第34話「ひもろぎの家」
家の査定に出向くのは、気が進まない。特に心理的瑕疵物件の場合はなおさらだ。
「田中、この物件、頼むよ」
社長から渡された資料を開くと、築30年の平屋で、駅から徒歩20分。立地は微妙だが、気になるのは『住民の失踪』と赤字で記された履歴だ。
「失踪、ですか?」
「そう。荷物もそのままでいなくなっちゃったらしい」
「また妙な話ですね」
社長はいつもの調子で肩をすくめたが、俺の胸中は晴れない。
現地に到着すると、家は外観こそ普通だったが、玄関にかかる表札に目を引かれた。風雨にさらされ、文字がほとんど読めないが、かすかに「胙」と見える。
「……なんて読むんだ、これ」
正直に言うと俺はこの字を読めなかったが、いちいち調べる気にもならず、とりあえず家の中を確認することにした。鍵を開け、重い扉を押すと、中からむっとした匂いが流れ出した。
室内は驚くほど整然としていた。家具や小物がそのまま残され、あたかも住人が今朝出て行ったかのような生活感がある。台所やリビングに進むにつれて、ある共通点に気づいた。
至るところに干し肉がある。
台所のテーブルには小皿に盛られたものが、壁のフックには吊るされたものがある。肉の色と形状から、ほとんどは豚肉だとわかるが、中には妙に人間の皮膚に似た質感を持つものも混じっている。
吐き気をこらえながら廊下を進むと、奥の部屋の畳の上にも肉が積まれていた。人間の手の形に見えるものがあったが、直視する勇気はなかった。
テーブルの上には短いメモが残されている。
「絶やすな」
事務所に戻り、例の表札について社長に尋ねると、いつもの調子で答えが返ってきた。
「『
「ひもろぎ……?」
「神様に供える肉って意味だよ。日本の神道や仏教だとあまりピンと来ないかもしれないが、古代中国では重視されたようだ」
時折、社長はこうやってマニアックな知識を披露する。知ることで安心する事あるし、逆に知ることで恐ろしくなることだってある。
今回は間違いなく後者だった。
「供える肉って……まさか、家の中の干し肉がそれですか?」
「だろうな。供えることで何かを鎮めてたとかじゃないの? まぁ、定番だよな、そういうの」
「それで失踪って……やっぱり繋がってるんですか?」
「さぁねぇ。でも田中、こういうのって、供え物をやめたときに何か起きるってのが常だろ?」
「常って、そんなオカルトな話……」
社長は肩をすくめて笑うが、俺にはその言葉が冗談に聞こえない。
後日、逆木地所として警察に通報し、あの家には捜査が入った。ある日、警察から事情聴取を受けることになった俺は、言葉を慎重に選びながら状況を説明した。
「室内に干し肉が大量にあったんです。種類はよくわからないですが……気味が悪くて通報しました」
「その判断は正解だったと思いますよ」
警察官の表情は固い。何かを言いかけては躊躇しているようにも見えたが、最終的に短い言葉が返ってきた。
「一部、人間のものと断定できるものがありました」
血の気が引くのを感じた。
「人間の……」
「詳しいことはお話しできませんが、かなり異常な状況です。念のため、不審な人物や出来事に気をつけてください」
警察官の含みのある言葉に、俺はただ頷くことしかできなかった。その後、何度か追加の質問を受けたが、警察は必要以上に口を割らなかった。
ほどなくして、ニュースにはならず、逆木地所にも続報が届かないままだった。捜査はひっそりと進んでいるらしいが、俺の中では、警察官の「人間のもの」という言葉が重くのしかかったままだ。
事務所でその話を社長に伝えると、彼は静かに頷いたあと、こう言った。
「ニュースにならないってのも、何か裏があるのかもしれないな。田中、お前もあの家には関わらない方がいい」
「最初からそのつもりです」
俺の答えに社長は軽く笑ったが、その笑みもどこか薄気味悪いものに思えた。家の中に積まれていた干し肉が、未だに頭を離れない。
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