思郷
わたしのちっぽけな体が揺られる。
「メルセゲル」
耳に入ったのは自分よりずっと暖かくて、自分よりずっと低い声。自分よりずっと小さい、師匠の優しい声。
わたしはそっと目を開けた。
「ん」
「わ、わ、ごめん。起こしちゃった?」
幼い顔の師匠はやはり、彼と呼ぶべきか彼女と呼ぶべきか分からない。
わたしが起き上がると師匠の手が延びてきて、頭を撫でる。
「もうちょっと寝ててもいいんだよ」
わたしは首を振った。
「そお?」
砂鯨でも空鱏でもない、謎の生物の背の上から、わたしは砂漠を見渡した。見たことのないこの妙な生物は、師匠の相棒なのだという。日が沈んだばかりの西の空は、師匠の目によく似ていた。
反対側へと視線を投げれば、既にちらほらと星が出てきているのが見えた。師匠曰く、星は昼夜に関わりなくずっと出ていて、暗くなると、人にも見えるようになるだけらしい。
「師匠」
わたしが口にすると、師匠は可愛らしい顔を歪める。この世界で何よりも青い、師匠の髪が風に靡いた。
「ワタシがおまえに名を与えたように、おまえがワタシにそれを求めるのなら、仕方ない。いずれ慣れるよな。今がまだ、その時じゃないってだけで……なあに、ワタシの可愛いメルセゲル」
一見すると子供にしか見えない師匠だが、その表情や仕草は惚れ惚れするほど上品で、大人びていた。
相棒の手綱を握り、己の足で砂漠を渡り歩くだけあって、肉づきも理想的である。わたしは背の上から歩みを緩めた師匠を見下ろした。
「師匠は、よかったのか。谷を出てきてしまって」
「ぜーんぜん。長いこと居させてもらってたけど、シンの谷の生まれじゃないんだよね、ワタシ。おまえこそどうなの? 故郷を捨ててワタシに着いてきちゃってよかったの?」
「わたしの故郷は師匠」
師匠が目を見開いた。それから美しく笑んだ。胸の奥が砂に引き込まれるような感じがした。
わたしは肩を竦めた。
「あいつらにとっちゃ、いてもいなくても元凶だ、どっちみち。それよりも、凶星でしかなかったわたしに、色々なものを与え、教えてくれたあんたの方がずっといい」
「まだほんの序の口だけだけどね」
「うん、分かってる。だから、これからたくさん学べるのが楽しみ」
見上げると、夜空が先ほどよりも広がっていた。
「なぜ空は巡るのか。星が何を知っているのか……凶星のわたしにも、それを理解できる日がいつか来るというのが、すごく」
「おまえならあっという間だよ、聡い子だもの。でも!」
師匠の眉が吊り上がる。
「自分を凶星と称すのはよしなさい。他人ならまだしも、自分で自分にかけた呪いは解きがたい」
「なら、なんと」
「星詠みだよ、決まってるでしょメルセゲル。おまえはワタシの弟子で、星詠み」
「ふむ」
何度か口を動かしてみる。星詠み、星詠み。
「まだ慣れない」
「その内くるさ、その時は」
呑気な言い草だったが、不思議とそんな気がしてくるのが師匠の凄い所だ。
「ままなろうがなるまいが、移ろいゆくのが星の常。例えば、ほら、あそこをご覧」
師匠が指差した先を見る。星空の、地平線すれすれの辺りだった。
「あの星。雨季を過ぎて、あれが水平線に隠れるようになったら、水が溢れるという合図。恵みの河から広く、都市まで水が届く氾濫という事象が起こる」
「氾濫」
「そうそう。人の膝下ぐらいまで、緩やかに水がやってくる。地形にもよるけど、恵みの河の氾濫ではほとんどの都市が浸水するんだ。突発的なものじゃなくて、雨による増水が原因だから周期で起こるものだね。恵みの河の周辺じゃ、風物詩になってるくらい」
師匠が手綱をぐいと引っ張ると、わたしを乗せて進んでいた生物が足を止める。
「それと関係して。
「凶暴?」
「恵みの河の氾濫と違い、こちらは危険で恐ろしい、洪水を起こすんだ」
「洪水」
「広くて長い恵みの河に比べて川の幅が狭いぶん、溢れた時の侵食する速度も勢いも桁違いなんだ。都市を丸々呑み込んで、沈めてしまうのさ」
聞いている内に、背筋が寒くなってきた。
「勿論、こっちも雨季の増水が影響するものなので予測は可能だ。農作物を早めに収穫したり、川辺の護りを強化したりと、煉瓦の國の人々は自然に逆らうことはせず、うまいこと被害を抑えながら暮らしてる。ちょっと物騒だけど、そのぶん彼らは逞しい」
わたしは耳を傾けながら空を見上げ、まだ訪れたことのない、
「さて、ここからが本番」
手を叩き、乾いた音を鳴らした師匠へと意識が戻る。
「どちらの川の異常も、あの水位の星で推し量ることができる。地平にあるあの星が、水平線に隠れたら、近い内に川の水は限界を超える。ワタシのような星詠みじゃなくても、
「そうなのか」
「生存に直結するからね。誰もが死に物狂いで覚えた結果だ」
師匠は小馬鹿にしたように足を組んだ。
「で。あれは煉瓦の國ではこう呼ばれている。“水禍の星”」
「すいか」
「水の災いって意味。彼らにしてみれば当然の呼称だ、度重なる洪水によって水没してしまった街も数多ある。年に一度、そうやって街が呑まれるかもしれない危機に必ず襲われるんだから」
「ああ」
話の続きが聞きたくて、わたしは適当に返事した。
「実害が実害だしな、その呼び方にも納得できる」
師匠は頷いた。
それに合わせるようにして、師匠の相棒が、背に乗せているわたしを振り仰ぐ。
砂漠の表面が、夜に押しやられるように西へ流されていった。
「反対に、恵みの河の流域では、あの星はこう呼ばれる」
立ち止まってぐるりと星空を見回したのち、師匠の魅力的な瞳が細められた。
「“祝福の星“と」
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