ネセト

 メルセゲルと剣の王の邂逅と時を同じくして、ネブラトゥムもまた、王城の上空を睨めつけていた。案内された屋敷を窓から抜け出し、屋根に寝転んでいた。

 夜風にでも当たろうとしたのだが、深呼吸には向いていない風だった。

 ネブラトゥムの目線が上にあるといっても、彼の標的は星空ではない。城塞の頂上近くである。

 竪琴の音色のような音が降ってくることに気がついたのは、つい先ほど。その音を辿っていくと、どうやら城塞の中心から響いているようだった。

 出所を探ろうにも、ネブラトゥムが王城内をほっつき歩いていては、大慌てで寄ってきた衛兵たちに連れ戻されて終わりである。

 彼の疑念を解消するには城壁を登るしかないのだが。果たして、そこまで余計とも思えることを、しなくてはならない理由があるのかと問われると、無論、そうではない。なんせ彼は他国の王であり、招待された身なのだから。

「……」

 ただ、荒々とした砂漠を眼下に臨み、得体の知れない竪琴の音色を寝そべって聴いていると、眠っていた冒険心がくすぐられるような気持ちになるのだ。

 ネブラトゥムは、己の手のひらをじっと見る。ル・タのことを考えていた。

 彼が風抜や落日街の存在を黙認していたのは、それが必要なことだったからだ。未熟にして玉座に就いたネブラトゥムは、動乱のさなか、敏腕を以て悪党を統率したというル・タのことも、当然、聞き及んでいた。

 厳しい法を敷くことで民が疲弊し、国が回らなくなっては、商業都市において致命的な損害となる。だからこそ、ル・タという盗賊が民の心の支えとなって、暁都に余裕を生むのなら。それは願ってもないことだった。ル・タの残した功績は、どれほど手を尽くしたとて、明けの王には出来ない芸当だった。

 ル・タの悪事は、暁光の都にとっての、助け舟でもあった。明けの王の行なう政治への反骨心を抱いていながら、英雄の住む都を捨てようとはしない。そんな民で都は賑わい、潤った。その均衡は、わずかな綻びで崩れてしまうような絶妙さだった。

 まさかそれを、この身ひとつで行なっていようとは、夢にも思わなかったのである。

 ネブラトゥムの頭上からまた音楽が聞こえてきた。

 踊りだしたくなるようなテンポ。体が疼いた。ル・タに出来たのならば、この身体に出来たのならば。ネブラトゥムにも出来るはずである。

 彼は勢いをつけて立ち上がり、その場で何度か跳びはねた。

「さあ、冒険とやら」

 ネブラトゥムの抑えきれない高揚が、声に表れていた。

「この王を愉しませよ」

 裸足のままに助走をつけた。

 力んだ足裏が石造りの屋根を蹴って、向かいの砦に跳び乗った。自分が想像していたよりも、軽い音で着地した。

 身体が、身体の使い方を理解している。

「は、っ」

 ネブラトゥムの口は自然と笑んだ。

 目星をつけた壁を駆け登り、城塞の中央を仰ぎ見る。奏でられている旋律は、やはりあそこから流れてくる。高い塔の上。

 止まらない足に任せ、屋根から屋根へと跳ねる。

 曲のリズムが速くなり、合わせて鼓動も高鳴った。視界が、瞬く内に背後にゆく。世界を置いていくような感覚。ル・タの見ていた景色も、こうだったのだろう。

 満天の星が空を埋め尽くす中を、王の影が躍る。

 装いが乱れるのも気にならなかった。

 塔が近づく。耳に届く音楽が大きくなる。浅い呼吸を繰り返し、それでも苦しさは感じない。

 渡り廊下に向かって跳躍したネブラトゥムは、既に城を見下ろすくらいの高さまで到達していた。

 激しさを増していく音楽に乗って、彼はさらに上を目指した。

 暁都において、王とは象徴である。民より向けられる遍く賛美、遍く怨嗟の矢面である。そこに立つと決まった時より、悪である覚悟は出来ていた。

 英雄と王とを兼ねられるのは、戟塵の城塞、剣の王のように、武功を挙げる者が、武力によって国を治める土地に限定される。貿易で国力を培ってきた暁光の都とは、要求される強さも内訳も全く異なっているのだ。

 あの夜、王宮の寝室で重い瞼を開けた隣で、メルセゲルがしていた表情を思い出す。夜明けを告げる彼女の声が、朦朧とする意識を晴れさせたのを。

 ネブラトゥムの身体は、ほとんど勝手に動いていた。

 砂埃にまみれた手をはたく。

 竪琴に導かれるようにして、彼が音楽の源に辿り着いたのは、塔の最上部に設けられた、風抜き窓からだった。

 ネブラトゥムは、大きな竪琴を見つけた。それから視線は弾き手に移る。突然の来訪者に、響いていた音が止んだ。

 部屋の壁に掛けられた盾が、蝋燭の火に照らされている。

「盾飾り。剣の王の子息か」

 難なく塔の最上階に入ってみせたネブラトゥムを、竪琴の奏者はただただ呆然と見つめていた。王子だというのに、シーツに包まっているだけの、雑な身なりをしている。

「驚かせたな、許せ……うん?」

 竪琴の方に歩み寄るネブラトゥムの顔が、怪訝なものになっていった。王子が貧相である見た目であることにもだが、彼が注目したのは、何より王子の容姿であった。メルセゲルを初めて目にした時と、同じ心の部分がざわついた。

