第23話 ズール
「方法を変えましょう」
久しぶりに寝床から出てきたナーディヤがそう言った時、サービトは言葉に詰まった。しばらくの間黙り込み、なんとか一言だけ絞り出す。
「……どういう意味ですか?」
「マムルークの横暴を止める方法に決まっているでしょう。調査は勿論続けるわ」
ナーディヤの目の前に置かれた料理のほとんどは手付かず同然だ。元々量が多いのはあるが、それでも一口二口食べただけで完食したとばかりにナーディヤの視界から消えている。
「ムフタスィブの代理人以下の不正が一掃されても、当然のように法を無視していた総督配下のマムルークはそのまま跋扈している。お父様が動けないのであれば代わりに私が動かないと」
こうなるのは予想できていたが、時期だけが悪かった。サービトがハラーフィーシュのスルタンの戦闘部隊の一員として地盤を固めるまで、最低でも二日は欲しかった。
「……飲酒は法で禁じられてます。しかしそこまでちゃんとは守られず、裏では多くの人間が飲酒をしてると聞きました。それにハシシも学派によって認めてるところと認めてないところがあるとか。躰の悪いお嬢様が無理をして動く必要があるとは俺には思えません」
「私のことはどうでもいいの。それに私が問題視しているのはマムルークの堕落そのものよ。元々あまり褒められた人たちではなかったのだけれど、昼間からの酒宴しかり、マジュヌーンが出てもすぐに鎮圧に動かなかったりと、最近は特に酷いわ。恐らくこの惨状は一部のアミールも同様でしょう。私はその一部のアミールに狙いを定めて不正の証拠を集め、失脚させようと思っているの。それで全てが解決するとは思わないけれど、少しはこの状況が良くなる筈よ」
「アミールが不正をしてる。何故そう言い切れるんですか?」
「逆に聞くわ。あのマムルークたちの上司が清廉潔白だと思う?」
一兵卒のマムルークですら堂々と法を無視しているのだ。叩けば埃が出る、その程度では済まないだろう。アミールが失脚に足る不正を犯している、そうナーディヤが考えるのは自然の成り行きだ。
「……前に俺が伝えた警告の件があります」
以前、サービトが一人で外出した際に大人しくしておけと警告を受けた。ナーディヤに伝えた結果、時間や状況から見てクトゥブによって酒宴会場の一つを潰されたマムルークの嫌がらせだと結論付けた。
つまり、ナーディヤとサービトは既にマムルークに警戒されている。
「それも考慮した新しい方法を考えたの」
盲目のサービトには見えないが、それでも今のナーディヤが澄んだ眼をしているのは分かり切っていた。戦闘部隊に時間を割けないのは痛いが、所詮はボズクルトを殺す手段の一つに過ぎない。活動拠点の維持に比べれば重要性は劣る。それならナーディヤを止めるのではなく、背を推すのが正しい道なのだろう。
サービトは渋々頷いた。
「……分かりました。それでどうするつもりですか?」
「はっきり言って、今の私には何もできない。力不足もそうだけれど、以前のように酒宴に潜り込むのは不可能でしょう。だから他人を頼ろうと思う」
サービトは頭を切り替え、ナーディヤの進歩を素直に喜んだ。今まで他人を避けてきたナーディヤが、最初は盲目の宦官奴隷サービトを頼り、今度はそれ以外にも人間を求めている。
「ズール(ならず者)の力を借りるの」
聞いたことのない単語だ。それを察してナーディヤが説明する。
「カイロの方だとアイヤール(任侠)と呼ぶらしいけど、それとも違う。ほら、マムルークは基本的に街で揉め事が起こっても知らんふりでしょう? それどころかマムルークが一番揉め事を起こしている。そういった事に対処する為に若い人たちが自発的に集まり、最近になってズールを自称しているの。アイアール同然の人も多くて問題もあるのだけれど、この街でマムルークに立ち向かえるのは彼らしかいない」
いわゆる血の気の多い自警団という奴か。サービトは自分の知識に置き換えて理解し、そこで疑問を覚えた。
「そういった人間と面識があるんですか?」
「心当たりはあるの。他のマムルークと違ってお父様はウラマーだから、街の治安にも心を配っている。だから治安維持の役目を果たしているズールとも繋がりがあって、観兵式の時に寄ったフブズ屋さんを覚えている? あのお店の店主のカターダさんがズールの棟梁なのよ」
「旦那様に伝わるのでは?」
「その時は諦める。駄目で元々よ」
ナーディヤの声に揺らぎはない。覚悟はとうの昔に固く決まっているようだ。それならサービトにできる事は一つしかない。
「着いていきます」
結局それ以上減らなかった食事を片付けて、ナーディヤとサービトは件のフブズ屋に向かった。護衛であるウトバとの距離は以前のものに戻り、何も言わずに追ってくる。
