駱駝

 砂鯨の所まで案内を買って出てくれたセ・アクと別れて、集落めがけて呪いの丘を渡る。

 シンの谷から暁光の都を目指した道程をメルセゲルは思い起こした。旅というには短すぎるが、久々の感覚は彼女を高揚させた。

 日没の一族の集落は、イアトの話と同じだった。人の気配はなく、廃墟ではあるが家屋の内部は清潔に保たれている。これは一族が、呪いの丘から移住してなおも、祖先の居着いた土地を大事にするためだという。

 家具にも老朽は見られず、問題なく夜を過ごせそうだった。

「静かだ」

 ひととおりの住居を確認して、集落はもぬけの殻だとわかったところで、ふと、思ったことを口にする。

 周囲にいるのは、外に停めた砂鯨だけ。彼女は今夜、砂漠の辺境に、独り。

 メルセゲルは喉を鳴らした。

「よっぽど妖女らしいかもな」

 日付は跨いでいる。儀式は今日。

 あの側近がのも、わたしがネブラトゥム救出に動かないことに業を煮やしてのことだったのかもしれない。そう考えるとメルセゲルは、あの側近を不憫に思うのだった。

「確かに、五日も夫を放っておく妻というのも、な。考えものだ」

 利害の一致による婚約に甘えていた点を、彼女は反省した。

 集落を見渡して、最も大きな家屋を目指す。

 セ・アクがメルセゲルをここに送り出したということは、集落のどこかに手がかりがあるということだ。外周を砂鯨で周ってみたところ、シンの谷と比べてわずかに小規模といった感じだった。

