星と贄

 洞穴の中には浸食や風化の具合によって向こう側へ抜けていないものも、いくつか存在する。長さとしても深さとしても最も奥深くに位置するそこには、祭壇のような石櫃が鎮座していた。

 ネブラトゥムは案内されたその場所をぐるりと見回す。壁じゅうから床、天井に至るまでを禍々しい文字が覆い尽くし、石櫃には自身に刻まれているのと同じ紋様が見てとれた。

 いかにも儀式の間と呼ぶに相応しい、背筋の寒くなる神秘的な空間である。

「これを」

「なんだそれは」

「麻酔だ」

 セ・アクが坏を渡す。

「痛いのは疲れるものな?」

 入れられた液体は、口にするのも憚られるような変な匂いがするとか、変な色をして煙が出ているなんてことはなく。ただの水か酒のようにしか見えなかった。

 手にしたそれを、ネブラトゥムは躊躇なく呷った。

 彼の無言の威勢に面食らったらしく、セ・アクの目が見開かれた。

「ほう…潔いな、ネブラトゥム」

 したり顔を睨めつけるだけで、ネブラトゥムは何も言わなかった。

「飲んだ途端に意識を手放すような効き目はないから、案ずることはないぞ。意識が徐々に薄れていくという感覚だろう。眠りに落ちるように、ゆっくりとな。さあ、そこへ」

 セ・アクの視線が石櫃を示した。

 緩慢と頷いたネブラトゥムが、石櫃の上に横たわる。

「その様子だと、全てを察したのだな、弟よ」

「……貴様の執念深さには驚いたと述べる他ない」

 彼はぶっきらぼうに言う。

「その情熱が今後、都に注がれるというのなら、それで良いのではないか」

「はっ。お前がそんな語り口を」

「ふん」

 ネブラトゥムは、諦めきった後の、自暴自棄の声音をしていた。

 砂が風に遊ばれて、床を吹き上げた。

「お連れしました」

 近衛が引き連れていたのは、メルセゲルであった。細かな砂にまみれた装束が、ちらちらと煌めいていた。

 彼女は儀式の間に入ってくるなり、石櫃に寝ているネブラトゥムを見つけ、セ・アクに食ってかかろうとした。

「本人の同意は得てありますよ、もちろん」

 セ・アクが先手を打つ。

「飲んだばかりでまだ意識もあるでしょうし、ご確認なさい」

 顎で指されたメルセゲルは、慎重に石櫃へ歩み寄った。

 ネブラトゥムは体を動かすのも怠いのか、瞳だけをメルセゲルへ寄越した。メルセゲルもまた、何も言わずに視線を返す。

 しばしの沈黙ののち、彼は瞼を下ろした。

「もう良いのだ」

「っ……」

 メルセゲルは鼻いっぱいに息を吸い、拳を握り締めた。

 そしてセ・アクに詰め寄った。

「……何をした」

 震えていた。

 夜色の瞳には怒りが滲んでいる。

「何も」

 セ・アクはメルセゲルの腕をぐいと引き、顔と顔を突き合わせた。

「あれは間違いなく生まれながらの王だった、畏れすら抱くほどのな……だからこそ、隙もある」

 囁いて、穏やかに嗤う彼もまた、王の資質が垣間見えた。けれどもそれは、ネブラトゥムの持つ器とは違う、狡猾なものだった。

 セ・アクは不意に顔を背け、辺りを窺った。そして苛立たしげに近衛に尋ねた。

「隼の王は」

「まだ見えておりません」

「ちっ…老骨め」

「星鑑か」

 メルセゲルの眉間が顰められた。

「賭けだったんだ、肌身離さずに持たない、という。だが無駄だったかもな」

「ええ、無駄でしょうね。どちらにせよこの手の中に収まります……ですが、持ってこないと選択したその勇気は賞賛に値する」

「いきなり襲い掛かられたんでな」

「おや、そうでしたか」

 セ・アクはもはや本性を隠そうともしない。

 彼の手を振り解き、しかしメルセゲルも退かない。

 見据えたまま彼女が告げる。

「無駄といえば、すでにネブラトゥムの中に星はないぞ」

 メルセゲルにとっては、この発言は切り札であった。

「再び“抜け殻”の儀式を行い、ネブラトゥムから星の力を得ようとしても」

 それこそがセ・アクの企みであるとメルセゲルは踏んでいた。

 セ・アクが口を黙み。

 そして笑い出す。

「は、ははは、まさか、私がいつまでもあの苦い夜を、その払拭を夢見てるとでも!?」

 彼の手がメルセゲルの首を掴んだ。

「侮られたものだ。私は、あの夜をやり直したいんじゃない。都を追われ、この見窄らしい洞穴に身を潜めながら、ただひたすらに復讐だけを望んできたのだ、他でもない、この愚弟に。宿った星が抜けている? 知っていますよ、どうでもいい!」

