太陽が三つあった日

 ひらりと躍った、軽やかな影。

 儀式の間に飛び込んできたのは、石灰の色をした猫、マウだ。

 石櫃へとまっしぐらに突っ込んだマウが、セ・アクの腕にじゃれついた。

「なっ……!?」

 あまりに突然の出来事であった。

 意表を突かれたセ・アクの手から、星の欠片が離れゆく。特徴的な甲高い金属音がこだました。

 マウを追いかけるようにして、儀式の間に入ってきたのがもう一人。

 星の欠片が転がった先に、ネセトがいる。

 ぼんやり顔のまま、足元の星の欠片に視線を注いでいた。

「……」

 ネセトは長身を屈め、ゆるゆると星の欠片を拾った。

 セ・アクの怒りの矛先は即座にネセトへと向く。

「おのれ、抜け殻のくせして!」

 マウを乱暴に振り払ったセ・アクは大股でネセトに向かっていった。

 絞首から解放されたメルセゲルの肺が空気を取り込もうと喘いだ。

「っ、かはっ!……はぁ、はぁ…ぇほ、げほっ!」

 咳き込む彼女の額には脂汗が浮かんでいた。

 セ・アクがネセトに掴み掛かる。

「……」

 メルセゲルにしたように、ネセトの首をぎりぎりと絞める。それでもネセトは涼しい表情を崩すことはなかった。儀式の間を見渡している様子だった。

「……はぁ、はっ…」

 困憊した身体に鞭を打ち、メルセゲルは石櫃に横たわるネブラトゥムに呼びかけた。

「ネ、ブラトゥム」

 上手く力の入らない手を忌々しげに睨めつけ。意地でなんとか運んで、彼の胸に当てがった。彼女は、セ・アクが何を飲ませたのかまでは把握していない。

 鼓動はある。メルセゲルの安堵の息が漏れた。

「おまえを、明けの王にしたのは。セ・アクじゃない」

 彼の耳に届いていなくとも彼女には関係なかった。

「運命でも、ない」

 メルセゲルは肩で息をする。

「これを、おまえの持つ、おまえの宿命と。わたしは思う。おまえを、王たらしめるは。運命よりも強力な」

 メルセゲルはセ・アクの方を見やる。

「……それで。これは全部わたしの、勝手な考え。星々が云っていたわけでもない。ただわたしにそう思わせたんだ、おまえと共に過ごす中で、他でもないおまえが」

 セ・アクの両手はネセトを絞めあげようと血管まで浮き出ていた。

 体躯の大きいネセトに対して、セ・アクは手こずっているようだった。

 ネセトの下瞼がぴくりと動く。

「……」

 痙攣する腕を振り上げて、ネセトは星の欠片を飛ばした。閃いた星の欠片は黒曜のごとく、儀式の間に漂う重い空気を切り裂いた。

 それは、一直線の軌道を描き、石櫃へ、メルセゲルへめがけていく。

「おまえは赤き導きだ、暁光の都の」

 彼女の掠れた声に、一抹の畏敬が見え隠れする。

 メルセゲルは眩しいものでも見るように目を細め、ネブラトゥムを顧みた。

「おまえを誇りに思う」

 彼女の纏うヴェールが翻る。

 灰褐色の手が、星の欠片を掴んだ。

「ちいっ、小癪な!」

 ネセトを壁面に押さえつけていたセ・アクが、恐ろしい形相でメルセゲルを振り返り、呪詛を唱えた。

 直後に彼の足元から禍々しい影が伸び、メルセゲルの脳天を貫かんとする。その穂先は槍のように鋭い。

 彼ののろいだ。

「っ!」

 痛みに備える隙もなかった。メルセゲルの目が見開かれる。

 しかし放たれた影は、メルセゲルに致命傷を与えられなかった。影が彼女に触れるすんでのところで、彼女の前に何かが覆い被さったためだ。

 セ・アクが憎々しそうに歯噛みする。

 メルセゲルの叫び声が、儀式の間を揺らした。

「ネブラトゥム!」

 彼だった。

 呪いが放たれた刹那、ネブラトゥムの上体は石櫃から起き上がり、メルセゲルを背後に隠すようにして呪いから庇ったのだ。

 セ・アクの呪いは、メルセゲルの眉間ではなく、ネブラトゥムの喉元を貫いた。

 ぐらりと彼の体が床に倒れ込み、メルセゲルの足元に伏す。

「ネブラトゥム、ネブラトゥム!」

「……、っ」

 彼女が呼びかけても、ネブラトゥムは血の混じったゴボゴボという音と、息が喉から漏れるようなヒュ、という音しか発さない。

 悲痛な声で彼の名を呼ぶメルセゲルと、力なく横たわるネブラトゥム。