店に入ると、フブズの焼ける香りとアンズの匂いがほんのり鼻をくすぐった。昼を過ぎて客足も落ち着き、奥から店員の話し声が漏れてくる。
「ナイル川の増水が全然らしい」「だから農作物が値上がりしてんのか、今回はどこまで行くかな」「呑気な事言うなよ。フブズ屋にとっちゃ死活問題だぞ」「困るのはカイロの連中だけだろ」「その程度で済むといいがねえ」
「あの、すみません」
ナーディヤが声を掛けると話し声が止んだ。奥から出てきた店員に、ナーディヤはアル=アッタール家の紋章を見せる。
「店主のカターダさんを呼んでください」
店員が顔色を変えて奥に戻る。
すぐに店主のカターダが表に出てきた。
「このようなところではなんですから二階に行きましょう」
三人は階段を上がって一室に入り、カターダはナーディヤに座るよう促した。好意を受け取ったナーディヤの隣にサービトが控え、そこから離れた入り口付近にカターダが立つ。
「アミール・クトゥブのご令嬢ですね? アミールにはいつもお世話になってます。それで今日は何の用でしょうか?」
「先に約束してください。お父様にはこれから話す事は内密にお願いします」
カターダは即座に頷いた。
「約束しましょう。それと俺なんかにそんな丁寧に話す必要はありません。俺はアミールの部下のようなものですから」
事実がどうであれ、信じなければ話が進まないだろう。果たしてナーディヤは感謝の言葉を述べて本題に入った。
「今のダマスクスの様子をどう思う?」
「荒れていますね。マムルーク共が無茶苦茶なのはいつも通りですが、マジュヌーン騒ぎが急激に増え、ハラーフィーシュの方でも何やらきな臭い噂が聞こえてきます。それにカイロではナイル川の増水がいまいちなようで不作が予想されます。混乱は酷くなる一方でしょう。外出する時はお気を付けください」
ナーディヤが絶句していた。街の情勢が想像以上に悪かったのだろう。しかしややあって口を結び、何事もなかったようにカターダを見据えた。
「マムルークの不正を探って欲しいの」
「お断りします」
返答は早かった。ナーディヤも表情を変えずに尋ねる。
「理由を聞かせて」
「まず、それは俺たちとアミールの間で行われることです。また断った以上目的を聞くつもりはありませんが、それが何であれアミールのご令嬢を危険に近づけるわけにはいきません」
正論だった。間違っているのはナーディヤの方だ。しかしそれはナーディヤが一番分かっているだろう。その上で、ナーディヤはマムルークの横暴を止めようとしている。
「あなた方は誰よりもマムルークの問題は分かっている筈。それなのに見過ごすというの?」
カターダの顔がぴくりと動いた。
「……俺たちも思うところはあります。最近は穀物を貯め込んで値段を釣り上げてるようで、浅はかな金儲けに走る総督とその手下どもなんぞ残らず殴り殺してやりたいと常日頃から思ってます。ただ、アミールはそれはするなとおっしゃった。目先しか見てない俺たちと違ってアミールは深謀遠慮の方だ。俺たちは黙って従うだけです」
「確かにお父様ならいつかはこの問題を解決するでしょう。でも、それはいつになるの? どれだけの人が苦しんだ後になるの? 少なくとも今証拠を集めて、マムルークの是正を一刻でも早める為の準備をするべきではないの?」
しばし、カターダは眼を瞑る。
「……流石はアミールのご令嬢です。しかし余計にあなたを危険に近づけるわけにはいかなくなった」
「私はアミール・クトゥブの娘よ。その特権を享受して生きてきた。であるなら、その程度の危険は受け止めて世の中に還元しなくてはならない。誰もが幸せに暮らせる街を作るというお父様の夢の為にも、ただ黙って家の奥にいるわけにはいかない」
「それが許されるのが我々が信じる教えというものです。俺たちとアミールに任せてください。必ずやクソッタレの総督一味をこの街から追放して見せます」
話は平行線だ。説き伏せるのが難しいのは分かっていた。気落ちすることはない。サービトがナーディヤの出方を窺っていると、カターダが部屋の外を見やった。
「今回のことは俺の心に仕舞っておきます。口に合うかは分かりませんが、うちの名物のアンズを乗せたフブズを用意しました。良ければ食べていってください」
カターダはフブズと飲み物を持ってきて、ゆっくりするよう言い残して店に戻った。ナーディヤは好意を無碍にしないようフブズをついばむように少しだけ食べ、残りをサービトに渡す。それからサービトがフブズを食べている間、格子窓から外の様子を眺めていた。
「どうしよう」
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