「かは…っ」

「星の力など要りません、強大な力と引き換えに寿命を縮めるなんて御免です」

 セ・アクはメルセゲルの体を乱雑に押しやる。

「それに、あなたは何か勘違いをしているようだが」

 床に打ちつけられたメルセゲルの呻きにセ・アクは気をよくしたようだった。

「私の恨みの矛先はネブラトゥムだけではない。どういう意味かお分かりかな」

「…っ、さあな……」

 メルセゲルは呼吸を整え、じりじりと立ち上がる。

 石櫃へと歩いたセ・アクが、ネブラトゥムの頭の傍に腰掛けた。

「ところでセプデトとやら。あの日の真実は読めましたか」

「星の力など要らないのだろう」

 視線を逸らしたメルセゲルに対し、セ・アクが何かを唱えた。

「ぐっ」

 途端に彼女の顔は意思とは反して石櫃の方に向けられる。見ると、セ・アクがこちらに手招きをしていた。

 抵抗しようにもメルセゲルの身体は彼の元に吸い寄せられるようにして石櫃に倒れ込んだ。

 ネブラトゥムは目を閉じ、眠っているように見えた。

 彼女の意識をセ・アクが引き戻す。

「星詠み狩りをご存知ですか。赤い土地デシエルトの古くから続く悪しき風習の一つ」

「……横行していたと聞く。それにより星詠みの数は減少し、シンの谷を出ることがなくなったと」

 メルセゲルが渋々といったふうに受け答えをすると、セ・アクが足を組み替えた。

 彼のために仕立てられたのであろう上品な服は衣擦れの音も立てない。

「古来より、赤い土地デシエルトでは星詠みは冥福を祈る副葬品だったのですよ」

「…………は?」

「やはり知らなかったか。まあ、仕方ありません。あなたが生まれる頃には、伝承はほとんど風化していましたから」

 彼の言っている意味が分からず、メルセゲルの呼吸が止まる。

「星詠みとはすなわち星黄泉。星を看取る者。転じて、人間の魂を空に還す役割があるとされた。ですから、各地で要人の葬儀に際し、星詠みが求められたのです」

「な、にを」

「星詠みを巡って起こった争いの数々は、そうして生まれたのだ。星詠みの力ではなく、星詠みという存在そのものを欲していた。全ては、死んだ人間の魂が安寧の空へと還るため。なんとも身勝手な祈りだ、そうでしょう」