 静寂に包まれたこの集落は、メルセゲルを試すように聳え立つ。

「いいな」

 彼女もまた、挑戦を楽しんでいる様子だった。

 大きさの目立つ扉を押し開ける。

 足を踏み入れてみると、掃除をしてある程度だった他とは違い、手入れが行き届いているのが分かった。灯りがないというのに、誰か住んでいるのかと錯覚してしまうくらいだ。

 メルセゲルの夜目は、月影の隣人の中でも随一に利く。かすかな光をも見逃さない、星詠みに備わった能力である。

 星灯りだけでも十分と言わんばかりに、メルセゲルは暗い屋敷を進む。迷うそぶりもなく、彼女は難なく最奥の部屋に辿り着いた。

 軋んだ扉を開けて、そしてすぐに閉じる。関係のない部屋だと反射で理解した。次の部屋へと移動する。

 音もなく歩く間に、メルセゲルは愚痴を吐いた。

「落日街で見たぞあんなようなの。拷問器具だろ。どうするんだ」

 次に開いた扉は直後に閉じられることはなかった。しかし、メルセゲルはその部屋に入るのはやめにした。

 悍ましいものを感じた。本能が拒絶している。

「本物は迫力がある」

 部屋中に敷き詰められた、おどろおどろしい人形に短剣、その他何ともつかない縄の塊や骨董品。

 呪具の類いだろう。

 それらの機嫌を損ねてしまわぬように、注意して扉を閉めた。

 メルセゲルはその後も、屋敷を満遍なく見て回った。服飾の部屋、食卓、寝床、使用人の部屋。ところが。

「おかしい」

 どれだけ見ても、書斎だけは見つからなかった。書物の多く所蔵されるその部屋こそが彼女の狙いだったのだが、そもそも屋敷にないとなると、それはそれで不自然である。

 秘術とまで称されたのだから、隠されていて当然なのだが。

 窓辺に月の光が差し込んだ。

「もうそんな時間か」

 この時期の月の昇りは、太陽より数刻早いくらいだ。

 朝まで時間がない。

 理解はしているのだが。

「星を見たい」

 慣れない作業に疲れてしまって、メルセゲルは外に出ようと、くり抜かれて出来た窓を見た。ここから出れば、すぐに夜空が迎えてくれるはずだ。

 星図の内に身を置くことは、彼女にとって重要な息抜きだった。

「……ふむ?」

 身を乗り出した彼女が首を傾げる。

「あれは、東屋?」

 屋敷に囲まれた中庭のような場所に建物が見えた。先ほど、砂鯨の上からでは視認できなかったが。確かにある。

 それだけではない。人影が見えた。

 月光に照らされて、白く、佇んでいる。

「ネセト」

 大急ぎで東屋へ駆ける。谷の岩肌を思わせる固められた砂地はメルセゲルにとっては走りやすかった。

 シーツを纏ったネセトはぼうっと立っていた。

「ネセト!」

 声を張ると、ゆっくりとネセトがメルセゲルを向く。彼の足元には、もっと小さな影があった。

 息を整えながら、歩み寄る。

「猫」

 石灰のような色合いの猫だった。東屋の床に散らばった、古ぼけた紙に体を擦り付けている。

 ネセトはぼんやりそれを眺めていた。

 視線を動かし、メルセゲルのこともじっと見ている。

「……」

 猫がふるふると体を震わせる。

 メルセゲルは、紙の一枚に目を留めた。

「“星送り”?」

 咄嗟に屈んで、それを読む。

「なぜ」

 知っている、と疑問を囁く。

 帰り道を失った星は、星の墓場で墓守と出会い、助けを借りて空に帰ると書かれていた。紙面には、古代の石板に描かれるような絵まで丁寧に。

 メルセゲルは眉を顰めた。

「東の言語だ」

 いくら読み書きが出来るといっても、この地の人間が書くとは思えない文章。

 自身の影に入ったメルセゲルのことを、ネセトは変わらず見つめるのみだ。

 彼女は他の紙にも目をやった。どれも詩のような文に絵をつけた、作品であることが分かる。

 メルセゲルはネセトを見上げた。

「おまえが?」

 “星の出る砂漠 狩人の夜”

 “呪いの姫の剣は折れて その名の通りの呪いを受けた”

 “葬列は終わらない”

「……」

 どれも殴り書きに近いものばかりだったが、きちんと読み取ることが出来る。

 各一枚で完結し独立していた。童話のようでいて伝承のようでもあり、異様な雰囲気を醸していた。

 最後の一枚を手に取ろうとすると、猫が腕にじゃれてきた。反動で、ひ弱なメルセゲルの体は簡単に傾く。

「う」

 猫に圧されて、彼女が東屋に倒れ伏す。紙がふわりと宙に浮き、繊維と、猫の毛が舞って星明かりに煌めいた。

「どいてくれ」

 メルセゲルの視界は猫の胴体で埋まってしまった。

 ぼろの紙が痛んでも困るため無闇に猫を退けるわけにもいかず、紛れた一枚を手探りしていると、その手に紙が置かれた。

 驚いて体を起こす。猫が彼女の上半身を滑り降り、太ももの辺りに収まった。

 彼女に紙を握らせたのは、ネセトの真っ白な手だった。

「ありがとう」

 隣を示す。床を軽く叩くと猫のヒゲが、るる、と震えた。

 ネセトはぼんやり顔のまま、メルセゲルを見下ろしていた。

「……」

 寂れた集落に、衣擦れの音が響いた。案外素直にネセトはそこに座ったのだった。猫の耳をつついていた。

 メルセゲルは紙面に目を戻す。

 ネセトに手渡されたそれが、本当に最後の一枚だったものだから、彼女は余計に驚いた。

 その表題は。

「太陽が三つあった日……?」

 “大きい方は見えないはずで 小さい方は虚となった

  空を堕つ新しきは赤き導きの再来なり”

