神官スェス
十日が経ったことに気がついた。
天窓から覗く酔いどれ星を見上げながら、メルセゲルはぼんやりとそう思った。
門の方から、交代を告げる鐘が鳴った。
瞬く間に時は過ぎた。
メルセゲルの意識が、結婚式の鐘を思い出していた。
陽が沈んだ後とはいえ、彼女にとってはかなり暑い気温だった。彼女は王宮の、風が通らない造りを憎んだ。そうしてひたひた足を進めた。夜に向けて忙しくなる宮殿を、一人だけ反対方向へ。
裸足で駆ける彼女は、人の流れを裂いていく。
「セプデト」
後ろから呼び止められた。ネブラトゥムだ。
「星見か?」
振り返ると彼は、寝室に向かうところのようだった。
食事も浴も済ませたのだろうか。
「なんだ、聴こえん」
ネブラトゥムは呟くと、ずんずんとこちらに近づいてきた。辺りの人影が、蜘蛛の子を散らすようにさっぱりいなくなるのを、一瞥もせず。
彼の落とす影に入ると、仄暗いメルセゲルの姿はほぼ見えなくなる。
暁光の都の民は皆、彼女にとって壁のようなものであった砂鯨の子供よりも逞しいが、ネブラトゥムは別格だ。
彼がメルセゲルをひょいと持ち上げ、彼女の顔を目の前に持ってくる。こうして同じ高さで向き合う内に彼女は、ネブラトゥムの目の下にはひどいクマがあることを知った。
「何も言ってない」
「ああ、道理で」
彼は首を横に振るメルセゲルに対して軽く頷く。
「都へは下りるなよ。門は使わず、北から行け」
「そのつもりだった」
「ならばよし」
ネブラトゥムは腕を下ろした。床に着地したメルセゲルが彼を見上げる。ちょうど彼女の頭のてっぺん辺りに胸があって、青く刻まれた目の紋様と視線が合った気がした。
腰に回された彼の大きな手がじわりと熱い。
メルセゲルは星図や書物を抱え直した。
「おやすみ、ネブラトゥム」
「……ああ。良き夜を、セプデト」
そう言い残し、ネブラトゥムは彼女を解放すると、来た道をのしのし戻っていった。
メルセゲルも踵を返す。王宮の北側、神殿へ向かって。ネブラトゥム曰く、それは秘密の抜け道だという。神殿に出入りする者のみが知る、都の外への通用口。
神殿の方は宮殿に比べ、夜になると閑散としてくる。仕事場という認識が強いからだろう。
それを理解したのも、つい先日のことだ。
往来は目まぐるしいが、息苦しくはない。
王宮へ吹き込んできた砂の上を滑るように走っていたメルセゲルは、ふと足を止めた。
誰かが囁くような音がくぐもって聞こえてきたのだ。
メルセゲルはなんとなく、風鳴りもしくは砂鳴きだろうと思っていたのだが、彼女が進むにつれ、それは明確な人間の話し声として耳に入ってくるようになった。
「何を怯えることがあるというのかね」
「で、で、ですからそんなの無理ですうぅ」
「なぜ分からない」
「分からないですうぅ、ごめんなさいぃ」
「民の不安を煽るだけだ、神託と偽って」
「そんなことできませんんん」
「このっ」
「ヒイイーッ」
角を曲がったところで、密談の現場に行き当たる。
メルセゲルには両者に見覚えがあった。
ネブラトゥムの臣下の一人と、神官のスェスだ。
こちらに気がつく様子はない。
メルセゲルは彼らの元にするすると近寄ると、ヴェールの裾を揺すった。ちり、という金属の擦れる音に驚いて、二人は弾かれたように彼女の方を向いた。
「ちっ」
臣下はメルセゲルを前にして怯んだが、すぐに襟を正すと、彼女を睨めつけながら立ち去った。
相変わらずだ。彼女は呆れて首を振った。
この宮殿でメルセゲルを歓迎している者は、数えるほどしかいない。
「あっあっ、セプデトさん……」
取り残されてしまったスェスは、おどおどとしながら俯いた。
メルセゲルが距離を縮めると、彼の肩がびくりと跳ねる。
「大丈夫か」
「すみませぇん、お見苦しいところを…あはあは、はぁ」
スェスは自分の肩を抱いて、彼女を見やる。
「星を見に行かれるんですか?」
「ああ」
「で、ですよね。すごいなぁ」
スェスの視線は落ち着きなく彷徨っていた。体格差は言うまでもないのに、なぜか弱々しく見える彼に、メルセゲルは肩をすくめた。
スェスは、彼女を歓迎している、数少ない人物だった。