 ウェーブのかかった髪、陶器のごとく白い肌、恵まれた背丈。ところどころに剣の王の血を感じさせる彼には、父親同様、恐ろしいくらいの美丈夫という言葉がよく似合う。

 だが、彼の感じさせる異様さはそれだけではなかった。

 ネブラトゥムの口から疑問が溢れた。

「お前…何故、そんなにも……白いのだ」

「……」

 まるで珊瑚の死骸のようだと思った。

 頭の頂点から足の先に至るまで、シーツの隙間から覗く体の全てが真っ白の、彼。唇、瞳孔に至るまで。

「いや、すまない、失言だった」

 ネブラトゥムは恥入りつつ、己の身だしなみを整えた。

「蔑める意図はない。気を悪くしただろう、謝らせてくれ」

「……」

「心地良い音楽だったので、礼を言いに来たのだ。素晴らしい演奏の腕前を持っている。息苦しい夜を裂く痛快さだった」

「……」

「おい?」

 彼はネブラトゥムをぼんやりと眺めていた。

「聞いているのか?」

「……」

 ぼうっと突っ立ったまま、彼は何も答えない。

 言語が通じていない、というふうでもない。

 ネブラトゥムが険しい顔で、王子の肩を揺さぶった。

「おい」

 王子の表情は変わらない。

 ネブラトゥムの眉間にさらに深い皺が寄った。戟塵の城塞の王子ならびに王女は大体が彼の顔見知りだが、鼻先が触れ合いそうなくらいに近くで見ても、覚えのない顔をしている。

「……」

 分かるのはただ、ネブラトゥムの知っているどの子息よりも、剣の王本人に似ているということだけだった。

「……」

 吹いたら飛んでいきそうな儚げな雰囲気や、ゆっくりと瞬きをする仕草なんて瓜二つだ。

 ふと、自分が名乗っていなかったことに気がついたネブラトゥムは、彼を掴んでいた手を引いた。

「……失礼した。明けの王ネブラトゥムである。暁光の都より、剣の王に招かれてここにいる」

 王子はそこで初めて、目の前に立っているネブラトゥムに焦点を合わせた。

「まずは無礼を働いたことを詫びよう。竪琴の音色を聴いている内に、気持ちが昂ってここまで来てしまった」

 彼が何か言うのではないかと、ネブラトゥムは待った。しかし、彼の予想に反して、王子は喋ろうとするそぶりも見せなかった。

 代わりに彼はネブラトゥムから離れ、ふらふらと寝台に向かっていく。

 ネブラトゥムは眉を顰めた。

 室内は散らかっているが、あつらえられた家具や調度品は、見るだけでも分かる一級品揃いだ。剣の王は全ての子に優しい訳ではない。つまりはこの亡霊のような王子が大事にされているという証明である。

 積まれた書物に埋もれそうになりながら、何かごそごそとやっている彼を、ネブラトゥムは訝しげに見つめていた。

「解せぬ」

 謎は深まるばかりだ。

 王子が彼の元へ帰ってくる。手には絵巻物が握られていた。

「……」

 彼はそれを、ネブラトゥムに差し出した。

 ネブラトゥムの視線が、王子と絵巻物を往復する。王子の表情は相変わらず呆けていた。

 注意深く受け取ったそれを広げてみる。戟塵の城塞圏の言語、赤い土地デシエルトの東の言葉で書かれていた。

「星送り……?」

 ネブラトゥムが表題を読みあげる。彼は、聞き取ったり話したりということは難しくとも、読み書きの教育は受けていた。

 上から下へ、目を通していく。

 流星が帰り道を見失い、星の墓場に迷い込む。迷子の流星は墓守の助けを借りて、空に還るという話だった。

「童話か何かに見えるが…何故これを?」

「……」

 王子の反応に変化はない。

 埒があかない。ネブラトゥムは長いため息を吐いた。

 一体どうして彼は、だんまりを決め込むのか。

 何かいい策はないかと腕を組み、そして、あることを思いつく。

「お前」

 彼は王子に顔を向けた。

「腹は空いているか?」

 すると王子は、首を左右に振った。

「夜半も過ぎたが、眠くはないのか?」

 彼はまた首を振った。

「ほう。竪琴を弾くのが好きなのだな」

 王子が今度は縦に、首を頷かせる。

「ふむ、なるほど」

「……」

 ネブラトゥムは腕を組んだ。

 王子は、肯定と否定の表明はするようだ。なぜそのような方法を取るのかは定かではないが、それが彼なりの、居心地の良い間合いなのだろう。

「是非、近くでお前の演奏を聴きたいのだが、弾いてくれるか?」

 王子が頷いて、竪琴の方へと歩いていく。

 ネブラトゥムの背丈と差のない大きさをしていた。女であれば、二人がかりでやっと弾くような大きな竪琴だ。

 王子は背もたれのない、丸椅子に腰掛ける。隅々まで磨かれた竪琴、彫刻の施された座面に、外套のごとくシーツを被った彼が挟まっているのは少々不均整にも思えたが、妖精のような王子の佇まいが、そんな違和感すら消し飛ばしてしまいそうであった。

 王子がかすかに息を吸った。室内がしんと澄んだ。

 彼は一瞬、ネブラトゥムを窺った。

 その視線には、やはり虚があるのみだった。

 白い指先が、弦に触れる。

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