祝福
轟轟と雄叫びをあげていた風が止んだ。
水の魔の手は迫ってきている。先刻前に異変を感じた剣の王は、いち早く空鱏に乗り浮上していた。
彼の鱏は荒れる気流にも耐えていたが、そのせいか竜巻に真正面から巻き込まれることとなった。よく手入れのされた甲冑を砂塵が削り、細かな傷をつけていった。
目をやられないようにときつく瞑っていた瞼を徐々に上げる。
まず初めに、眼下の戟塵の城塞を、その無事を確認し、次に音の方向を。何か黒い影のようなものが、物凄い速さで砂漠を呑み込んでいた。
最後に剣の王が、砂嵐の中心に目を向けると、そこには隼の王がいた。砂埃をものともしない、自慢の空鱏の上にすくと立ち、服装やら髪やらを風に強く靡かれて。
彼はあの異形の黒い眼を光らせて、地平を侵蝕する夜色を見据えていた。
剣の王が、空鱏に鞭を打ち、彼の元へと飛翔する。
「よっ、テラル」
「我が友よ、再会を嬉しく思う」
軋む髪を撫でつけつつ、剣の王は彼を見た。
「君に赤き導きよあれ」
「はいはい、隼の王より剣の王へ、赤き導きよあれ」
隼の王は茶化すように手を振った。
「見りゃ分かると思うが、そんな悠長なことしてる場合じゃないぜ」
「だろうね」
地平に目を凝らす。彼の蒼い瞳では、上手く捉えられない。
「何が起こってる?」
「特別なことじゃない。ただの因果だ」
隼の王の口元は吊り上がっていた。
「閉じた墓から死が溢れかえってるのさ」
剣の王が眉間に皺を寄せる。
「恵みの河だよ。死の呼び水だ」
死の呼び水。
予期せぬ報せに、剣の王は目を見開いた。そして勢いよく、河の方向へと首を振る。いつもの彼ならば決して見られない仕草であった。
「どうして今」
驚愕に染まった彼の顔は、年相応の焦燥を垣間見せた。
「まだ乾季のはず」
そこで彼は、ハッとした。
「……予見したのか、まさか、これを」
彼の脳裏によぎったのは、王妃セプデトだ。
手を口に当てがう。ざらざらとして痛いほどだった。
「なんてことだ」
怒涛の速さで砂漠を進む、水の塊から目が離せなかった。
隼の王は、そんな彼に対して言った。
「やべぇぞありゃ。いつもの水浸しじゃきっと済まされねぇ、もっとデケェ、損失になる」
「ふ、ふふ」
肩を震わせる剣の王を、隼の王が訝しげに見つめる。
剣の王の視線は明らかに、ここではないどこかに向かっていた。
彼は譫言のようにしきりに呟いた。
「ああ、どうしよう、本当に素晴らしいな、君という子は……絶対に欲しい」
彼の瞳が気味の悪いギラつき方をするので、隼の王は舌を突き出した。
「とはいえこれは確かにまずいかも。戦争による破壊は望むところだが、天災によって痛手を負うのはあまり喜ばしいことではないかな。かといって、砂嚢を敷いて、避難を促して。果たして間に合うかと言えば、無情だけど間に合わない」
「水は疾いからな」
「うん、思ってるよりもずっと…ね」
顔を伏せる。生まれ故郷を思い出していた。彼の記憶が正しければ、あれはよく暴れる川で、洪水の起こるたびに甚大な被害をもたらしていた。
人も物も呑み込んで、巻き込んで、大波となって地平を覆うのだ。水が引いた後の街に、そうしてぐちゃぐちゃになった瓦礫と肉片が辺りに散らばる。なんなのか、なんだったのか、分からないくらいに、無慈悲に。
幼いながらに、残酷な災いが恐ろしかったのを思い出す。彼は、彼自身も気がつかない内に、身震いしていた。
隼の王が、小刻みに震える彼の頭をわしわしと撫ぜる。
「だからこそ俺はここへ来たんだ、友よ」
悲嘆の吐息を零した剣の王とは対照的に、隼の王は好戦的な笑みを浮かべていた。
洪水はもうそこまで来ている。剣の王が首を傾げた。
「何言ってるの」