彼女は頭で外を示してみせた。
「よければ、一緒に」
「えっ?」
彼の目が輝き、そして曇る。
「で、でも、そのう、お邪魔でしょうし、ボク、お話し上手じゃないですし」
メルセゲルは何も言わず、彼をじっと見上げる。不自然なほどに大きな瞳で。
しばしの沈黙の後だった。
「ヒ、ヒイーッ、行きますぅう、行かせて頂きますぅ!」
彼女の無言の圧に耐えられなくなったスェスは、とうとう降参のポーズをとった。
メルセゲルは眉尻を下げた。
連れ立って神殿への通路を歩いていくと、風が吹き込むのを感じた。
神殿までもうすぐだ。
「式の、時は。堂々と、してたじゃないか」
メルセゲルは婚儀を執り仕切るスェスの姿を思い出していた。
彼はとんでもないと言いたげに勢いよく手を振る。重たそうな袖が合わせて揺れた。
「あああれはお仕事ですしぃ、内心ほとんど魂抜けてましたぁ」
「降霊術」
「えへえへ、極限状態という意味では近いかもしれませぇん」
神殿に繋がる道を外れ、薄暗い橋の下を進む。
足の裏に砂の湿ったような感覚と、それらが塊となって音を立てるのが、なんとも言い難い不気味さを醸し出していた。
スェスは思わず身を震わせた。
「あぁ、暗いなぁ。なんだかボク、怖くなってきました。セプデトさんは、平気なんですかぁ?」
「ちょうどいい。この都は、眩しすぎる」
「はぁあ、さすがはシンの谷のお方……」
怖がるスェスの言葉を受けてか、彼女はスェスの服の裾を持ち、誘導してやっていた。
灯りもない中で機敏に動くメルセゲルを、彼は羨望のような眼差しで見つめていた。
出口が見えてくると同時に、風も強く吹き始める。
「セプデトさんは」
明けの王がそう呼ぶ名が、彼女の本当の名でないことは知っていた。
「ここでの暮らしにはもう慣れました?」
「まあまあだな。随分と、良くしてもらっている」
「お妃様ですもんね」
「あれ、でも、まあまあ、なんですか?」
メルセゲルが黙り込む。
その意図が汲めず、スェスはただ待つことしかできなかった。
「……星詠みを。周りが、理解、していない」
メルセゲルはどう伝えるか言いあぐねている様子だった。
「わたしを、訪ねられても、困る。呪いやら、占いやらを、期待して」
「あーっ分かりますぅ!」
スェスが大きく頷いた。
「経験ありますぅ、ボクも。神託はそういうものじゃないっていくら説明しても、聞いてもらえなくって。嫌ですよねぇえ、あれ」
「大変だな、お互い」
鼓舞するようなメルセゲルの言い草に、スェスの口元が笑んだ。
辺りに人気がないことを確認してからそっと、二人は砂漠へ出る。夜風に迎えられ、スェスは幾分か爽快な気分になった。
見渡す限りの砂漠の上を、空だけが覆っている。門外漢のスェスにも、星を見るのに適した場所だと分かった。今に見事な星空が、浮かびあがるのだと。
スェスはメルセゲルの後ろ姿に呼びかけた。
「あのう、セプデトさん」
「うん?」
「どうして…」
しかしその後に続いたのは、スェスの悲鳴だった。
「ヒエエーッ!」
「スェス!」
メルセゲルが咄嗟に振り向くと、彼は黒い装束を纏った人影に組みつかれていた。
そしてそれは、彼女の背後にも現れる。
「へへへ、聞いたかオイ、スェスって言やあ暁都の神官様だぜ!」
下劣な笑い声に、メルセゲルの顔は一気に険しくなった。
「オメェは奴隷か? 生贄か? まぁなんでもいい、連れてくぞ!」
彼女の背後にも大男が現れ、メルセゲルをがっしりと掴みあげた。
メルセゲルがもがくが、彼女の華奢な体では抵抗のしようもなく、あっさりと縛られてしまう。
どさどさと音を立てて、メルセゲルの星図や書物がその場に落ちた。
スェスが泣き叫んだ。
「ヒヤーッ! お助けぇーッ!」
「うるせぇよ!」
「ヒィン!」
彼は口を布で塞がれてしまった。それでもなおジタバタと暴れるので、スェスを捕らえたもう一人は、いささか手を焼いている模様だった。
メルセゲルを片手で抑え込んだ男が、もう片方の手で彼女の所持品を砂から掬いとる。
ぼろきれを縫い合わせて作られた袋にそれらを詰め込んで、肩に背負った。
「くそっ、もういい、ずらかるぞ!」
