第11話 邂逅

ああ、疲れたな。


リアムは魔法学院の噴水前のベンチに座り、大きな溜息をついた。


その日リアムは学院長に頼まれて、学生向けに遠隔地の領地経営に関する講義を行っていた。


入学式が行われたのは一週間前。まだ入学したての初々しい新一年生の講義が午前中に行われた。


午前の講義が終わり、学院長ら教職員と一緒にとる昼食は気の張るものであった。


リアムは食後のコーヒーにも誘われたが、なんだかんだと理由をつけて逃げてきた。


ようやく一人になりベンチに座って休んでいると、嫌でも夕べのことが思い出される。


リアムには三年以上お付き合いしている令嬢がいた。それまでにも恋人と呼べるような女性は何人かいた。しかし、この令嬢との付き合いは結婚も考えるほど真剣なものだった。


結婚したら辺境伯城で生活することになる。リアムは正式な婚約前に彼女を辺境伯領へと招待し、数日間そこで過ごすことにした。


しかし、王都での豊かで優雅な暮らしに慣れていた令嬢にとって、辺境伯領での生活は想像を絶するものであった。


食べ物や衣装に文句を言うだけでない。そこに住む人々は野卑で、近づくのも厭わしいということを面と向かって痛罵されたリアムは深く傷つき、令嬢との別れを決めたのだった。


若き領主が初めて恋人を城に連れてきたことで、城の家令を始め使用人たちはとても喜んでいた。十歳の頃に親を亡くしたリアムにとっては、城の全員が家族のような存在だ。


家族同然の存在を侮辱され別れることを決めたリアムだったが、別れることで家族を落胆させてしまうことが何より辛かった。


後継ぎのことでみんなに心配をかけているのは分かる。だが……やはり彼女とやり直すことはできない。


恋人と別れたことを家令のオリバーや使用人たちに告げたのが昨夜のことだ。


但し、彼らはその令嬢が口汚く辺境伯領のことを罵ったことなど知りはしない。知らせるつもりもない。だから、何故急に別れることになったのか訝しく思うだろう。


そう考えていたが、予想に反して彼らはすぐに納得した様子だった。


昨夜のオリバーの言葉を思い出す。


「正直、あの方は辺境伯領での不便な生活に耐えられるのかと不安に思っておりました。きっと王都で不自由ない生活を送られる方がお幸せでしょう」


確かにその通りだった。オリバーがすぐに分かったことを俺は三年かかっても分からなかったんだな。情けない。


彼女はとても献身的で穏やかな女性だと思っていた。料理が得意だと手料理を頻繁に振舞ってくれたし、俺のためなら不便な生活でも何でも耐えられると言ってくれていたのに……。


「リアム様と一緒ならどんな場所でも耐えられます。家族がいない寂しさを私が埋めて差し上げますわ」


優しく手を差し伸べてくれた女性の本音が……


「面倒くさい家族や親戚がいないと思っていたら、面倒くさい使用人が城で幅を利かせているし、高級店も何もない貧しい領地だったなんて騙されたわ。顔がいいから付き合っていたけど、私にはもっと相応しい男性が山ほど言い寄ってくれるのよ!」


だったとは……。


リアムは深く深く傷ついた。なまじ真面目で誠実な性格だけに、その傷は大きかった。


それを乗り越えて、ようやくオリバー達に別れたことを告げたのが夕べだった。


女なんてそんなもん……なのか?


三年間も慎ましく心穏やかで優しい女性だと信じていた令嬢の豹変ぶりは、リアムにとってトラウマになってもおかしくないレベルだった。


「先生、大丈夫ですか? 顔色が悪いようですが……」


その時、心地よい落ち着いた声が聞こえた。


パッと顔を上げると、アッシュブロンドの髪に菫色の瞳が印象的な女生徒が立っていた。心配そうに見つめる表情はまだあどけない少女の面影を残しているが、将来大変な美女に成長するだろうことは簡単に予想出来た。


ああ、先ほどの一年生のクラスの子だな。確かミラ・スチュワートという名前だった。


リアムはミラのことを覚えていた。講義の時に、通信手段の改善を検討する予定はあるのか?と質問してきた生徒だ。


鋭い質問だと感心したので、よく覚えている。遠隔地では人口が少なく、山が多い。遭難などは日常茶飯事なので、通信手段を改善することでそういった問題を防ぐことができるかもしれない。


