第49話「マヨイガ」
遺産相続で土地を分筆する場合や、鑑定評価の仕事で山に入ることだってある。不動産業の中でも肉体的に非常に疲れる仕事だが、断るわけにもいかなかった。
現場の山は広大で、踏み入れた途端に薄暗い木々に囲まれた。地図を頼りに進むものの、すぐに違和感を覚えた。道が急に消え、頼りにしていた目印も見失った。GPSも圏外。まさか迷うなんて、と焦るうちに、どこからか香ばしい香りが鼻をくすぐった。
目を凝らすと、木々の間にぽっかりと空間が現れ、そこに見たこともない大きな家が佇んでいた。瓦屋根が陽を反射しており、庭には花が咲き乱れている。あたりには人の気配がないが、どう見ても手入れが行き届いている。真っ赤に色づいた鶏冠のニワトリが平和に餌をつつき、厩舎の牛や馬がのんびりと反芻をしている。
不審に思いながらも、喉の渇きと疲労で判断力が鈍っていた俺は、意を決してその家に近づいた。玄関を叩いても返事はない。それでも扉を開けると、中からさらに濃い香りが漂ってきた。
室内は広々としていた。畳敷きの座敷に、木目の美しい机。奥の台所には、鉄瓶が湯気を立てている。火鉢にはほのかな火が残り、誰かがつい先ほどまでここにいたような気配を残していた。
台所に近づくと、湯気とともに漂う香りがコーヒーのものだと気づいた。カップには湯気の立つコーヒーが注がれている。これはおかしい、と心のどこかで思いながらも、喉の渇きが勝った。
カップを持ち上げ、一口すする。その瞬間、深い苦味と豊かな香りが口いっぱいに広がった。いつも飲む缶コーヒーとは比べものにならない。気づけば、カップを空にしていた。
不思議と身体が軽くなり、頭が冴え渡るようだった。足取りも軽くなり、俺は自然と玄関を出ていた。その後は、何事もなく道を見つけ、無事に下山することができた。
数日後、自宅に宅配便が届いた。差出人欄には「山」とだけ書かれている。怪訝に思いながら箱を開けると、中にはネルフィルターが入っていた。白いコットンの生地で、普通のものより手触りが柔らかく、滑らかだ。
不審ではあったが、試しに使ってみることにした。普段のコーヒー豆を使って淹れると、驚くほど美味しいコーヒーが出来上がった。香りも豊かで、何度でも口にしたくなるような味だ。
その後、使い終わったネルフィルターを洗おうとしたが、これまた不思議なことに、簡単に洗うだけでピカピカに綺麗になり、汚れが残ることはなかった。まるで何度使っても新品のように戻ってしまうのだ。
社長に仕事の進捗とともに一連の出来事を報告する。
「ほお、
「マヨイガ?」
「マヨイガってのはな、田中」
社長は金魚鉢を覗き込みながら、ぽつりと語り始めた。
「ある種のユートピアさ。山の中に現れる、誰も住んでいない立派な家でな。そこの家財道具でも、牛でも馬でも、好きなものを持っていけばいいらしい。持って帰れば、その後そいつは幸運になるって話だ」
俺が眉をひそめると、社長はニヤリと笑った。
「怪しいと思うか? 確かにな。だが、この話には肝がある。欲の深い奴には、その家は見えないんだ。マヨイガは無欲な人間を選ぶ」
「俺が無欲って言いたいんですか?」
「少なくとも私よりはね。無欲というか、お前は何かを持つことを恐れているように見える」
俺が反論しようとすると、社長は手を振って遮った。
そのフィルターは今も、俺のキッチンで大切に使われている。あの山の家との繋がりが、ほんの少しだけでも残っているのなら、面白いと思っている。だが、結局のところ、あの時の出来事が何だったのかは今でもわからない。
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