エピローグ

「……“祝福の橋”か」

 一度ならず二度までも、怒涛の砂嵐で空遠くまで飛ばされてしまったメルセゲルは、空鱏を労いながら、なんとか王城の周りを航行していた。

「なンだ、分かったような口利くじゃねーか」

「隼の王の真名は、祝福の意味を持つと聞く」

「ンだそれ、噂ってだけじゃねーか」

「だが、星にとっては十分な因果だ。それに、そもそも真名というのは、ネブラトゥムのように公にしてる方が稀だしな。特に王は」

「呪いをまともに受けちまうからだろ? 暁都は誰でもそーだったけどな」

「発展してるからな、暁光の都は。民の意識水準が高い。呪いは怖いもの、なるべく呪われない方が良い、という考えが広く浸透してる」

「あ? トーゼンだろ。他はちげーってのかよ?」

「そうじゃない土地もある、勿論」

 メルセゲルは言葉を切って、夜空を見上げた。

 空鱏はまっすぐに、ある地点を目指していた。

「にしてもなんだったんだ、あの白いのは」

 素直な疑問をル・タが口にする。

「気味悪ぃ。命がまるで無さそうだった」

「剣の王の言う失敗作なんだろう、恐らくは」

 彼女が険しい顔つきをした。

「星宿しの儀……つまりル・タ、おまえを降ろそうとして、なんらかの原因によって上手くいかなかった。本当に憶えてないのか?」

「憶えてねー」

 ぶっきらぼうにル・タは言う。

「どうして選ばなかったのかなんて、どうして選んだのかなんて知らねーよ。気づいたらオレはあの体に在って、ル・タだったんだ」

「ふむ…本当はおまえから聞けるのが、一番いいんだがな」

 メルセゲルから息が溢れた。

 月影の隣人たちが囚われている監獄に帰ってくると、彼女は空鱏を優しく抱きしめた。

「遊泳じゃなくなってしまった。ごめん」

 空鱏は甘えるように鳴いてメルセゲルに擦り寄ってから、仲間の輪に戻っていった。

 メルセゲルの表情が和らぐ。

「やあ、来ると思ってたよ」

 物陰から現れた剣の王にも、彼女は慄くことはなかった。

「君なら必ず、律儀に返しに来るって、ね」

「人だけに留まらず家畜まで捕らえるとは、恐れ入る。徹底しているな」

「ありがとう、乱暴はしてないよ。制圧とはそういうものさ。広げた領土は管理しなくちゃ、守ってあげられないからね」

「守るっつー建前の侵略じゃねーか」

 不満そうなル・タの声色は当然、剣の王に聞こえるはずもなく。彼は振り乱した長い癖毛を束ねた。湿っているのを嫌ったらしかった。

「僕はね、星詠み。まだ君に、大切な質問をしてなかった。君の口から聞きたいんだ、どうして君が旅に出ることになったのか」

「凶星を見たからだ」

「ふうん? それで?」

「……それで?」

「それで、どうして旅に出たんだい。星詠みは運命を識るだけ。変えることはできない。それなのになぜ、君は、暁光の都へ…西へ、向かったのかな?」

 メルセゲルが言葉に詰まる。

「その根幹、君の因果。それこそが君の最も望むものだと僕は思う。何も出来ない身で、どうして外へと出向いたのか。シンの谷を捨て、月影の隣人を捨て。君を西へ導いたものはなんなのか」

 光を宿さないメルセゲルの瞳が逸らされる。

「もし君の望みが、僕の力になれることなら、僕は喜んで手を貸すよ」

「ンなのお宝に決まってんだろ、金だ金」

「例えば……正当な評価を受けて、裕福な暮らしをしたかった?」

「おっ、分かってんじゃねーか。やったなオイ!」

「それとも、冒険に身を投じ、まだ見ぬ景色を見たかった?」

「あー。それも分からなくはねーぞ」

「もしくは……開かれた場で人々との繋がりを持ち、寂しさを埋めたかった?」

「……いや、ねーな。それはねーよコイツに限って」

「教えて。君の欲しいものは何?」

 石と砂を穿つ雨は弱まってはきていたものの。彼らには痛いくらいに降り頻る。

 メルセゲルの前髪から雫が垂れた。

 彼女は鈍い動きで顔を上げる。

「星を、見たかった。星詩は、星を見る土地によって変わる。凶星が閃くほどの、何かがあるのなら。識らなければならない、わたしは、星詠みだ」

「本当にそれだけ?」

「え」

「たとえ星詠みがいなくとも。各地に、それこそ列強と称される大きな都市や国家なら、星図をつける天文学者の一人や二人はいる。シンの谷にそれを取り寄せるようにすれば、自ら出向かなくとも、星を読むことができる、そうじゃない? わざわざ危険を冒さずに。実際、星詠みがシンの谷から出てこなかったのは、そういう理由だったじゃないか。星詠み狩りに遭わないために」