「星の詩に似ている」

 思わず彼女は口走った。

「これだけじゃない、ここにある全部」

 紙を見返す。

「おまえも星を読めるのか」

 驚嘆の込もった問いかけだったが、それは確信に近しかった。

 ネセトの白く透明な瞳がメルセゲルを捉える。水晶玉のようだった。

 集めた紙を束にまとめ、捲っていく。ある紙の箇所でぴしりと彼女の動きが止まった。

 それは『太陽が三つあった日』の裏面だった。

 メルセゲルの瞳孔が縮み、大きく揺らいだ。

「な…なんで、これ……」

 言葉にならない。

 描かれていたのは動物だった。山を背負った天馬から翼を捥いだような姿。

 一気に記憶が蘇る。

「師匠のだ」

 間違いない、彼女の師匠が相棒と呼び慕っていた、あの妙な見た目をした、不思議な生き物だ。

「おまえ、師匠を知っているのか」

「……」

 ネセトはぼうっとしたままだ。月の光によく似合う、白くて重たげな睫毛が瞳に掛かっている。

 メルセゲルはネセトの眼前に、紙面を突きつける。それからその絵を指差した。

「……」

「……」

 まんじりとも動かずに、何秒間も見つめ合った。

 ネセトの透明な瞳は茫洋としていて、メルセゲルの光の宿さない瞳とはまた違った迫力があった。全てを映し返す白と、全てを呑み込む黒は互いに譲らなかった。

 その内、二人の間に挟まれた猫が、うるる、とネセトに頭突きした。静かに火花を散らしていた視線が切れる。

「……はぁ…いや。いいんだ。多くを語らないひとだった。優しいひとだった、わたしは沢山もらった……わたしを置いて、どこかへ行ったのも、あのひとなりの何かがあったんだと、思えるだけの」

 ぽつりぽつりとメルセゲルが語った。

「会えずとも構わないんだ。それでも、追わずにはいられない。会えるかもしれないのに、止まっていたら、本当に追いつけなくなる。それだけは、嫌だ」

「……」

 項垂れるメルセゲルの手を、ネセトが不意に取った。彼女が呆気に取られているのも気に留めず、ネセトの指は、つと彼女の手のひらをくすぐった。

 初めメルセゲルは、ネセトが自分を励まそうとしているのだと思った。だが、だんだんと、本来の意図に気がついていく。

 ネセトの指は、いくつかの動きを繰り返していた。まるで文字を書いているような。

 ハッとしたメルセゲルが手のひらに意識を注ぐ。

 ら、く、だ。

 メルセゲルは顔をもたげた。

 簡素な線で描かれた紙の上の生物を見る。

「らくだ……」

「……」

「そう、か。それが、この動物の名前か。教えてくれたんだな。ありがとう」

 整った顔は頷きもしなければ、表情が動くこともない。それでもメルセゲルの心には温かなものが湧いていた。

 と同時に、今の今までしまい込まれていた師匠との会話の端が、脳内から引っ張り出てくる。

「そうだった。恵みの河以西の砂漠では、明星を大きい方の太陽と。本来の太陽は、小さい方の太陽と呼ぶんだった」

 思い当たる節があった。睡魔が忍び寄ろうとしていた思考回路を叩き起こして、高速回転させる。

「“空を墜つ新しき”……凶星。では、これはまさか……ネブラトゥムが、ネセトが、儀式を受けた日の」

 メルセゲルは頭に血が昇っている感覚になった。

「わたしが、生まれた日の星詩」

 紙を裏返す。端に描かれたらくだの上部の汚れだ、紙いっぱいに付着したインクは意味など無いようにしか見えないが。これが意図して書かれた点描であれば話は別だ。

 それはつまり。

「割り出せるかもしれない。この日の星図を」

 凶星の星図ホロスコープを取ることは禁忌であった。故にその夜に生まれたメルセゲルこそが凶星の星図であるとして怖れられた。だがそれはあくまでも、月影の隣人の慣習である。

 メルセゲルの目が輝いた。

「この日の星図を読めれば」

「……」

 ネセトは変わらず、虚な目で彼女を見つめ返していた。

 メルセゲルが東屋から転がり出る。彼女の膝で遊んでいた猫は、不満そうに首を傾げた。

 近くで手頃な石を探してきて、紙面通りの点を中庭の砂地に刻んでいく。

 壮大な作業だった。地面に星空を描こうというのだ。

「ああ……はは、大変だ」

 そう溢す彼女の表情に苦は一切なく、むしろ心躍らせている様子だった。

 ネセトは体をねじり、メルセゲルの作業を見守った。

 猫だけはのほほんと尻尾を立てて、二人のことを行ったり来たりした。

「……」

 ネセトは丸くなって東屋と地面の境に座っていた。

 夜明けの近づく東屋は煩雑としていた。

 メルセゲルが何度も読み返すので古い紙切れがあちこちに散らばり、猫の気まぐれでメルセゲルの持ち物はほとんど床の上に放られた。

 猫におもちゃにされた挙句に飽きられた羅針盤コンパスが、蓋の開いたまま転がっている。

 針の先は、ネセトを指していた。

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