第3話 小さな人魚


「ええと……。そういえば、水なんて入れたことなかったわね。設定温度がどうのと書いてあったけど、最低温度まで下げたとしても、水とはいえないほど高温だし……」


 給湯器をひと通り操作してみたものの、【すくった人魚のもどしかた】に書かれていた手順は守れそうになかった。


 案理の家の給湯器に不備があったわけではない。不備があるとすれば、説明書のほうだ。


「あの説明書を書いた人は、お風呂を入れたことがない人なのかしら? まさか、おうちでは昔ながらの五右衛門風呂に入って…………?!」


 案理は頭をぶんぶん振って、脳内にリセットをかけた。


「いえ。今はそんなことを気にしているときではないわね」


 そののち、ぶつくさ言いながらリビングルームにとんぼ返りし、スクールバッグからスマートフォンを出した彼女は、バーチャルアシスタントを起動させた。


「『浴槽に水を張る方法を調べて』」


 画面に向かって話しかけたものの、期待していたような結果は得られず。


「…………シャワーで地道に……。まあ、そうでしょうね……。水を張ることなんて、非常時以外に想定されていないのでしょうし。……いいわ。後回しになんてしてしまったら、もっと面倒になるだけだもの。今、やってしまいましょう」


 スマートフォンを静かに置いた案理は、特に意味もなく袖を捲り、再び浴室に向かうのだった。


「?」


 しかし、着いて早々、彼女は手の中のヨーヨーのそのまた中に小さな影を発見し、蛇口を捻ろうとしたその手でヨーヨーを照明に翳した。

 

「中に何か入って……?」

 

 不審に思った彼女は留め具を外し、洗面器に中身を開けてみた。

 

「まあ……!」


 すると、中を満たしていた水と一緒に小さな人魚が流れ出てきた。

 

「こんにち…………こんばんは。小さい人魚さん! なんて可愛いんでしょう…………!」


 案理がゆっくり手を近付けると、その人魚は小さな両手で彼女の人差し指を挟み込み、顔を寄せた。

 

「ご挨拶してくれたの? お利口さんね」


 手のひらサイズの人魚は、幼子のようなもちもちの笑顔で頷いている。


「なあんだ。『』って、そういうことだったの。……でも、お人形……ではなさそうね。あなた、もしかして生きているの…………?」


 その問いかけに肯定しているのか、人魚は先ほどと同じく彼女の指に何度もキスをした。


「もう、擽ったいったら……」

 

 案理は声を上げたものの、手を引くことはなく、人魚の好きにさせている。


「……ああ、いけない。水を張るんだったわね。少し待っていて頂戴。お水がいっぱいになったら、あなたを浴槽そちらに移してあげるから」 

 

 しばらく経って、ここに来た目的を思い出した彼女は、ようやくバスタブに栓をし、蛇口を捻るのだった。

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