 メルセゲルが悲痛な面持ちをした。

「それでも君は、谷を出た。それほどまでに渇望する何かがあったからだ。僕が知りたいのは、そこだ」

「確かにな。谷から見りゃ、暁都はでけー国家だが。でけー国を目指すってンなら。まず最初に、一番でけー煉瓦の國を目指すはずだ。赤い土地デシエルトの、最東端。あれに比べりゃ、西側はなんもねーようなモンだぜ」

 ル・タは興味津々といった様子だった。

「砂漠と、ちっせー勢力と、後はなんだ…呪いの丘くらいだろ。シンの谷より陰気な」

赤い土地デシエルトに伝わる赤き導きは、往々にして東よりもたらされるとされる。だから人は東を目指す。赤い土地デシエルトに生まれた人間は、東を好む。けど君は反対を行った」

「…………同じ星空を見て。違う未来を見る。それが人の可能性、運命の岐する余地」

「オイコラ、濡らすンじゃねー!」

 静かにメルセゲルが切り出して、星鑑を取り出した。

「冷てーモンは冷てーし、不快なモンは不快なンだぞ!」

 星鑑の放つほのかな光に、剣の王も目を奪われる。

 明るくはないが、心が安らぐような感覚を得た。

 メルセゲルの細い指は、星盤をなぞった。

「これは元々、師匠の持ち物だった」

「ふうん。君の失せ物は、その誰かなんだね」

 気遣わしげに剣の王が歩み寄る。

「隼の王なら、知ってるかも。すごくすごく、長い時を生きているから」

「彼が?」

「うん。僕から、彼と話が出来る場を設けようか」

「……そこまで手にしたいか、星詠みを」

「強い武器は誰だって、手中に収めていたいだろう?」

「ああ、そうだな。星詠みは武器と一緒だ。己だけでは何も出来ない。使われることでしか、その力を示せない」

「そして、使う者が強ければ強いほど、星詠みの影響力も強くなる。その逆も然り。優秀な星詠みであればあるほど、使い手の覇道が確たるものとなる」

 剣の王はそこで、わざとらしく手を打った。

「あ、そうそう……言い忘れてたんだけどね。鏑の終わりを告げる矢は、頭領のものじゃないと駄目なんだ。つまりは、ネブラトゥムか、君か、僕が用意したものじゃないと。もちろん僕は、君のためにそれを用意することは出来るけど」

 その先をあえて彼は言わなかったが、簡単に想像できた。彼がそれを進んで行なうのは、メルセゲルが彼に従うようになってから、ということだ。

 メルセゲルは目を閉じた。

「はっはーん…スゲーなコイツ。だから護衛を許さなかったのか」

 ル・タが面白そうに言う。

「祝いの席だからって、オマエとオウサマだけを招いた。ま、強引だったが、初めから、詰みの一手前まで持って来てたってわけだ。オイどーすんだ、大人しくコイツのモンになっとくか? 鏑を終わらす気なんざさっぱりねーぞ、コイツ。性格わりー」

 感心している様子だった。

 星鑑に雨が打ちつけて、ル・タが不愉快を溢す。

 メルセゲルの囁きは、雨音にかき消された。

「…だから……ははっ…熱烈だな。この…が……」

「何?」

 剣の王とル・タの声が重なった。

 彼女が顔をあげると、纏っていたヴェールが水音を立てた。

「……隼の王より剣の王へ。礼はいいから早く来い、だそうだ」

 いつものボソボソ声ではなかった。凛としていた。

「失敗作とやらは拐われた。ネブラトゥムと共に。他でもない、隼の王によって」

 剣の王の手甲がぴくりと跳ねる。

「あの塔の最上部。わたしが到着した時には、隼の王が吹き荒れていた。ネブラトゥムに触れていたこの身は彼の起こした風の勢いに負けた。きっと転移のまじないだ」

 全てを聞き届けた後も、しばらく剣の王は黙っていた。意表を突かれたのか、僅かに動揺しているのが、不安げな視線から感じ取れた。

 雨音は細く淑やさを増していく。

 ル・タが星鑑から呻いた。

「何言ってんだ急に」

「失敗したという星宿しの儀。隼の王と関わりがあるな」

 剣の王は答えない。

「わたしは、赤い土地デシエルトの表面的な歴史はそれなりに知っている。そして無論、内情までは分からない。何が起こったのかも、誰がどこまで関わっていたのかも。現状、そこが欠けている」

