ル・タ

 暗がりの室内は埃くさく、スェスは嫌悪に顔を顰めた。

 隣に息遣いを感じるメルセゲルは俯き、暗がりなことも相まって、その表情は読めない。

 賊たちは安堵の笑みを浮かべると、身動きの取れない二人を床に転がした。

「返せっ」

 咥えた短剣を粗雑に取りあげられ、メルセゲルはかすかに呻いた。

「もっと簡単な仕事かと思ってたのによ」

 賊は小さな篝火に、透けた布を被せていた。薄暗さの要因はそれだった。

 メルセゲルの道具は、袋にまとめられ彼女の側に置かれた。

「まあでも、後はお頭が来るまで見てりゃいいんだろ」

「おうよ。お頭のたまげた顔が目に浮かぶぜ」

 互いに肩を叩き合い、篝火を持った彼らが部屋を出ていく。

「逃げ出そうなんて馬鹿なこと考えんなよ」

「おれたちは外にいるからな」

 扉が閉まると、光源を失った部屋は闇に包まれる。

 遅れて、スェスのすすり泣くような声が響いた。

「落ち着け」

 メルセゲルは器用に上体を起こし、つとめて沈着に言い聞かせた。

 砂鯨ではなく己の足で逃げていたこと。

 訛りのある言語で意思疎通をしていたこと。

 物品だけでなく身柄も拘束したこと。

 スェスが神官であると知っていること。

「命を、とられることはない。特におまえは。生かしておいた方が、金になる」

 危機的状況の中でも、彼女の頭脳は至って冷静であった。

「妖女ないしは王妃の容姿を、知らなかった。暁都に棲みついている、が、内情に疎い、加えてあれは」

 彼女の手が縄をすり抜けて、今度は足の縄を解きにかかる。縄抜けは彼女の得意分野だった。予め、解きやすい位置で縛られておいたのだ。不名誉かもしれないが、便利な特技だとメルセゲルは胸を張った。

「東方の、訛り」

 彼女の独り言に、スェスが息を呑んだ。

 東より来たる侵略者。

 彼は身震いした。

「戟塵の城塞」

 メルセゲルは思案を巡らせる。彼女の脳裏には、剣の王の侵攻を危険視するネブラトゥムの姿があった。

 スェスは首をあっちこっちに向けた。彼の目はメルセゲルとは違い、まだよくは見えないようだった。

「ここだ」

 メルセゲルが足で彼をつつくと、びくりと両足が跳ね上がる。

「縄を、解いてやる。ただし、騒ぐな」

 身じろぎしたスェスは頭がもげそうなほど頷いた。

「ならばよし」

 頷いた彼女は、手際よくスェスを解放していった。足、腕、肩、そして最後に、口を。

「鍵を、かけられない、ということだ」

「は、はい?」

「ここを、奴らが見張っておく必要がある、理由だ」

 呼吸を整えるスェスと顔を突き合わせ、極めて小さく話す。

「あの二人を、なんとかすれば、逃げ出せる」

「にっ!?」

 思わず彼は声をあげた。メルセゲルの目つきが険しくなる。

 スェスは慌てて口を押さえた。

 二人は扉の向こうへ、神経を集中させる。特に物音は聞こえてこない。スェスは二の舞になりたくなかったのか、手をどかすことなく、そのまま喋った。

「に、に、逃げて、どうするんです」

 スェスはメルセゲルの言葉を待った。他意のない、希望が見えないからこその疑問だった。

 しかしメルセゲルに焦燥の色は一切感じられなかった。

 不可解そうに彼女が伸びをしたのが、スェスの目にも見えた。

「星を、見る以外にあるか、なにか」

「ヒィ……」

 スェスは脱力してしまった。両手を地べたにつけて、がくりと頭を下げる。砂埃が固まっていて、砂浜のようにしっとりと手に吸いついた。

 相変わらずというか、それでこそというか。彼女が暁光の都へやって来てからの十日間が、走馬灯のごとき速度でスェスの瞼を駆け巡った。

 常に彼女の側にいたわけではなかったが、それでも十全に分かるくらい、この女性というのは星に対して真摯で、そして真剣であった。

 スェスは薄ら笑いをこぼした。目に溜まっていた涙もいつの間にか引っ込んでいた。

「ボクはただ、無事に帰りたいんですが……」

「星を、読めない。明夜は久々の、流星の夜。見ておきたいことがある」

 メルセゲルは大真面目に彼を見た。

「ここを、抜け出す。必ず。大丈夫。おまえも、無事に、帰す」

 真っ黒の影に喋りかけられているようで、スェスは怖かった。怖かったが、身体が震えることはなかった。

「セプデトさんは……お強い、ですね」

 闇に紛れた双眸を見つめ返しながら、彼が言う。

「とても」

 スェスはそこを強調した。

「言葉も文化も違う、初めての土地で捕まって。かと思えば、突然王妃になって。待遇とは裏腹に、嫌なことばかりだったでしょう。ええ、もちろん知っています。そしてなにより、暁都の人間はみんなまだ、あなたを妖女まじょだと恐れてる…ボクも、含めて。怖く、ないんですか」

