星送り

 冷たくなった砂地を、裸足で巻きあげ駆け抜ける。爪の間に凍てつくほどの砂粒が入り込んだが、メルセゲルは気にも留めなかった。

 星詩を詠んだのは、暁光の都でのことだった。今夜は、まだだ。

 空を睨むが、堅牢を誇る要塞は、夜空を切り取るばかりで、正しく星を割り出せない。どこか開けた場所へ出なくては。もしくは、高い所へ。

 影のように静かに。夜の闇に紛れた彼女を捉えられる者はなく、メルセゲルは王城を奔走する。

 隠し持っていた星鑑を取り出した。

「ル・タ」

 呼びかけても返事はなかった。いつの間にか機嫌を損ねたらしかった。

「ル・タ、頼みがある」

 構わず彼女は続けた。走る速度を緩めることもしなかった。

「わたしを、星の見える場所まで連れてってくれ」

「なンでだよ。星鑑はオレ様のおかげで機能してんだろ」

「している」

「じゃあ、それでいーじゃねーか」

「だめだ。確かに星を匿っている間は、星鑑はより強力になる。星の巡る周期だけでなく、昼間の星すら映し出す。だが、それでも、あくまで参考だ。この眼で見る星の瞬きほど完璧じゃない。星の連なり、瞬き、それがなくては星詩は詠めない」

