訪れ・夜
竪琴の旋律は、暗い石造りの部屋に奏でられ続けた。
たとえ砂嵐が轟こうと、雨音が天井を打ちつけようと。
王子はハープを爪弾くことをやめなかった。ネブラトゥムもまた、その音色に聴き入っていた。彼の演奏は、外界と切り離されたような感覚をネブラトゥムにもたらした。塔の外側の全てが遠くに聞こえた。
「……」
音と音の間隔が開いていき、そして止まる。
弾き終えたのだ。
ネブラトゥムが拍手を送った。
「……」
特に何をするでもなく、王子はシーツを被った背中で、拍手を受け取っていた。
「……」
だらりと垂れ下がっていた白い腕が、おもむろに弦に延びる。
こうしてまた曲の始まりを迎える。
快い音楽だった。拍手を止め、穏やかな目つきをしたネブラトゥムの鼻から息が抜ける。
もう何度も繰り返されているやり取りであった。
ネブラトゥムは腰掛けていた上等な椅子に体を預け、うつらうつらとしていた。石を打つ淡い雨の音も相まって、睡魔には早々に降参することになりそうだ。
ぼんやりとした視界に、シーツの王子が揺れている。
結局、あれ以降に交流はない。王子はずっと竪琴を弾き続け、ネブラトゥムは特段、口を挟むこともなく、少し離れた窓辺の椅子で、ずっとそれを聴いていた。
呆けたような王子の表情は、一見するとメルセゲルのそれによく似ていた。しかし、意思を感じない。その点で彼女とはまるきり違う。
まるで心が無いような風体の王子であったが、反面、彼の演奏には目を見張るものがあった。彼の心の在処は、あのハープなのではないかと錯覚するほどに、連なる音が非常に表情豊かなのだ。驚くほど情緒に溢れていた。王宮の抱える一流の奏者をも凌ぐような、素晴らしいものであった。
とうにネブラトゥムの就寝時間は過ぎていた。瞼が完全に落ちようとしていた。
願くば、ずっと聴いていたいと思った。このひとときが永遠であるようにも思えた。
この部屋に、一陣の突風が巻き起こるまでは。
「なっ……!」
室内が雨風に晒される。咄嗟に腕で顔を覆った。
ネブラトゥムは椅子を蹴倒し、勢いよく立ち上がる。駆けつけると、王子はなおも弦を弾いていた。
「おい」
肩を掴む。突出した骨と、硬い筋肉の感触があった。薄い身体だった。彼を竪琴から引き剥がそうとした。
しかし、王子は見た目の割には頑固なようで、椅子から降りようとはしなかった。虚の表情を浮かべたままだというのに、演奏を続ける。続けなくてはならないと、彼の態度が物語っている様にも映った。
「取り憑かれているのか、お前」
愕然とした顔で、ネブラトゥムは思わずそう溢した。
止まないハープの音色を、嵐がかき消そうとした。煮えきらなくなったネブラトゥムの腕が、無理矢理に王子の体を抱える。
その時、雨音に混じって、笛の音が聞こえた。
「迎えに来たぜ、ネセト」
旋律に乗った風切り音に、ネブラトゥムは覚えがあった。
唸り声をあげた。ネブラトゥムの唇が、風切り音の名前を呼んだ。
風切り音の正体、縦笛を模した耳飾りが、小さく鳴る。
「いっ!?」
意表を突かれた隼の王は、大きく体勢を崩した。
「ネブラトゥム!?」
「何故、お前がここに」
「いやいや俺の台詞!」
ネブラトゥムの蹴りを身軽に躱しつつ、隼の王は未だに状況が把握しきれていない様子だった。
「なんでここにいるんだ、キミ!?」
「テラルの悪ふざけに付き合ってやっているだけだ」
吐き捨てるように彼は言う。ネブラトゥムは今にも飛びかかりそうなほどの怒りを露わにしていた。首や額に筋が浮き出ている。
「戟塵の城塞に何用だ」
彼の苛立ちは火を見るより明らかだった。
「貴様」
彼の怒り様に、隼の王は唾を飲んだ。
「此度の狼藉、よもやあの戦馬鹿と結びついてはおるまいな」
「おぉ、どうかな?」
吹き込む雨粒で濡れそぼった髪を、怪しく振る。
その仕草は、悪戯をほのめかす子供のようだった。
ネブラトゥムの冷えきった目が彼に向けられた。
「……分かった」
ネセトを抱えていない側の手で隼の王に肉薄する。
「今ここでその首、貰ってやろう」
「ないない、ないよ!」
隼の王は大慌てで彼の攻撃をいなした。
「テラルとは通じてない!」
そう言って彼は両手を肩の上に上げてみせた。魔紋が微かに揺らめいた。
「ったく、年寄りには優しくしろよな」
「若づくりにしか興味のない耄碌に? ふざけるのも大概にしろ」
ネブラトゥムは、唇を尖らせる隼の王を、依然として冷ややかに見つめていた。
抱え上げられたネセトはというと、竪琴に戻ろうとネブラトゥムの腕の中で、うごうごもがいていた。シーツは濡れて肌にぴたりとついていた。
宙に立つ隼の王をネブラトゥムが睨めつける。
「道楽ジジイめ。お前が出張ると碌なことがない。此度は何が目的だ」
「何言ってんの、俺の目的はずっとひとつで、一緒のまま。赤き導きの下にある」
「核心を避けるのだな、そうやって、また」
ネブラトゥムの眉間の皺が深くなる。
「これもお前の仕業か」
顎で外を指す。
水気を吸って重くなった羽根の耳飾りに触れた。