それを合図に、彼らは颯爽と夜の闇に溶け込んでいく。
メルセゲルは抱えられたまま、目の前で身を捩るスェスを眺めた。
彼女を飾る金属たちが一斉に鳴っていた。
メルセゲルは、初めてこの都に到着した夜を思い出していた。親切な門番の話を。
確かケアだったか。彼女は空を見上げた。
星が煌めいていた。
「……“運命的、出会い”…?」
思わず笑いがこぼれた。
「洒落が効いてるな」
「何ぶつくさ言ってやがる!」
頭上がら叱責が降ってくる。
やれやれ、とメルセゲルは項垂れた。大人しくするしかないらしい。
大男が全速力で駆けているためか、地面が流砂みたいに見えた。
再び夜空に目線を戻す。
メルセゲルの拳に力が入った。
「“眩き光は眩さ故に、誰も真っ直ぐ見られない”……」
彼女は首を傾げた。随分と解釈の幅が広い詩だ。
「どう、取るべきか。似たようなのが、前にもあった。だがあの時は……」
「死にたくなかったら黙れ!」
賊が我慢ならずに怒鳴ったが、メルセゲルはそれを無視した。
彼女の心ここにあらずという様子に、賊はいっそう目くじらを立てた。
腰に差した短剣を抜いて、メルセゲルの首に当てがう。
「オイ、聴いてんのかオメェ! 貧相な奴隷ごときが。オメェなんかなあ、こんなもん使わずとも、この手で簡単に首をへし折れるんだぞ! 命が惜しけりゃあ言うことを聞け! さもねぇとこの剣でオメェをズタズタに切り裂いてやる! オメェの血で砂を潤して、生贄に相応しい最期を飾らせてやることだってできる! いいか、痩せこけたオメェなんかただのボロ雑巾だ、人間様に逆らうな! 分かったらさっさとその口を」
「黙ってろ!」
突然豹変した彼女に、賊は泡を食った。
「星を、見てるんだ、わたしは!」
物凄い剣幕で言葉を切ったメルセゲルは、なんと短剣に噛みついたのである。
彼女が首を戻す勢いに乗せてそれを奪ってみせたので、賊は目をひん剥くしかなかった。
彼女は短剣を咥えたその奥から、呪詛のごとく脅しを放つ。
「おまえを、冥海ゆきの舟に乗せてやる、今すぐにでも!」
嘘偽りのない殺意がメルセゲルの中に渦巻いている。
腹を空かせた獣よろしく血走った瞳からも、彼女が本気であることは明白だった。
「わ、わ、分かった分かった、いくらでも見てればいい、その代わりじっとしてろよ、頼むから!」
予想外の事態と、彼女の怒り様に賊も圧されてしまい、情けなく首を縦に振った。
短剣を口にしたまま、メルセゲルは熱心に星を読んだ。
大男に担がれているせいで、視界がブレる。
それでも目を凝らし、彼女は星史を読み取ろうと躍起になっていた。
前方からは、絶えずスェスの呻き声がこだましている。
徐々に周辺が明るくなっていることに、メルセゲルは眉を顰めた。
そして久々に目線を下ろして、気がつく。
二人は縛られた状態で、再び暁光の都へと帰ってきたのだ。
南寄りの西門だった。やけに騒がしい。
スェスのあげる呻き声すらも、喧騒にかき消えてしまう。
彼女を抱えた賊が、見張り番に挨拶をした。彼らがメルセゲルとスェスを戦果とばかりに掲げたのを、見張り番が拍手で称えた。
なるほど門番がいないというのは、王宮お抱えの、という意味だったようだ。
メルセゲルは一人、得心いった様子で片眉を上げた。
道端には廃棄物と一緒になって寝そべった多くの人間が。そのほとんどは疲れ果てた顔をしていた。
メルセゲルは明かりが灯っている建物に目を向ける。不釣り合いな照度の灯火が、乱闘紛いの取っ組み合いやら酒盛りやらを影として浮かび上がらせ、下卑た笑いと不規則なドラムまで奏でているのが聞こえた。不愉快な音楽だった。
おい、ちょっと物騒、なんじゃなかったか。
浮かんだ門番の顔に胸中で疑問をぶつけながら辺りを見渡す。嫌悪にも似たため息が出た。
贔屓目に見てもちょっとどころではない。
陰を選びながらそそくさと、賊は細い路地を行った。スェスは変わらず身体をくねらせて暴れていた。
賊たちが石積みの建物の一つに向かっていた。
「屋根だ」
メルセゲルはげんなりした。
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