ミラは心配そうにリアムの顔を覗き込んだ。


「顔色が良くないです……人を呼びましょうか?」


「いや、平気だ。ちょっと疲れて喉が渇いているだけで……」


実際喉が渇いていたこともあり、そのように説明するとミラの目が輝いた。


「あの、良かったら冷たいお茶でも召し上がりませんか? ちょうど疲れが取れる薬効もあるんです。私は手をつけていないので、良かったら……」


そう言いながら、手元の水筒から小さなカップに金色に透き通ったお茶を注いでくれた。


リアムが口元に持って行くと微かにハイビスカスの香がした。ほんのり甘いがさっぱりした喉ごしで、一気に飲んでしまった。


「……美味いな」


本気で驚いてそう言うとミラの顔がぱっと輝いた。


「良かった! カモミールとセントジョーンズワートのお茶にライムとハイビスカスを絞ったんです。最後にちょっとだけ蜂蜜を加えました」


「君が自分で作ったのかい?」


正直リアムはその時、女性全般に対して不信感を抱いていた。元カノの令嬢は自分一人で料理したと言いながら、全て使用人に作らせたものだったことが分かったからだ。


「ジャンと一緒に……あ、ジャンって言うのはうちの料理長なんですけど、ジャンと一緒に考えて作りました」


ミラの手を見ると、掌に多くの小さな傷があることに気がついた。爪は短く清潔でマニキュアなどは塗られていない。更に指は細くて綺麗だが、皮膚が若干厚くなっているような気がする。


元カノの令嬢の掌は真っ白で傷一つなかったし、爪も長くて常に華やかに彩られていた。そうか……こういうところで嘘って分かるもんなんだな。リアムは学習した。


リアムはいつもだったら近づいてくる女性には警戒するが、不思議とミラに対しては警戒心が湧かなかった。彼女の無邪気な笑顔のせいかもしれないし、最初から好ましいと密かにリアムが惹かれていたからかもしれない。


「何かありました?」


ミラの言葉に甘えてしまったのは、いつもより気弱になっていたせいだろう。気がついたらリアムは最近恋人と別れたことをミラに話していた。


こんな個人的な話を聞かされて迷惑だろうに、ミラは一生懸命考え込んでいる。何か言葉をかけてくれようとしているのかな。彼女の愛らしい口からどんな言葉が出てくるのかと少し胸が弾んだ。


「お別れして後悔しています?」


彼女の質問に俺は首を横に振った。


「いや、別れて正解だったと思う」


「では、お別れして一番辛いのは何ですか?」


リアムは考え込んだ。


「城のみんなをがっかりさせてしまったことかな。みんな、辺境伯夫人を迎えることを楽しみにしていたから。」


「恋人を失ったことではなくて?」


リアムはそう聞かれてハタと思った。確かに彼女に騙されていたことに対する怒りや悲しみはあるが、彼女を失ったことへの悲しみはそれほど……大きくないかもしれない。


彼女は言葉を続けた。


「あの、私が幼い頃、小さな捨て猫を拾ったことがあるんです。ガリガリに痩せて、汚くてボロボロで。私はその子の世話をしたくて、お父さまにその子を飼わせて欲しいと必死でお願いしたの。でも、お父さまは許してくれなくて、取り上げられて殺されてしまいました。……後日、お父さまは血統書付きの立派な子猫を連れて帰ってきた」


「……それは、酷いな」


ミラの顔が泣きそうに歪んだ。彼女の悲しそうな顔を見て、リアムの胸も痛くなった。


「私は子猫が欲しかった訳じゃないの。あの子が欲しかった。先生は、奥様が欲しかったんですか? それとも、その方が欲しかったんですか?」


そう聞かれて、リアムは衝撃を受けた。確かに結婚して領民を安心させたいという気持ちが強かったことは否定できない。


優しいから。


献身的だから。


料理上手だから。


辺境伯夫人にふさわしいから。


だから、俺は彼女と結婚しようと思ったんだろうか?


ただしゃにむに彼女じゃないとダメだと感じていた訳ではないことは確かだ。


俺はこの少女の洞察力に舌を巻いた。


「……俺も彼女に真剣に恋してはいなかったのかもしれない。悪いことをしたな」


リアムの言葉にミラは慌てた。


「あ、あの、ごめんなさい。何も知らない癖に偉そうなことを申しました。もちろん、先生は恋人を愛して大切にされていたと思います。だから、領地に一緒に行ったんですよね? そして、結婚するつもりだったんですよね? 誰でも大事な家族を侮辱されたら怒ります。悲しいです。百年の恋も冷めるって言うじゃないですか。だから、仕方のないことだったんですよ」


「そうか……そう言ってもらえると少しは気が楽だ」


「恋っていうのは、理屈じゃなくて突然グッときてガーッと燃えるものですから。先生も元恋人の方も、それぞれいつか出会う運命の方がいらっしゃると思います」


そう言いながらミラはニッコリ笑った。


猫のように少し吊り上がった大きな瞳が弧を描き、目じりが下がる。整いすぎて彫像のようだった顔立ちが柔らかく崩れて、あどけない少女の笑顔になると印象がガラッと変わった。その瞬間、リアムの心臓が跳ね上がり動悸が激しくなる。


彼女が言った『グッときてガーッ』という言葉が頭の中でリフレインする。


ドキドキしながらミラを見ると彼女は「ん?」というように首を傾げる。その仕草は小動物のようで愛くるしい。


可愛いすぎるだろう!