 メルセゲルは何も言い返せなかった。

「さて時を同じくして、赤い土地デシエルトの辺境、西の砂漠で。この星詠みを伴う祭祀を元として、ある呪術が生まれた」

 彼女をよそに、セ・アクは思い出話でもするかのような微笑みを向ける。

「星詠み狩りを行い、その亡骸を積み上げることで祭壇とし。死の引力を以て魂を肉体から引き剥がす…これが日没の一族に伝わる秘術、人を抜け殻にする呪いです」

 セ・アクがネブラトゥムの胸を手の甲で叩いた。反応はない。

「私があの日、これを贄とし行なった儀式です。さあどうです、セプデト。この真実が読めましたか?」

 彼の、左右で異なる光を宿す瞳が、メルセゲルを捉えた。

「この石櫃に、何が入ってると思います?」

 メルセゲルは愕然とした。

 眼の意匠の施された紋様に、一斉に見つめられた錯覚に陥る。

「……では、此度の儀式は、呪いを解くためではなく」

「可哀想な死に損ないを完全に葬ってやろうということです」

 メルセゲルの瞳孔が小刻みに揺れている。

「それに。私がどうして、手ずからにネブラトゥムを殺そうと考えたのか、原因の一端はあなたですよ」

「わ…たし?」

「ええ、それを種明かしするにはまだ足りていない物が……全く、あの油売り、何をもたもたしている?」

 セ・アクが怒りを呟いた。

 するとタイミングを計ったように、彼の手元に小さな竜巻が起こり、彼の髪がふわりと空気を波打った。

 風が去ると、その手には星鑑が鎮座していた。

 メルセゲルが奥歯を噛み締める。

 彼女とは対照的に、セ・アクは勝ち誇ったように胸を張った。

「……おや。星時計のみですか。本人は一体…まあいい、放浪ジジイなど気にしていられない。ちょうどお話ししたかった部分ですし、教えて差しあげましょう」

 言うや否や、彼は星鑑を床に投げつける。メルセゲルが静止する間もなく、激しい金属の衝突音を儀式の間に鳴り響かせ、星鑑は壊れてしまった。

 抗議の声すら上げられず、メルセゲルは両眼を見張るのみだった。

 ばらばらになった機構の中心から、ほのかに光る核のような物が見えた。

 星の欠片である。星鑑の力の源だ。

 セ・アクはそれを手に取った。

「そもそも私は、あの日の儀式を失敗だとは思っていません」

 目の前で起こっている出来事を、メルセゲルは受け入れきれていない様子であった。呆然と、圧壊した星鑑を眺めている。

「ネブラトゥムが、宿った星に生命力を吸われ死ぬのなら、私はそれでも構わなかった。そうすれば、私がこのような手間を掛けてやることもなかったのです。こうしてネブラトゥムの命を長らえさせ苦しみを続けるように強いたのは、他でもない、あなただ」

「何言ってんだコイツ。おいどーなってやがる」

 ル・タの呼びかけにも彼女は応えられなかった。

 床を凝視したまま固まっているメルセゲルの腰から羅針盤コンパスを奪い取り、セ・アクが開いてみせる。

「星詠みの羅針盤は、往々にして太陽を指す。夜に息づく星詠みにとって、最も遠く明るい、赤き導き」

 羅針盤の針が、星の欠片を示す。

「あの日、死の引力によってその軌道を捻じ曲げられ、ネブラトゥムに宿った星」

 セ・アクは大きな手でメルセゲルの首元をわし摑むと、無理矢理、彼女の視線を絡め取る。

「この星を再びネブラトゥムの魂に溶け合わせ、“星送り”を行うことで、ようやく私の計略は完成する。そのためには星詠みが必要不可欠だった、だから待ったのだ、この暗がりで、二十年も!」

 メルセゲルが彼の手を両側から握って離そうとするが、彼女の力では意味を為さなかった。気道を塞がれ、息が続かない。

 セ・アクは捲したてた。

「何が識る者か、何が運命を司る存在か! 私は、私はネブラトゥムを玉座へ導いた星詠みが憎い。運命が憎い。その全てをここで晴らすのだ。長年、心にかかった暗雲を、この翳りを」

 勝利に酔いしれるかのごとく、彼の手はメルセゲルの首を絞める。

「そうして新たなる王が誕生する、この西の地で! 宵の王の凱旋はこの黄昏の洞より始まるのだ!!」

 メルセゲルの手がだらんと垂れ下がる。

 セ・アクは彼女の眼前に、星の欠片を掲げた。彼女にはもう、ル・タの声すら聴こえなくなっていた。

 衰弱していくメルセゲルを見て、セ・アクは意地悪く笑んでいた。

「あなたは何も知らない」

「……っ」

 霞む視界の中、最後の力を振り絞り、メルセゲルは手をばたつかせた。

 子犬に物事を教えるように、憐れなものでも見るように、セ・アクが眉尻を下げる。

「お前は読み違えたのだ」

 優しく、冷ややかな声色。

 宙を泳ぐばかりだったメルセゲルの手が、ネブラトゥムの指を掴んだ。

 熱かった。

 いつもの、熱さだ。

 彼女の目がカッと見開かれ、ネブラトゥムに触れているのとは反対の手が星の欠片を目がける。

 訝しんだセ・アクが素早く手を引いた。メルセゲルの指先は、星の欠片に惜しくも届かず、虚しく空を切る。

 それでも彼女は諦めず、震える腕を精一杯に延べ。

 メルセゲルの掠れた声は、唇をほとんど動かすことなく吐き出された。

「運命に、正解はない」

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