隼の王は曖昧の頷きを何度かした。
「視えてた強い生命力の正体、まさかキミだったとは」
言いながら隼の王は、ネブラトゥムから視線を逸らさずに、ゆったりと床に降り立った。見上げることになろうとも、隼の王の醸し出す威圧感は、ネブラトゥムに引けを取らない。
青年、あるいは少年にも見える彼の容姿と、おどろおどろしい魔紋の様相が一つの体を形成している。隼の王の風貌は、神秘を通り越して不自然もいいところであった。
彼は面白がるように腰を叩いた。
「でもいいや、手間が省けて」
「は?」
ネブラトゥムの洞察が鈍る。
隼の王は異形の黒い眼を細めた。
「ずっと気掛かりだったんだ。キャラバンの王である以前に、一人の
室内に入ってきていた雨が弱まる。石面を打つ水音は小さくなって、外界の様子が耳でも探れるほどにまでなった。
空鱏の鳴き声がどこかでしている。
「あの運命の日だ、俺の、導きの赤が、濁ったのは」
どこか遠くを見つめるように、隼の王の顔は風抜き窓に向く。
怪訝の眼差しが彼を射抜いていた。
「お前はいつも回りくどい」
ネブラトゥムは彼の一挙一動に神経を使った。
「目論見だけを心底にひた隠し、遊撃だなんだとほざいては混沌をもたらす。そのような者が列強の一角として、よりにもよって王として名を挙げているというのが我慢ならん」
「ははぁ、そういうもんだ、魔法使いってのは」
隼の王はいたく優しい顔だった。
「俺には俺なりに、矜持ってもんがある。キミにキミなりの信条があるように。その子に」
彼はネセトを指し示す。
「その子なりの譲れないものがあるように」
「随分と漠然たる答えだ。それでこの明けの王が納得するとでも?」
「もちろん思ってないさ。でも、キミが納得するかどうかは、俺の計画には関係ない」
再び空鱏の鳴き声が響いた。ネブラトゥムの意識はそちらに逸れた。
見える。外にはまだ雨が降っていて、その中を進んでくる何かが。
瞳孔が揺れた。
「セプデト」
目と目が合った感覚があった。夜の嵐に照らされ、普段よりも更に一段と暗くなったメルセゲルがこちらに視線を飛ばしていた。
ネブラトゥムの声に、隼の王が窓を振り返る。
「おっと!」
そして空鱏の上の彼女を確認すると、そちらに向かって叫んだ。
「なぁキミ、テラルに言っといてよ、礼はいいから早く来いってさ!」
「何?」
顔を顰めたのはネブラトゥムだ。
「どういうことだ」
「ネブラトゥム!」
空鱏は、背に乗せたメルセゲルと共に石の塔へ突っ込んでくる。
隼の王が手を振る。船出の挨拶のように清々と。
一回り小さな空鱏の体は、窓の幅いっぱいを通過した。
メルセゲルが、ネブラトゥムに手を延ばす。
刹那、ネブラトゥムに抱えられていたネセトもまた、ふらりと彼女の方を見た。ネセトとメルセゲルの視線が交わる。
「ぅ、あ……」
ほとんど嗚咽のようであったが、ネセトが喋ったのは間違いなかった。
彼の声を初めて聴いたネブラトゥムは驚きを隠せなかった。
虚空に浮かべた呪文を見つめていた隼の王も、目を丸くしてネセトを見やり、すぐにメルセゲルを見た。異形の黒い眼に、期待を忍ばせて。
隼の王は無邪気に笑って、片目を瞑る。
それからメルセゲルの延べた灰色の腕をつんと突いた。
「んじゃっ、またすぐに」
彼がそう言った途端、竜巻が巻き起こる。
ネブラトゥムの手を取っていたメルセゲルが吹き飛ばされる。ネブラトゥムは彼女の表情が真剣そのものであったのを見届けるばかりだった。
砂塵に閉ざされた空間には、目まぐるしく流れる砂の他には何もなかった。
浮遊感に身を投じながら、再びネブラトゥムが奥歯を噛み締めた。
「なんのつもりだ、とっとと解放しろ。生憎、年寄り共のお遊びに興じてやる暇はない」
「だから。今回ばっかりは、テラルとはなんもないんだってば。それに、若僧は冒険してなんぼだろ。この状況を楽しめよ」
隼の王はネセトの真っ白の癖毛をあやすように撫で回した。すると、もがいていた彼が大人しくなる。
抱えていたままだったネセトを放してやると、彼は竜巻の風になされるがままに浮遊した。上へ下へと忙しなく移動する彼に、ネブラトゥムはため息をついた。
「お前が嫌いだ」
「だろうなぁ」
ネブラトゥムは頭を抱えた。
「次に視界が開けた時」
隼の王はというと、風に乗るように愉しげに足首を回していた。
「それをキミへの回答としよう、ネブラトゥム」
暴風によって、濡れていた肌も髪も、装束さえもすっかり乾ききった。
唯一、羽根で作られた耳飾りだけが未だ重たげに遊ばれていた。
この砂塵の向こうに何が見えるのか。
ネブラトゥムはじっと、砂嵐と対峙する。する他になかった。
ゆく先に何が待ち受けているのかなど、考えたこともない。故にこそ、脈打つ心臓がどうして早いのか、思い当たるはずもなかった。
ただ、何を目にしても心乱されずにいようという覚悟ばかりは決まっていた。
瞼を閉じると、浮かぶのはメルセゲルの顔だった。
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