「じゃ、諦めンだな」

「……」

 メルセゲルは漆黒の瞳で、再び空を見上げた。焦りから、彼女の口元が歪む。

「一刻を争うんだ、頼む」

「やーだね。オレ様、女の体になんざ宿りたくねー」

「おまえを空に還してやれるのは星詠みだけだ」

「ハッ、脅しても無駄だぜ」

「……そうか」

 僅かに声を落としたメルセゲルの反応に、星鑑からは勝ち誇ったような笑いが響いた。

「なら、次の策だな」

「あ?」

 彼女はル・タには応えず、速やかに踵を返した。

「オイオイ、バカかよ? ンで牢屋に逆戻りしてんだ」

「おまえが協力してくれないからだ」

「オレ様のせいにすンなよ!?」

 星鑑の光が心なしか強まる。

 メルセゲルは元来た道を辿り、辟易しているはずの牢獄まで走っていく。正面から入るのは危険だと判断した彼女が、石造りの獄の裏へと回る。

 立て掛けてあったボロの梯子に足をかけてみると、ぎしりと嫌な音がした。それでも行くしかない。

 メルセゲルの目指す先は、どうやら監獄の上部のようだ。彼女は今にも折れてしまいそうな梯子を、頼りない星明かりの中よじ登る。

 とうとう最後の一段まで来たところで、メルセゲルは梯子を踏み抜いてしまった。がくりと落ちる体を、ギリギリのところで持ちこたえる。

「おーおー頑張るねえ」

 ル・タの煽りにも、何も返さない。

 彼女の軽い体と身のこなしのおかげで、なんとか監獄の屋上に到達した。だが、梯子は踏み抜いた衝撃で倒れ、使えそうにもなくなった。

「……うん、うん。だから注意して」

 メルセゲルの足元から、くぐもった声が聴こえる。剣の王である。監獄の入り口で、衛兵たちに何やら指示を出しているようだ。

 メルセゲルが肌をさすった。

「やっぱり正面は無理だったな」

 角笛のような音がした。

 彼女は振り返り、音のする方を、屋上に繋がれたそれらを見た。

 空鱏だ。彼らは甘えるように、角笛に似た鳴き声をあげた。

「……おいマジかよ」

 星鑑の中のル・タが、若干慄いたように声を震わせる。

「常々思うけどよ、盗賊の方が向いてンじゃねーの」

「どうも」

 メルセゲルは不敵な笑みを口に乗せた。

「月影の隣人のものなら、どうあっても鏑の条件に抵触することはない」

 選んだ空鱏の拘束を解いてやる。他よりも小さな個体だ。

「だろ?」

「……やっぱ妖女まじょだよ、オマエ」

 諦めたような、感心したような、独特の抑揚だった。

「鞍は?」

「外されてるな。けど問題ない」

 メルセゲルが空鱏に乗る。

 空鱏の体が微妙に沈み、それから浮き上がっていく。

 ル・タの忠告が彼女の耳に届く。

「外周を回ってけ。城塞の上空じゃ目立ちすぎる」

「なんだ急に」

「うるせー。事が上手いこと運ばなかったのを、オレ様のせいにされたくねーだけだ」

 空鱏がゆっくりと旋回を始めた。

「それに、今回ばかりは、オマエが見たいのは星だけじゃねーンだよな?」

 ル・タの問いかけに、思わずメルセゲルの口が笑んだ。

 彼女の手が空鱏の頭を撫でる。

 空鱏はそれを皮切りに飛翔し、地平線をすれすれで進んでいく。埃っぽい風が、メルセゲルの髪をかき混ぜた。

「久々に乗ると速いな」

 砂鯨の速度に慣れていた彼女は、懐かしむように睫毛を伏せた。

「そういえばシンの谷には、空鱏のおとぎ話があったな。傷ついた空鱏がシンの谷に墜ちたのを、手当てして空に戻してやる話。今思い出した」

「なンでそんなもん今思い出すんだよ」

「ガキの頃の思い出なんて碌なもんがないから普段は忘れてる」

「この状況でそれ思い出すって…変なヤツだな、マジで」

「確かさらに東へ行くと、この話に尾ひれがついて、空鱏が流星に変わり……」

 メルセゲルは息を呑んだ。

「それから、シンの谷は星の墓場。月影の隣人は…墓守と口伝される」

「ンじゃやっぱ墓守なんじゃねーか、オマエら」

「そうだな、けど…だとして、なぜ星々がそう呼ぶ? 真を識る星が、よりにもよって脚色されたおとぎ話の呼び方をするなんざ……もしかして他に何かあるのか、この話」

「かもな」

 ル・タはいかにも適当、といったふうな口ぶりをした。

「けどよ、今はそれどころじゃねーんじゃねーの」

 彼の声に、メルセゲルは一気に周囲の景色へと注意を切り替えた。行く手に横たわる恵みの河に。

 水位の星はいつも通りに煌めいて、夜空を飾っている。雨季はまだ先。当然であった。

 だがあの時、微睡みの中で彼女が抱いた違和感は、確かなものであったのだ。

 恵みの河はじわじわと水面を上昇させ、既に河辺を浸していた。

「これだ」

 メルセゲルが星を見る。

「普段なら、恵みの河の氾濫は雨季にしか起こらない。だから水位の星さえ見ていればいい」

 空鱏が軌道を変えて、河の上流に位置するシンの谷へと向かっていく。

 そこには、メルセゲルの思い描いていた通りの光景が広がっていた。

「シンの谷は恵みの河を流れる水の量を調節している。昔は地形によって自然に成され、現在は……月影の隣人がそれを担っている」

 河の水を堰き止めるための装置が、揺らぐ水中でぐらぐらと水流に遊ばれていた。勢いに負けて壊れたのだ。

「堰き止め過ぎたな。それで溢れ返ったんだ。剣の王に一人残らず捕縛されて、誰もあれを操作しなかったから」

 眼下で氾濫の原因を見届けたメルセゲルは、小さく頷いて、空鱏のひれを軽く叩いた。

 空鱏がゆったりと体を翻し、戟塵の城塞へと戻っていく。

「この規模、恐らく普段の氾濫と比べ物にならないぞ。浸されるだけじゃ済まないかもしれない」

 冷静な分析であった。

「相当な水量だったし、水の上がってくる速度もずっと速い」

「どんくらい堰き止められてたんだ、あれ」

「正確な日数は定かじゃないが、ひと月近くはあの状態だったんだろう」

「どーすンだ」

「どうしようもない」

 メルセゲルはあっけらかんとしていた。

「来たる運命を識り、あるいは識るため、星を見ること。わたしにできるのはそれだけだ」

 これから水の侵略を受けるであろう、戟塵の城塞を見据える。

 暁光の都、つまり河の西は傾斜があり、河を見下ろす形になっている。あちら側にはそこまでの被害はないはずだ。

 だが河の東は、西から続く傾斜の影響で河の水面よりも地面が下に位置しているのだ。先ほど目にしたあの勢いで水が上ってくれば、諸勢力をはじめとし戟塵の城塞にも大きな損害が出るだろう。

 戟塵の城塞は水害によって、列強から名を消すことになるかもしれない。

「星詠みは勇者じゃない。運命を変えることはできない」

 メルセゲルは王城をじっと見つめ、星詩を繰り返した。

「“大河を架けるは祝福の橋”」

 その時だった。

 戟塵の城塞に、一陣の突風が巻き起こる。

 竜巻から逃げようと空鱏が進路を変え、それにより大きく体勢を崩したメルセゲルが、あわや投げ出されようかといったところで、彼女は鱏の扁平な体にしがみつく。

 柱のごとき砂嵐が戟塵の城塞を襲った。

 メルセゲルは砂に覆われた空の中、それでも星を見ようとした。そんな彼女の視界に現れたのは、竜巻の中心部の、人影だった。

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