という内心を隠して、リアムはミラに御礼を言いながら、どうやったら彼女と親しくなれるだろうかと頭を忙しく働かせていた。このまま別れてそれっきりにはしたくない。


「き、君は……その、料理が好きなのかい?」


「はい! 大好きです」


「うちの城には変わった食材があるんだ。野生肉とか山菜とか……。料理長はちょっとエキセントリックで迫力があるが、腕は確かだから一緒に料理したら楽しいんじゃないかな」


ミラの顔がキラキラと輝いた。ああ、なんて愛らしいんだ。


「わぁ! 野生肉に山菜!!! 大好物です。素敵ですね!」


「今度夏の休暇中にでも辺境伯領に来ないか? 友人と一緒でも構わない。城は広いから何人でも泊まれるし、避暑にいいんじゃないかな?」


「ええ!? 本当にいいんですか? 嬉しい! 友達に聞いてみますね! ありがとうございます!」


俺の下心には全く気づかない様子のミラは嬉しそうに立ち上がると、小さく手を振って去って行った。


……まずい。かわいい。


恋人と別れたばかりでこんな気持ちになるのは不謹慎極まりない。


いや、最低な男だ。


……友達。そうだ。友人以上の期待はすまい。少なくとも最初は。うん。あくまで友人として招待したんだからな。


リアムはそう自分を戒めながらも、彼女がうちの城に来るかもしれない、と考えただけで気持ちが浮き立つのを抑えることができなかった。


気がついたら凹んでいた気持ちが上向きになり、午後の講義を気持ちよく行うことができた。


彼女は不思議な少女だ。今まで付き合った女性に対してこんな気持ちになったことはない。


ミラのことを考えると、心臓がどきどきして胸が締めつけられるように感じる。でも、決して不快ではない。彼女と次に会えるのはいつだろうと考えるだけで、待ち遠しくフワフワと足取りが軽くなるような変な気持ちになる。


これが恋だというなら今までの恋愛とは確実に違う。


もしかしたら……これが初恋なのかもしれない。二十五歳の男が気持ち悪いな、と反省しつつ胸の高鳴りは止まらなかった。


**


その日の夕方、リアムが帰り支度をして学院長に挨拶をしていると、ドタドタと荒い足音が聞こえて学院長室の扉が乱暴に開けられた。


「学院長! 大変です。一年生のミラ・スチュワートが階段から落ちて怪我を負いました!」


その名前を聞いて、リアムは内心激しく動揺した。


あまりに心配だったので、適当な口実を作って学院長と一緒に医務室までついて行った。


ミラの意識は戻っておらず、頭を打っているので安静第一というのが医師の診断だった。


彼女が目覚めるまで傍についていたい……そう思っても実際にそんなことを言い出せるはずもなかった。


リアムは仕方なくその日は学院を後にしたが、後日どうしてもミラのことが心配で再び口実を設けて学院を訪れた。


ミラを探し回って彷徨っていると、彼女が同年代の少年と一緒にベンチに座っているのが見えた。


ああ、良かった。元気そうだ。


胸を撫でおろすリアム。


しかし、ミラと一緒にいる少年は、彼女に対してやけに距離が近い。


馴れ馴れしいな。


不愉快な感情がこみ上げてくる。


その時、ミラが大きな声をあげて笑った。弾けるような笑顔を見て大きな衝撃を受けた。


彼女はあの少年と一緒にいて生き生きと輝いている。二人で顔を見合わせて微笑む様子は、初々しい両想いのカップル以外の何者でもない。


リアムの胸に暗い影が差した。


それにしてもあの少年をどこかで見たことがあるような気がする。


その時後ろから話し声が聞こえた。


「ミラ嬢はやっぱり可愛いよなぁ」


「おい! 冗談でもやめとけよ! 王太子殿下の婚約者だぞ。ケント殿下はミラ嬢のことになると相当神経質になるらしい。殿下の逆鱗だ。近づかないのが一番だよ」


それを聞いて「ああ」と納得した。


そうか。そうだよな。あれだけ魅力的な令嬢が誰のものにもなっていないはずがない。


それに一緒にいる少年は王太子だ。話をしたことはないが、見かけたことはある。


何不自由ない恵まれた環境で育ったにも関わらず努力を忘れず、国民の人気も高い。自信家で多少傲慢さが見え隠れするが、優秀で人心を掌握する力もある。将来良い国王になるだろうとの評判だ。


そうか……彼女は王太子の婚約者だったんだな。それに彼女は彼と一緒にいて、とても楽しそうだ。漏れ聞いた会話から王太子も彼女を大切にしているのが分かる。


俺なんて……お呼びでもなかったってことか。


胸で希望に膨らんだ風船がシュッと萎んだ瞬間だった。


それに、俺は彼女からしたら十歳も年上のおっさんだ。気心が知れた同じ年の王太子と結婚した方が間違いなく幸せになれるだろう。


俺の城に招待するなんて……今考えると恥ずかしい申し出をしてしまった。


まぁ、このまま連絡を取らなければ、自然に消滅する程度の約束だ。


リアムはその後ミラに連絡を取ることはなかった。

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