第2話 ミコトとアンリ【後編】


「契約成立だね」


 ――――と言うが早いか、ミコトは自然な動作でクレープ生地をぱくりと口に含み、器用に包装紙から抜き取った。

 

「あっ、ちょっと〜!! 私のクレープ! 最後のひとくち、楽しみにしてたのに……。前言撤回! 最高は言いすぎたわ!!」


 包装紙をぐしゃりと握りつぶした案理が不満の声を上げるも、ミコトは素知らぬ顔でもぐもぐと品のいい小ぶりな口を動かすのみだった。


「…………ねえ、ミコト? 聞いているの?」


 不満の声が止むのと時を同じくして長い咀嚼を終えたミコトは、少し背を丸め、への字を描く口を塞いだ。


「!?」


「フフッ。ごめんね? これは、その屋台に案内してあげるお礼ということで。……ごちそうさま」


 汚れてもいない下唇を拭うミコトの仕草はいやに煽情的で、案理はふたりきりで過ごすの夜の秘め事を思い出さずにはいられなかった。


「~~~っ! ほんっと、反則……。ふたつも奪っておいて、一度の挨拶で済ませるのもいちいち癪に触るったら……」


「『ごちそうさま』は、やっぱり二回言っておくべきだったみたいだね?」

 

「確かにそう言ったけど、別にそんなのはどうでも……というか、私、もう怒ってなんかいないわ。ミコトの顔を見ていたら、どうでもよくなってしまったから。本当に顔がよすぎるのよね、アナタって…………」

 

 ――――とこぼした案理だが、手元ではクレープを食べ進めていくうちに半分ほど、ミコトのキスでほとんどが取れてしまったリップメイクの修復に精を出していた。 


「ぼくの無礼を許してくれるかい?」


「はいはい、『何事も先払いが鉄則』なんですもんね? 耳にタコが出来てしまいそう。私、そんな恩知らずじゃないと思うのだけど、信用なさすぎじゃないかしら?」


「きみが恩知らずじゃないことは、もちろん知っているよ? ……でもねえ、何かハプニングがあって、対価を支払うのを忘れたら、そのときは…………」


「そのときは? なんだって言うのかしら」


「…………きみのほうに禍が降りかかってしまうもの。ぼくはそれをなるべく避けたいんだ。わかってくれるね? プリンセス……」


 ミコトの真剣な声を隠すように何重にも重なって響く声があった。虫たちも合唱祭を行っているようだった。


「実のところ、私には何を言っているのかわからないのだけれど。ミコトがそう言うのなら、わかっておいてあげる。でも、クレープは新しいものを買ってくださいな? トッピングもたくさんつけていいでしょう?」


 案理はミコトの右腕に自身の両腕を絡めた。甘えたいときの癖だ。


「いいよ。ひとつと言わず好きなだけ。クレープじゃなくたって、ぼくは構わないよ?」


「そう? それじゃあ、屋台の食べ物でも構わなくて? 私、お祭りとは縁がないものだから、とても気になっているの」

 

「お安い御用さ」

 

「…………その屋台に着く前に訊いてもいいかしら。ミコト。私と噂の店主さん、どちらのほうがアナタ好みの女性?」


「案理に決まっているじゃないか」

 

 ミコトは進行方向を向いたままだが、その言葉に迷いや躊躇いはなかった。


「不安になってしまったの? 可愛いひと…………」


 女性にしてはやや低めのハスキーボイスが、案理の左耳を甘く擽っていく。


「…………今年の夏の始まりも、きみと過ごせて何よりだよ。案理」


 騒がしいほどに賑やかだった虫の声は、いつしか喧噪に塗り替えられていた。

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