第28話「寄生虫の棲家」
これは少し前、俺が変な物件担当になる前の話だ。
今考えると、変な物件担当ではなかったが、変なクライアント担当には知らず知らずのうちにされていたのかもしれない。
俺が、エスプレッソマシンはおろか、人の手で淹れられたコーヒー、一瞬でも目を離してしまった飲みかけのコーヒーが飲めなくなったのは、この一件のせいである。
それから俺のコーヒーブレイクはもっぱらペットボトルか缶コーヒーの一気飲みだ。
俺はクライアントとの打ち合わせで小さなカフェに向かった。中に入ると、すでに待っている中年男性がいた。遠目から見ても酷く痩せていて顔色も悪い。しかし入口に俺の姿を認めると、大きい目をぎょろりと転がしてにっこり笑いかけた。
「今日はありがとう。早速物件の話をしよう」
彼が言うと、俺は頷いて席についた。しかし、彼の口から出る言葉は次第に熱と奇妙さを増していった。
「最近、腹の中で寄生虫を育てているんだ」
彼の言葉に俺は驚きつつも、冷静を保とうと努めた。
「寄生虫ですか?それは大変ですね」とだけ返したが、彼は続けた。
「特別な虫なんだ。普通の虫とは違う。僕はね、今までは酒もたばこもさんざんやってきた。でも今はどちらも必要ない。アルコールやニコチンに頼らなくても最高に頭がすっきりしている。サイコーの気分だよ」
痩せた身体に、不釣り合いなほど膨らんだ腹をポンポン叩きながら目を転がして心底楽しそうに笑う。ただでさえ大きな目玉がこけた頬のせいでさらに大きなものに見える。
「だから、あまり人と会うのは避けてる。人混みだと、彼らが気分を害するからね」
その言葉に俺は戸惑ったが、仕事として彼の要望に応えなければならない。
「物件についてお話ししましょう。どんな条件をお求めですか?」
彼はしばらく考え込み、やがてぼんやりと答えた。
「静かで、誰にも見られない場所がいい。そうじゃないと、虫たちがストレスを感じるから」
「かしこまりました。特にお探しのエリアはありますか?」
俺が聞くと、彼はうっとりと目を細めて、
「ああ、近くに公園……噴水があって、鳥がたくさん飛んでて、公衆トイレがあるところがいい」
「は?」という言葉をコーヒーとともに飲み込もうと目線を落とす。それを彼は見逃さず、テーブルの上にあったブラックコーヒーを指さし、
「これ、飲んでみてよ。すごくおいしいから」と言う。
伝票をちらりと見ると、俺が席に着く前に注文してくれたものらしい。
彼は一口、コーヒーカップに口をつけると、美味しそうに飲む。その表情は演技がかっていて、異常な熱意が滲んでいるのを見逃さなかった。
かっ開いた白目は薄く緑がかっていて、瞳孔は蠢動するように縮小と拡大を繰り返す。
「いや、今日は結構です」
俺は失礼を承知で断った。すると、彼の表情が変わり、少し不満そうに見えた。
「せっかく頼んだのに、もったいないな」
彼は再び勧めてくる。
重厚な香りの中に、フルーティな酸味もあり、俺はのどに渇きを覚えながらも、あくまで丁寧に断り続けた。
「ありがとうございます。でも、本当に今は遠慮しておきます。お恥ずかしい話ですが、このところコーヒーを飲むとトイレが近くなってしまいまして。歳のせいですかね」
飲むわけにはいかない。
寄生虫の中には、次の宿主を探すため、また仲間を増やすため、宿主の脳を乗っ取るものがいるという。
例えば、カマキリに寄生するハリガネムシ。
例えば、カタツムリに寄生するロイコクロリディウム。このロイコクロディウムは特におぞましい。虫に食べられるために、カタツムリの目に入り込みグネグネと動き回って目立たせ、天敵の鳥に捕食させる。
そう、この客の目の様に――――
「サイコーの気分になれるのにな」
彼は微笑んだが、その目は笑っていなかった。虫たちは苛立ちを抑えきれないように、グルグルと瞳孔の中を走り回っていた。俺は直視できずに、打ち合わせを続けるしかなかった。
トイレを口実に俺は一度その場を離れ、そっと彼の動向を伺う。俺に勧めたコーヒーをじっと見つめている横顔から感情を読み取ることは難しかった。もしかしたら彼自身の感情というものはもはや残っていないのかもしれない。寄生虫の棲家でしかない。
「あの顧客、どうやら本当に寄生虫を育てているようです。彼が勧めた飲み物や食べ物は口にすべきではないでしょう」
社長は一瞬驚いた様子だったが、すぐにビジネスマンとしての声に戻った。
「なら、しっかりと対応していこう。異常な顧客を見極めるのは重要だ」と言い、俺は頷いた。
その後、あの男との連絡は途絶えたが、彼の目は心の中に焼き付いている。ロイコクロディウムが人間に寄生するはずがない。そうはわかっているが、新種か近種か、はたまた突然変異か。得体のしれない寄生虫が、人知れず潜んでいるのだと目前で突き付けられてしまった。
こうして俺がゆっくり淹れたてのコーヒーを楽しめるのは、自室の中だけになってしまった。
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