 メルセゲルは自身の首に当てた手を、へそまで下ろしていった。

「……その儀式、ネブラトゥムとも“何か”ある」

「はぁ? ンでそこでオウサマが出てくんだよ」

「“宵を埋めるは虚か 空に座すは星か”」

 腹に置かれていた彼女の手が、頭上を指した。

「隼の王は、偶然、ネブラトゥムを連れ去ったわけじゃない」

「あの抜け殻みてーのだけが狙いだったンじゃねーってのか?」

「詳しくはまだ、分からない。だが、あれは必然だ」

 固まってしまったように見える剣の王に、今度はメルセゲルが詰め寄った。ぎくりと彼の肩が揺れる。

 吸い込まれそうなほど大きく暗いメルセゲルの瞳に、剣の王の端正な顔が映った。

「ル・タは、偶然、ネブラトゥムに降りたわけじゃない」

「……!」

「必ずあるはずだ、星宿しの儀を失敗に導いた、理由が」

「探してくれるの」

 剣の王は反射のように口だけを動かした。

「僕の星詠みになってくれるの」

「いいや、おまえの願いはわたしじゃない。剣の王、おまえの根底にあるのは、わたしじゃないだろ」

「けどよ。コイツに協力するにしても、協力してもらうにも、オマエはコイツのモンにならなきゃならねーンだよな? 鏑の取り決めがある限り」

「暁光の都との戦争も、星詠みを手に入れることも。おまえにとっては、主目的の副産物でしかなかった」

 メルセゲルはつま先を立てて、剣の王の顔に触れた。

「あれを見ろ」

 触れた手で、濡れきった彼の頭を東に向けさせる。

 深夜よりも早朝と呼ぶに相応しい時分、東の空からは月が昇ろうとしていた。

 驚きのあまり、剣の王は呼吸を忘れた。

 赤らんだ東の夜空に浮かぶ、一筋の曲線。光とも色ともつかない、美しい橋架。

 剣の王はその光景を、陶然と見据えていた。

「ンだあれ」

「雨季に見られる吉兆だ。別名は、天の祝福」

 メルセゲルが踵を下げる。

「またの名を、星空に架ける矢」

「月虹……ふふっ…あははっ!」

 初めて剣の王が、顔を綻ばせた。くしゃりと眉間を歪ませる。

「あーあ、なるほど、完敗だ!」

 彼の大笑いが城塞にこだました。メルセゲルはその様子にそっと頷いた。

 小さくなった雨粒は、もはや霧のようになっている。星鑑についた露を、まだ湿っている袖で拭った。

「なンだ、負かしたのか?」

「さあ?」

「オイオイ、負け犬が吠え面かくのを見るのが醍醐味ってモンだろーがよ」

「吠え面じゃない…よっぽどいい顔で笑ってる」

「はは、あーもう、君って子は本当!」

 さすがに笑い疲れたのか、剣の王が何度か深呼吸を繰り返す。それから感服したような光を湛えて、メルセゲルを見下ろした。

 彼女もまた、彼を見る。

 剣の王は霧を吸ってから、口を開いた。

「確かにこれで鏑は成った」

 追い詰めるような圧迫感など欠片も感じさせない、清明とした眼差しだった。

「どうやら僕は読み負けたみたいだ、星詠み……いや、王妃セプデト」

「勝敗だけでは命運は決さない」

「うん。それが君の強さなんだろうね」

 剣の王はその場で跪く。当然、彼の頭はメルセゲルよりも低い位置に。

「さてここからは、国の主としての対等の話。隼の王に拐かされたという、君の夫、明けの王ネブラトゥム。それと我が息子ネセト。彼らを救出するために、手を組もう」

「負けといて対等たぁ、虫のいいヤツだな」

 ル・タは不満げだった。

 メルセゲルが霧の風をかき混ぜる。

「違うよ、ル・タ。列強といえどわたしは王妃、彼は王。こちらからでは頼みづらいことを、先回りして言ってくれたんだ」

「負けたそばから読み合いしてンのかよ!? やべーヤツ」

「ル・タ? あのル・タ? ええっ、この中にル・タがいるの?」

 剣の王はしげしげと星鑑を眺める。少年心を忘れきれていなさそうな彼の表情に、メルセゲルの胸中が暖かくなった。

「いいやつだな、おまえ」

 メルセゲルは漆黒の睫毛をもたげた。

 上空をゆく煌めく光が、雨粒と星のどちらなのか、判別はつかなかった。

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