんだ。女の顎を打ち抜く。その眼球があらぬ方向に向いていき、躰は横に飛んでいく。手から剣も離れた。俺は空中で剣の刀身を指で挟み、片手で持ち直しながら最後の一人を視界に収めた。


 俺は走った。飛んでくる炎を避けつつ、それでも速度を落とさず迫っていく。

 そこで、人影が目に入った。仮面の男だ。音もなく女の背後に近づいている。

 女は俺に気を取られて背後に気付いていない。仮面の男も俺を見るばかりで女に気を払っていない。俺は急停止した。女が剣を構えて腰を低くする。


 仮面の男が、虫をはたくように女を斬り殺した。

「強えな、てめえ」


 俺は仮面の男に答えず辺りを見回した。仮面の男が戦闘に参加したからか、群衆は思い思いに動いていた。半分以上は逃げ出したようだがそれでも敵より多い。普通の人間の男なら俺が手を出すまでもないだろう。俺は仮面の男に眼を戻した。

「こいつらは誰だ」


「リズク教団のマジュヌーンだ」

 仮面の男は足元の死体を蹴った。

 「こいつらスーフィーのふりしてやがるが実態はマジュヌーンの群れだ。こそこそ嗅ぎ回ってウザったくてしょうがなかったが、てめえのお蔭でせいせいしたぜ」


 リズク教団という名に覚えがあった。

 アル=アッタール邸の近くにハーンカーを持つスーフィー教団だ。

 ハーンカーを建てる際にクトゥブが世話をしたと言っていたが、クトゥブはどこまで関わっているのか。クトゥブと無関係でも一介のスーフィー教団とは思えないリズク教団の行動を思うと、それなりの権力者が背後にいるのは間違いない。想像以上に面倒な相手だ。


「幹部を二人殺したのもこいつらに違いねえ。まあいい。それよりてめえみてえに強え奴を探し……あん?」

 スルタンが俺をまじまじと見てくる。

「前に会ったなてめえ……そう、前に俺が潰した部隊にいたな、思い出したぜ」

 言いながらスルタンは獲物を持ち直した。

「そんなに俺の股ぐらが恋しかったか?」


 あの時偽マジュヌーンを指揮していたのがこの男か。俺を覚えている奴がいるのは想定していたが、ミシュアルという有力な協力者を捨てた以上、むざむざ組織を追い出されるわけにはいかない。


「そこが一番金の臭いが強烈だったんでな」

「てめえ、リズク教団の仲間だろ?」

 仮面の男の声が低くなる。手にした曲刀の切っ先が、滲んだ怒りに揺れ動く。


「裏切り者を殺した俺を疑うのか」

「俺がてめえに気付かなきゃ、てめえはまんまと俺の信用を得てたわけだ。仲間を殺す理由としちゃあ十分だな」

 俺はゆっくりとした動きで曲刀を下段に構えた。仮面の男が手にした曲刀は、未だに血が滴っている。


「好きに疑え。俺が言えるのはそれだけだ」

 仮面の男が、足元の死体に曲刀を突き刺した。そして、喉の奥で笑う。

「いいぜ、丁度このクソッタレ共相手にできる精鋭部隊が必要だったんだ。てめえそこの隊長になれよ。で、精々俺に尽くして身の潔白を証明しろ」


 それで確信した。

 仮面の男はハラーフィーシュのスルタンその人だ。感慨が湧き起こる。やっと探し人に会えた。しかしその感情を抑えて、俺は努めて平静に答えた。


「相応の報酬は貰うぞ」

「とにかく働け。そうすれば唸るほどの金をくれてやる」

「期待していろ」

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