 尋ねるスェスの目には再び涙が浮かんでいた。

 メルセゲルが頭を傾げ、飾りが小さく鳴った。

「何を、言い出すかと、思えば」

 彼女は後ろに倒れ込んだ。麻袋が彼女の身体を音もなく受け止める。

「この十日、すごくはやかった。わたしにとって。星に、なったみたいだった」

「星に?」

「うん、星に」

 思い起こすように、彼女は目を閉じる。

「強くはないよ。わたしは、非力だ」

「……それを認められるだけで、お強いと思います」

「それに、怖くもない。みんなじゃ、ない」

「えっ? 敵だらけでしょう?」

「わたしを、恐れてないやつが。いるだろ、一人」

「そ、それって」

 スェスが思い浮かべた名を口にしようとした時、扉が勢いをつけて開け放たれた。

 十分に暗さに慣れていなかったスェスには、その人影が一瞬、王と重なって見えた。期待と感激に彼の胸が鳴る。

 まさか、まさか。

 明けの王ネブラトゥムその人かと、スェスは目を輝かせた。

「なーんだ、こんなのが成果だっての、オマエら?」

 だが、そこに立っていたのは、王とは似ても似つかない、酔っ払いの青年だった。

「こいつらのどこが金になんだよバーカ!」

 彼はゲラゲラ笑いながら、見張りの二人を殴り倒す。全く容赦がない。思い切り振りかぶっては、何度も何度も彼らを殴りつけた。

「いて、いてて、やめろってお頭!」

「考えてもみろよお頭、金になるだろ、神官攫ってきたんだぞ!」

「ならねーよ。我らがオウサマはご冷血。知ってんだろ。神官なんていくらでも替えが利くヤツに、大金払ったりなんざしねー、攫い損だ、攫い損」

 青年がひいひい笑って、メルセゲルを見た。そしておどけたように手を叩く。

「おいおいマジかよ」

 彼の声は人を馬鹿にするような、生意気な響きを帯びていた。

 それから青年は急に、スェスには理解できない言語を話し始める。

「死でいっぱいの墓地でも眺めてろって」

 スェスには聞き取れなかった。独特の抑揚だ。どこの言語だろうか。

「こそこそ闇で生きてるヤツがこんなとこに来たって、日に焼かれてオシマイだろ!」

 ただ、なにか下卑たことを喋っているのだけは分かった。

 スェスは眉間に皺を寄せた。

 その隣で、メルセゲルがゆらりと立ち上がる。

「セ、セプデトさん?」

「こそこそしてんのはどっちだクソ野郎。頭も使わず馬鹿の一つ覚えみたいに盗みを繰り返す屑ゴミどもが。日陰者のくせしてよくもまあ、暁光の都なんぞで生きられるものだ、皮肉だな人生ってのは」

 呪文を唱えているのかと錯覚するような、早口だった。

「てめぇらのような奴の勝手な都合でわたしの予定が邪魔されたかと思うと、腑が煮えくりかえる。今夜が、どれだけ重要か分かってんのか、あぁ?」

「あの、セプデトさん、さっきから一体何を」

 スェスの静止もむなしく、メルセゲルは出口へ向かっていく。

「えっ、ちょっと、セプデトさん!?」

「うおっ!」

 彼女は、呆気に取られている青年を容易く突き飛ばし、ずんずんと扉へ向かっていく。そして開かれた扉から外へ出ると、すぐに空を見上げた。その間もずっと、舌を回し続けていた。

「星降る夜は星図が乱れるっつってんだろ、今のうちに照らし合わせが必要なんだ。これ以上、呑気に待ってられるか。十日も過ぎた。猶予は恐らく幾許もない。さっさとしないと、取り返しがつかなくなる」

 上空に煌めく星を見極めるたメルセゲルは、鋭い舌打ちを鳴らした。

「ああ…くそ、いくつか見逃してる。嬲り殺してやりたい。木偶の坊どもめ。光なき暗闇に閉じ込められて気を違えてしまえ」

「セプデトさ…ヒンッ!」

 彼女を追ってよろよろ出てきたスェスは、見張り番の二人に躓いて転がった。青年に殴られたせいか、完全にのびてしまっていた。

 道に突っ伏したまま、スェスはめそめそ泣いた。

「セプデトさぁん、どうされたんですかぁ、何言ってるか全然分からないですうぅ。まさか、まさか本当に……怖いよーっ、ヒィーッ、そんなのダメですぅ、呪わないでくださいぃ!」