 その光景にセ・アクはいよいよ高らかに笑った。

「おお、我が愚かしき弟よ…なんと兄想いなのだ……感謝せねばなぁ、手間が省けたよ!」

 そう謳う彼の手にさらに力が込もったからか、ネセトが苦しげな吐息を出した。

「まさか貴様がそれほどまでにその星詠みを想っていたとは。ああ、愛とはかように美しく悲しきものなのか!」

「………………愛?」

 彼女の声は震えていた。

 絶望に染まった囁きであった。

 血が止まらない。呪文の敷き詰められた床が、赤で染まっていく。

 茫然自失となった彼女は、口からただ血を溢れさせるネブラトゥムを見つめていた。彼の視線は虚ろで、メルセゲルを捉えているのかも定かではなかった。

「っ…」

 ネブラトゥムが、ぶるぶると手を彷徨わせる。メルセゲルが跪くとその手は、ふらりと彼女の手を掴んだ。

 熱かった。いつもの、熱さだ。

 メルセゲルの頬を、涙が伝った。

「……」

 その様子を最も遠くから眺めていたネセトが、突如として口を開く。

「“太陽が三つあった日”」

「何?」

 石櫃に集中していたセ・アクの意識がネセトに向き直る。

 ネセトの透んだ虹彩は、変わらず茫洋であった。

「“巡り 廻りて”」

 だがその声は威圧を宿していた。

 面食らったセ・アクが眉を顰める。

「一体何を……」

 ネブラトゥムを中心として広がる血溜まりが、石櫃にまで到達した。

 苦悶に喘ぐ彼の顔は、とても見ていられるものではなかった。

 メルセゲルの双眸はその様子を見ていた。激情に整理がつけられず、目を離せないのだ。

 彼女の手が、無意識に星の欠片を握りつけた。

 その拳から血が滲むほど強く、強く。

 ネブラトゥムの手を握り返し、メルセゲルがぽつりと言った。

「愛なぞあってたまるかよ」

 空を見るように顔を見上げさせた。天井であった。彼女の耳飾りが鳴った。

 その音は、儀式の間を貫いた。

 今までのものとは明らかに異なる、非常に高い金属音だった。耳を劈くような、頭を穿つような、ちょうど、星の欠片の転がる音に似た、澄み渡った音。

 警戒したセ・アクが足を石櫃の方に踏み出す。

 呼吸すら困難であるはずのネセトがはっきりと告げた。

「“以てすべての星の座は正しきに”」

 途端、セ・アクにとてつもない衝撃が走った。彼の体が吹き飛んで、ネセトは拘束から逃れる。

 セ・アクの体は壁に叩きつけられた。ぱらぱらと砂塊が降る。

「な、なっ…!?」

 攻撃されたのだと理解する間もなく彼は、転がっているところをさらに蹴りつけられた。

「がはっ!」

 何が起こっているのか分からない。

 セ・アクは必死に、自分に落ちた人影の先を見、そして絶句した。

 自分に立ちはだかる者は、随分と小柄で、細身で、影のように暗かった。

 メルセゲルだ。

「……気に入らねー」

 セ・アクが何か言おうと開口したのを遮って。

 彼女の声で、彼女の身体から。

 ふてぶてしい態度でル・タはそう言った。

「な……なな、なんということだ…貴様、まさか星を宿したというのか!」

「ちげーよ。元在るとこに収まっただけ。あの日、存在の定義を分かった“そのもの”が」

 首を回しながら、ル・タはため息をついた。

「分かんねーだろうけど」

 彼の眼差しがちらとメルセゲルの全身を見下ろした。

 動揺のままにセ・アクは蹴躓き、再び床に転がった。

「ああ、ああ、忌々しい!!」

 メルセゲルを指差して、喚く。

「どこまでも、どこまで邪魔してくれる! 忌まわしき星詠みごときが!!」

「読み違えたってことだ、オマエも、コイツも」

 ル・タの方は一貫して冷静な口調だったが、募る苛立ちは感じられた。

「これでイーブンだぜ。あとはどっちが運命を掴むかだ……ちくしょ、コイツみてーな言い方しちまった」

 そうは言いつつも、メルセゲルの顔は、ル・タは、口の端を吊り上げていた。

「仕切り直しといこうじゃねーか、“太陽が三つあった日”を」

 地響きに怯えたマウが、人知れず儀式の間から逃げ出した。

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