第13話 サイダーの亡霊


「…………半分って言ってたのに、もうほとんど残ってないじゃないですか。あとは適当に噛んでなくしちゃえばよかったのに」


 カナタは歯科検診における模範的な患者よろしく口を縦に開き、奪取したての飴を案理に見せた。


 舌の上には、小ぢんまりとした飴が乗っている。正円が崩れ、歪に凹んだ姿は、少しばかり天然石のようでもあった。


「いちいち小言の多い人ね……」

 

 案理は上擦った声でぼやいたが、それが性的興奮によるものだということに気付いてはいなかった。――目を背けていたのかもしれないし、忘却してしまっているのかもしれないが。


「確かに僕は小言が多いです。すみません。……でも、案理さんだって、僕の小言の多さに負けないくらい、要求の多い人だったりしませんか?」


 潤んだ瞳や締まりの悪くなった唇といったものは、言葉よりも饒舌だ。熱っぽい視線に炙られ続けるカナタが切り出した。


「…………何が言いたいの、――――じゃなくて、さん」


 カナタが名前で呼ばれなかったと不満の声を漏らしていたことを記憶していた案理は、二度目の注意が飛んでくる前に訂正を入れた。

 

「名前で呼んでほしいって言ったの、覚えててくれたんですね。嬉しいです」


 案理の読みに違わず、カナタは名前で呼んでみせただけで機嫌を直し、人好きのする笑顔を見せた。


(この人、笑うと可愛いじゃない……)


「ありがとうございます、案理さん」


「ま……まあ、さっき聞いたばかりだもの。忘れるほうが難しいのではなくて?」


 案理は全身に響く鼓動を掻き消すように、大きく声を発した。

 

「ふふ、そうですか。そういうことにしておきましょう。……ところで、案理さん。さっきからもじもじして、何か言いたいことが――というか、したいことがありそうですね。もし僕にしてほしいことがあるなら、遠慮なくどうぞ?」 


 カナタは案理の耳のそばに顔を寄せた。


「……何でもいいの?」


 頬を紅潮させ、カナタの機嫌を窺うように見上げる案理は、少し高価なクリスマスや誕生日のプレゼントを親にねだる前の子どものようだった。


「僕に出来ることだったら」


「…………じゃあ、カナタさんがその飴を舐め終わったら…………。さっきみたいに、キス……してほしいの……」


 カナタから遠いほうの手は、きゅっと握り込まれている。


「いいですよ」


 案理の願いを聞くなり、カナタはサイダーの味もほとんど感じられないほど小型化した飴をガリガリと噛み砕き、彼女に口内を見せた。


「飴、終わりました」


「………………。ええ。ありがとう……」


「『“舐め終わった”ではなくて、“噛み砕いて終わらせた”でしょう?』って言わないんですね」


 すんでのところで揚げ足取りを回避したと案理が息をついたのも束の間、カナタは意外そうに眉を上げて指摘した。


「……まあ、いいか。言われなかった分には。念のために確認しておきたいんですけど、『』ってことは、唇を合わせるだけで我慢しなくていい……って意味で受け取っても構いませんよね?」


「ええ。構わないわ……。――というか、唇を合わせるだけのキスなんて、キスとは言えないでしょう……?」


「なるほど。そうきましたか。僕の思っているより、貴女は経験豊富だったみたいです。……妬けちゃいますね……」


 カナタの手が、案理の猫っ毛を巻き込みながら後頭部を固定する。墓石を押し上げてゾンビがよみがえってくるかのごとく、触れ合わせた舌の表面からサイダーの亡霊が姿を現した。


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