第51話「鳩の巣」
古びた二階建てのアパート。築50年以上の老朽化した建物は、耐震基準を大きく下回っており、いつ崩れてもおかしくない状態だった。周辺の再開発計画に伴い、住民には立ち退きをお願いしていたが、1階中央の部屋だけは最後まで残った。
そこに住むのは80代の男性。45年間この部屋に暮らし続けている彼は、周囲の説得にも耳を貸さず、「ここを出るつもりはない」と頑なだった。
その老人には、近隣住民からも多くの苦情が寄せられていた。原因は「鳩」だ。アパートの屋根やベランダ、さらには2階の空き部屋まで鳩がびっしりと群がり、老人が毎日大量の餌を与えていた。
鳩の糞や羽毛で周辺は汚れ、悪臭も酷い。苦情を伝えると、老人は決まってこう言った。
「見捨てろって言うのか。あいつらだって生きてるんだぞ」
老人が鳩を慈しみ、鳩が老人を慕っているのは確かだった。彼が餌を撒くと、どこからともなく集まってくる無数の鳩。
俺は相も変わらず頑なな住民の説得に失敗したついでに2階に上がってみた。階段を登るにつれ、鼻を突く刺激臭が強くなり、扉を開けた瞬間、思わず後ずさりした。
そこには無数の巣が張り巡らされ、鳩の羽毛や糞、腐敗した餌が散乱していた。だが、それだけではない。部屋の中心には、異様に大きな巣が鎮座していた。
巣を覆う羽毛や枝はやけに厚く、形が奇妙に整っていた。まるで何かがそこに潜んでいるかのようだったが、俺はその時、調べる勇気を持てなかった。
その数週間後、アパートに異変が起きた。夜中、突如として鳩が一斉に飛び去っていた。黒い雲のような群れを形成し、空を埋め尽くしながらどこかへ消えていった。
老人はアパートの前に立ち、鳩たちをじっと見送っていた。そしてぽつりと呟いた。
「やっと巣立ったか」
その後、彼は静かに荷物をまとめ、アパートを去った。
老人が退去したのち、あらためて薄暗い二階の部屋に足を踏み入れた。鼻腔を刺激する腐敗臭と、じっとりとした湿気、床一面には羽毛が散らばり、糞が固まって汚れた床材は腐食している。だが、目を引いたのは部屋の中心に鎮座する、異様な「巣」だった。
それは、通常の鳥の巣とは全く異なっていた。無数の鳩の羽毛、枝、そして泥に見えたものが幾重にも重なり合い、巨大な球体のような形状を作り出している。しかし近づいてよく見ると、それらの素材の中に「生体そのもの」が絡みついているのが分かった。
塊には無数の鳩の頭部が埋め込まれていた。それらは一部が干からび、一部はまだ柔らかいまま、あたかも巣の構造そのものに取り込まれたように見える。首の部分は他の鳩の羽毛や体と絡まり合い、どこからどこまでが1羽の鳩なのか判別がつかない。無数の感情の読み取れない目が、何処かを見つめていた。
「巣」の外縁は乾いた枝や羽毛が繊細に積み上げられていたが、中心部は生々しい。新しい血痕のような赤黒い汚れが層の間に広がり、そこから腐敗臭が漂っている。巣全体は有機物と無機物が融合したような異様な構造をしており、まるで「生きている巣」そのものだった。
俺はその場から一歩も動けなくなった。脳裏に浮かぶのは、あの老人が「やっと巣立った」と呟いたときの表情だった。彼が何を見て、何を感じていたのか――その意味がようやく分かるような気がした。
後日、鳩たちの群れが向かった先で、同様の被害が報告された。大量の鳩が集まり、一夜にして建物を覆い尽くす。だが、それらの鳩たちは突然消え、巣だった跡地には奇妙な巨大な鳥の塊が残されるという。
あの老人が餌を与え、育てていたのは鳩ではなかった。彼が「巣立った」と言ったのは、普通の鳩が飛び立ったことを意味していない。あれは――もっと別の存在だったのだ。
その後も俺は仕事で多くの物件を回るが、ふと空を見上げるたび、あの黒い雲のような鳩の群れがいつかまた戻ってくるのではないかと、不安になることがある。
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不動産異聞 田中の手記 有田茎 @humhugo1
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