第35話「廃村のハイヒール」

 ある日、ダム建設のために住民が集団離村した村を調査することになった。ダム計画が頓挫し、結果的にその村は沈むことも再興されることもなく、ただ時間に取り残されていた。


 現地に到着すると、鬱蒼とした森の中に隠れるように、朽ちた家々が現れた。草木が絡みつき、かつて舗装されていた道は獣道と化している。

 村全体に漂う薄暗い雰囲気に、俺は足を踏み入れるのをためらった。しかし、使命感に突き動かされ、苔むした地面を慎重に進んだ。


 最初に目に入ったのは、集落の中心に位置する一軒の廃屋だった。玄関の木枠は歪み、ドアは外されたのか、それとも風化したのか、開け放たれたままになっている。その三和土には、場違いなものが目に留まった。

 高級感のある真紅のハイヒールだ。洗練されたデザインで、まるで雑誌のモデルが履いていそうな人気ブランドのものだとすぐに分かった。埃っぽい空間の中、その艶やかな存在が強烈に浮かび上がっている。


「……何でこんなところに?」


 俺は一瞬、足を止めた。誰かがここを訪れたのだろうか。それとも……。


「忘れ物でも取りに来たのか?」


 そうつぶやいてみたものの、ここは40年以上も人が住んでいない村だ。その理由を考えるうちに背筋が冷たくなる。


 玄関先で何度か声をかけてみたが、返事はなかった。

「お邪魔します」

 そう言いながら足を踏み入れる。

 室内はひどく荒れていた。埃とカビの臭いが鼻をつき、湿気を帯びた空気が肌にまとわりついてくる。家具は当時のまま残されているが、どこか不自然な生活感が漂っていた。

 テーブルの上には食器が放置され、台所には使いかけの調味料瓶が転がっている。すべてがまるで昨日まで誰かが使っていたかのようだが、その一方で自然に還ろうとする廃屋の荒れ果てた姿がある。このアンバランスさに胸がざわつく。


 気を取り直し、家の奥へと進む。腐りかけた畳を踏むたびに、乾いた音が静寂を破る。ふと庭が目に入った。窓越しに見える景色は荒廃の極みだった。草木が生い茂り、かつて人の手が入っていた痕跡を押し流している。しかし、そんな中で赤いハイヒールのイメージが脳裏に蘇る。その異様な存在感が、村そのものに潜む謎をさらに深めていった。


「どうして、ここに?」


 その答えは誰も教えてくれない。この村に、あのハイヒールの持ち主がいたのか。それとも、彼女はどこかに消えたのか……。


 次の廃屋に向かおうと振り返ったとき、妙な視線を感じた気がした。思わず背後を振り返るが、そこには荒れた家と暗がりがあるだけだった。



 調査を終え、逆木地所に戻ると俺は真っ先に社長のオフィスを訪れた。


「失礼します。田中です」

「おお、田中。どうだった?」


 社長が座ったまま顔を上げる。


「村には廃屋がいくつか残っていて、その中に高級ブランドのハイヒールが脱ぎ捨てられていました。まるで持ち主が急いで脱ぎ捨てたようで、不気味でした」


 話をしていると、一ノ関がタイミングよくオフィスに入ってきた。


「何の話してるんですか?」と、気楽そうな口調で問いかけてくる。

「田中がダム村で見たハイヒールの話をしてたんだ」と社長が答える。


 すると、一ノ関が急に身を乗り出してきた。


「ハイヒール? どんなの?」


 靴好きの彼らしい興味の示し方だったが、その反応に俺は少し救われた気分になった。


「真紅で、ヒールは細くて長い。ブランドものだ。たぶんルブランか何かだと思う。洗練されたデザインだったな」


 俺が簡単に説明すると、一ノ関の顔がみるみる青ざめていく。


「……それって、去年元カノにプレゼントしたパンプスと同じだ……」


 俺は思わず息を呑んだ。彼が続ける言葉を待ちながら、あの村の不気味な景色が頭をよぎった。果たして、一ノ関の元カノとあの村を結ぶものは何なのか――

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