「それが俺の赤き導きなのさ!」
言うや否や、隼の王が空鱏の背を踏み鳴らす。空鱏は甲高い声をあげると、突風のごとくその場を後にする。砂埃にまみれた剣の王の髪が激しく乱れた。
隼の王の目指す、溢れ押し寄せる水は、既に城塞の石砦を崩して進んでいた。その勢いは、堅固を誇る要塞と真っ向からぶつかっても、全く衰える気配がない。
颯爽と立ち乗りを披露した隼の王も、自身の空鱏を止める気はないようだった。
「列強が一、流砂のキャラバンを率いる隼の王」
朝を待つばかりの空に、彼は声高に言い放つ。
異形の黒い眼は、王城へと静かに忍び寄る水面を見つめていた。
砂避けであろう装衣がはためく。隼の王が腕まくりをすると、若々しく逞しい筋肉が、肌が覗いた。彼の身体を頬まで埋め尽くすのは、戦化粧にも似た、夥しい魔紋であった。
「祝福を冠する我が名に於いて」
隼の王は虚空を指でなぞる。日焼けした指が描きだした呪文が、空に浮かび上がっていく。
水は見る間に迫り来る。砂漠を浸して上がってくる。
彼の空鱏がくるりと旋回したかと思うと、小さな竜巻が起こった。それから一気に舞い上がり。
「この流れ、止めさせてもらおう」
彼が頭上に持っていった腕を振り下ろす。するとその途端、洪水は透明な壁に阻まれたように進路を失った。
隼の王がさらに呪文を書き綴る。
「恵みと呼ばれる河より出づる水なれば…っ!」
彼は凄まじい勢いの洪水を、魔力だけで止めてみせる。
激流を抑え込む彼の額からは汗が噴き出ていた。
それでも、隼の王は笑っていた。
前へ行けなくなった水の塊は、その場で砂をかき混ぜる。隼の王を支える空鱏が、ひれを強くはばたかせて進む。
水の勢いと、人一人の魔力がぶつかり合っていた。
隼の王は再び声高に叫んだ。
「その恵み、正しき空をゆき給え!」
彼が歯を食いしばり、腕には血管が浮いていた。力んだ四肢が風を生む。
宙で呪文が妖しく光ったかと思うと、次の瞬間、轟音が辺りを包んだ。
大きな衝撃波が戟塵の城塞を呑み込む。
「っ!!」
剣の王の体を再び地鳴りが襲い、彼はきつく瞼を閉じた。
しばらくそうして姿勢を低くしていた。
どれくらい空鱏にしがみついていただろうか。
ぽつりと、冷たい感触があった。不思議に思って顔を上げる。
戟塵の城塞に、雨が降り注いでいた。雨季でも見ることのないような、本降りの細い雨の筋を、剣の王はぼうっと眺める。
「テラル!」
遠くから隼の王が、びしょ濡れで飛んでくる。
「無事かぁ!?」
剣の王は手を挙げて、それを返答とした。彼の乗る空鱏が、疲弊を低い声で訴えていた。
甲冑を叩く雨音に、拍子抜けのような笑いが漏れた。
星空の中に雨が降る。滅多にお目にかかれない、幻想的な光景であった。
隼の王はその身一つで戟塵の城塞を、あの洪水から救ってみせたのだ。
彼は剣の王の傍まで来ると、ぶるぶると頭を振り乱す。
「水も滴る良い男。だね?」
剣の王がそう言うと、彼はケタケタと笑った。空鱏が、剣の王に擦り寄った。
髪をかき上げた隼の王はどっしりと空鱏の上に立ったまま、異形の黒い双眸で剣の王を見下ろしていた。
「こういう時ばっかりは、ジジイくさくっていけねぇな」
剣の王は僅かに目を見開いて、それから伏せた。眉尻が下がって、羨望と嫉妬の眼差しをする。
剣の王は困った表情で星空を見上げた。眩しいものでも見るように。
東を見ると、夜の色がだんだんと、群青に変化していっていた。
彼は顔を拭った。清々しいのが腹立たしい。
剣の王の声は、曖昧な気色を帯びていた。
「……これだから魔法使いは」
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