 彼らが道の真ん中でこれだけ騒いでも、周りは気にも留めない。どころか、周囲は彼らと同じか、それよりもうるさかった。

 呆けていた青年が千鳥足でメルセゲルに近寄る。

「お、おいおい、オマエ。縛られてたはずだろ、なんで自由になってる?」

 彼に腕を掴まれても、メルセゲルは一向に取り合わない。

「ああ、ったく、ル・タ様の手を煩わすなよな」

 言語のメチャクチャに入り混じった、呂律の回っていない彼のぼやきの中で、それだけは、はっきりとスェスに聞き取れた。

「ル・タ!?」

 彼は叫んでがばりと起き上がる。

「え、あの、風抜かざぬきの!? 悪名高い、風抜かざぬきのル・タ!?」

「へー、神官サマまで届いてんだ。光栄だね」

「ヒイィーッ! 犯罪者! 盗賊! 人攫い! 暁都ここで一番の悪い奴じゃないですかぁ! やっぱり早く逃げましょう、セプデトさぁん!」

「いや待てよ」

 メルセゲルの元に駆け寄ろうとしたスェスの行く手を、ル・タが塞ぐ。

「っぱ逃げようとしてんのな? ぐーぜんとかじゃなくて」

「当然でしょ、攫われてるんですよこっちは!」

 スェスは開き直って肩を怒らせた。

「突然連れ去られて、知らない場所に捨て置かれて。逃げようとするに決まってるでしょう!」

「それに、暁都でいちばん悪いヤツってのも気に入らねー」

「はあ!? 盗賊の頭領のくせして今更なにを抜かすんですか、だいたい貴方ねぇ」

「うるせー」

「ヒエーッ! 暴力反対!」

 ル・タはスェスにはさほど興味はないらしく、案外彼を粗雑に扱った。酒気帯びた彼の視線は、終始メルセゲルに注がれていた。

「……なあオイ。なんで墓守がここにいんだ」

「えっとぉ…誰のことでしょう」

 スェスはさっぱりといった様子で目をぱちぱちさせる。そして、ル・タの見る先にメルセゲルが立っているのを確認すると、首を傾げた。

「あのう、もしかしてセプデトさんのこと言ってます?」

「セプデト?」

 譫言のようにル・タが繰り返す。

 スェスは空恐ろしげに彼を見上げていた。星明かりと酒場の灯にぼんやりと浮かび上がるル・タの巨体は、同じ太陽の民であるスェスにすら大きく感じられた。

 その彼は口をつぐみ、メルセゲルを見据えている。

 ル・タの顔の半分を覆う地味な布は、彼の鼻から下を完全に隠し、覗いているのは締まりのない目と眉だけだった。スェスには彼の真意は計り知れなかった。

 風抜かざぬきというのは、暁光の都にその名を轟かせる、盗賊団の同盟である。暁光の都のうち、多数の危険勢力が根城とする南西部。政を執る臣人の間で落日の街とまで呼ばれているこの地域に、法による強制力はない。金さえ払えば全て黙認される、それがこの場所だ。

 横行する犯罪に比例して、執政官たちの懐は潤っていく。それを思うとスェスはやるせない気持ちに襲われた。

 とはいえ、これでもマシになった方なのだ。先代の明けの王の急逝、それから今代の王の即位直後は、都はもっと荒れていた。

 スェスは目を伏せる。暴れ放題という言葉がぴったりなほど、犯罪者が跋扈するようになっていたあの頃に比べれば。

 そこらじゅうで盗みやら破壊やら、悪事の限りが尽くされ、民は疲弊し、都は崩壊寸前とまで言われていた。

 そうして荒れきった暁光の都に彗星のごとく現れ、統率や連携などとは縁遠かった罪人たちを同盟という形でまとめあげると、執政官たちと話をつけて都の南西部に彼らを住まわせる誓約も交わした。それから十余年にわたり、叛逆もなく落日の街を治めてきたのが、ル・タである。

 今や無法となったこんな街には、スェスは一秒だって滞在したくないところだが、この場所に法の手が届かないからこそ救われたという人間も少なくないことは知っている。むしろ、ル・タはそんな街の住民や、暁都で暮らす民たちからは英雄扱いされていた。いわば人気者なのである。

 自由を象徴するル・タは陽光の民の心の支えとなっていた。ネブラトゥムの敷く厳しい政治と対比するように。

 スェスにはそれが納得いかなかった。どうあれル・タの手腕は賞賛に値するし、民の安全を守ったのだからと言われてしまえばそれまでなのだが。

 政は綺麗事ではない。内部から都の様変わりを見届けてきたスェスからすれば、暁光の都を立て直したのは、間違いなくネブラトゥムであると言える。だがそれは民には伝わらない。

 スェスは痺れた足で立ち上がった。

 陽光の民が好むのは、どんちゃん騒ぎと英雄譚。

 彼らにしてみれば仏頂面の王よりもこの酔っぱらいの方が愛着が湧くのだろうと、スェスの諦念が告げていた。

 何かをしきりに呟きながら、ル・タはメルセゲルを観察しているようだった。

「セプデトさん」

 彼女は片手を挙げてスェスに応えたが、夜空から目を逸らすことはしなかった。

 メルセゲルに倣って、上を向いてみる。

 煌めく星々が、かすかに涼しさを増した都の上空に散りばめられている。

 泣き腫らしたスェスの目元で、塩となった涙がその光を反射していた。

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