第11話 サイダー


 案理は舌の上でころころと透明な飴を転がしながら、その人物の顔や声を思い出そうとするが、自分よりもずっと足の速い人を追いかけているような感覚から一向に抜け出せない――と思いきや、浴室の湿った空気は、奇しくも彼女のある夏の記憶を思い起こさせたのだった。


 ある日のこと。案理がうなじに張り付く髪をアップにしていると、曲がり角から――先ほど思い出そうとしていたのと同一の人物だと思うが、確証は持てない――が、なにかを両手に持って現れた。それというのが――――。


「…………しゅわしゅわ……する……。わかったわ! サイダー味ね?」


 思考を一旦手放した彼女の口内を満たすのは、昔懐かしい――といっても、彼女にとっては、とりたてて馴染み深いわけではない――味だった。


 飴の記憶と引き換えに、大切だった気がするその人物の記憶は、陽炎のごとく揺らめき、やがて消えていった。


「正解です。美味しくないですか?」


 カナタの顔が歪んだ。彼自身が顔を顰めたのではない。案理の視界の問題だ。うっとりと目を細めた彼からは、愉悦さえも見てとれる。


「美味しい…………けれど、なんだか頭がくらくらするような…………」


 しゅわしゅわの合間に、ふわふわと――――もしくは、ふらふらとした感覚に襲われていることを説明した直後、案理は姿勢を保てなくなり、頭部が後ろに引っ張られるようにぐらりと大きく傾いた。


「大丈夫ですか?」


 だが、異変に気付いたカナタが素早く支えた甲斐あって、彼女が後ろに倒れ込み、床に頭を打ち付けてしまうことはなかった。


「ええ。手を貸してくれてありがとう…………」


 案理は礼を述べるのが精一杯といった様子で、ひゅうひゅうと浅い呼吸を繰り返している。


「いいえ。この程度、当然のことですから」


 カナタは、背中を浴槽の縁につける形で案理を座らせた。


「世話をかけてしまって、本当にごめんなさいね。…………これ、全部舐め切れる気がしないのだけれど、途中で吐き出すなんて、お行儀が悪いわよね……」


 案理は口の中がカナタに見えないように手を当てながら問いかけた。


 ――――すると、彼の顔が再び歪んだ。今度は彼女の視界の問題ではなく、彼自身が浮かべかけた笑顔を無理に引っ込めるように不自然に唇を結んだために。


「案理さんの飴は――今、どのくらい残ってます?」


 そういえば、彼は先程も案理が倒れることが予めわかっていたかのように冷静そのものだった。


「そうね……。半分以上は溶かしたんじゃないかしら……?」


 そのふたつの事実が表すものは何か。訝しく思いながらも、現在の案理にはカナタの問いに答えることしかできなかった。


「見せてもらえますか?」


 言うが早いか、カナタは躊躇いなく案理の口に指を突っ込んだ。


「!?」

 

 呆気に取られる案理など意に介さず、カナタは飴の探索に励んでいる。

 

(…………私、今、名前しか知らない人に口の中を見せて――というか、指が…………! 嫌だわ、はしたない……。カナタさんは気にしていないみたいだけれど)


 宙に放り出したままの腕は異様に重くなっており、案理が再び口を覆うことはかなわなかった。

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