凶星
暗い、暗い道をゆく。
左腕でメルセゲルの腰を抱く剣の王の右手には、揺らめく火を灯すランタン。心許ない明るさで通路を照らしていた。
身を屈めるようにして歩く彼は、困ったようにメルセゲルを見やる。
「ご機嫌ななめだね?」
「……見上げても石の表面が見えるだけの場所で、どう機嫌を直せと?」
剣の王が目を逸らし、苦笑した。
「そもそもわたしは、おまえに協力するともしないとも言ってない」
「うん、そうだね。でも君だって、しようと思えばできるはずだよ、抵抗の一つや二つ」
「鏑の取り決めを自ら捨てたりするものか」
「ああ…聡いね、君は。本当に」
剣の王の声色はどこか恍惚としていた。
「楽しいよ、すごく。こんなにワクワクするの、いつぶりだろう」
メルセゲルの訝しげな表情にも、彼は笑顔を返すのみだ。
「僕と同じ視線にいる。君が戦場に出たら、きっと素晴らしい軍師になるんだろうな。いいなあ、闘り合いたいなあ」
剣の王はそして、前を見据えたまま狭い通路を抜けた。
「君がここにいれば、戟塵の城砦はより強くなる」
到着してみると、それは監獄のようだった。足元にずらりと並べられた蝋燭が道を作っている。
剣の王が、ある牢の前で立ち止まった。
「だと思った」
メルセゲルが独り言のように呟く。整えられた服装は既に台無しになっていた。
「強きを求めるおまえのことだ、この好機、みすみす逃すはずもない」
「その通り。こんなチャンス、滅多に巡ってはこない」
牢の前にランタンが掲げられ、中に収容されている人物が照らしだされる。
「素直に僕の望みを言おう、王妃セプデト……いや、名も知らぬ星詠みよ。君が欲しい。この国を、僕の理想を、より確かなものにするために」
メルセゲルは、牢の中をちらと見た。大きな牢だった。ざわめいていた。
その中で一際引き攣った息を漏らした者を、彼女の瞳が自然と探していた。
「なぜここに」
しわがれ声が近づいてくる。思わずといった様子であった。
乾いた足音を立てて、ランタンの所までやってきたその人に、剣の王はにっこり笑って見せた。
「やあ、こんばんは族長」
「な、なぜ……それが、ここにいるのです」
憔悴しきった顔を驚愕と恐怖に染めあげ、族長はメルセゲルを指差した。指先がかたかたと震えていた。
剣の王の方は彼に取り合う気はないらしく、抱き寄せた彼女と目を合わせた。
「さあ、投了は目前だね?」
「……」
「びっくりしてないの?」
「……暁光の都から戟塵の城塞に向かう際。恵みの河の水位に違和感があったんでな。シンの谷に何かあったんだろうとは思ってた」
「ああ、そんな所まで……ふふふ」
「……」
「また黙った。やめてよ、僕それ苦手なんだ。空っぽみたいでさ」
「融通の効く戦略、多方面への根回し。それを正道にしてしまえる器量。確実に勝ち筋を見つけて、機運を掴み取る。用意周到、という言葉は、おまえのためにあるんだろう、剣の王」
「わあ、ありがとう。観念してくれたかな?」
両者の視線を遮って、檻から手が飛び出してきた。
族長のものだ。
「それは、っそれは、口にすることも憚られる大いなる災いぞ!」
半狂乱になっている。
「よくも皆の前に現れたな。キサマのせいで、シンの谷が壊滅したというのに!」
「黙っててくれるかな」
煩わしげに剣の王が族長を押す。老体はいとも容易く、冷たい床に倒れ伏した。
メルセゲルは間近でそのやり取りを見ていながら、ぴくりとも表情を変えなかった。
「効果的な脅しだ」
「君が僕の願いを聞き入れてくれなければ、月影の隣人が、シンの谷がどうなるか。分からない君じゃないよね?」
牢の中には、絶望を漂わせた人々が詰め込まれている。
「彼らの檻はあと三つある。それが恐らく、あの夜いなかった君以外の全て」
「月影の隣人を、種族を人質にとるか」
「強き国を造る。そのためなら、なんでもするさ」
剣の王の笑顔もまた、崩れない。
「競合、侵略、制圧。戦争は人間を進化させる。技術に文化も、発展させる。そうして国は強くなる。闘争は生物の本能だ、在り方だ」
「おまえを否定はしないさ。犠牲なくして上に立つは偶像の器、王とは違う」
メルセゲルの言葉に、彼女を拘束していた剣の王の腕が緩んだ。
「だが悪い。これじゃ不十分だ。おまえの物にはなってやれない」
「キサマ!!」
がしゃんと騒がしく檻を掴んだ族長が、今度は激昂し顔を真っ赤にしていた。
「シンの谷を荒らし、我ら月影の隣人を苦境に喘がせ、これほどまでに追い込んでおいて、なんだその言い草は! その涼しい顔は!」
「なぜわたしのせいにする」
「キサマのせいに決まっているだろうが! こうなってしまったのは他でもない、剣の王へ献上する星詩や星図の作成を、キサマが放棄したからぞ! あれさえあれば、我らの故郷は安泰でいられたのだ、それをキサマがメチャクチャにしたのだ!! 許さん、許さんぞ、断じて許すわけにはいかぬ、このッ…凶星めえッ!!」
族長は肩で息をした。
糾弾に耳を傾けていたメルセゲルは、かすかに目を伏せた。剣の王は彼女の動きを見逃さなかった。緩めかけていた腕に力を入れ、再びメルセゲルの腰を抱き寄せる。
「ああなんだ、僕の星占いは君だったのか」
「わざとらしいぞ、知ってたんだろ」
「どうかな?」
「星詠みだというわたしの星図に見覚えがあったから、食い下がったんじゃないのか。興味を引いて、わたしを知ろうとした」
メルセゲルは眉を上げ、牢の中に投げかける。
「わたしの星図やら何やらをやたらと押収したのはそれが理由だな、族長」
「えっ?」
剣の王から、素っ頓狂な声が出た。大きな目をぱちくりとして、メルセゲルを凝視する。
彼女は彼の無言の圧には構わず続けた。
「本来、赴くままの星詠みに、催促と強要を繰り返した。星詩が気に入らなければ詠み直せと罵った。わたしの了承なしに星図の写しまで取りやがった。忘れてないぞ。シンの谷の生まれだろうと、自分が月影の隣人だろうと、だからといって故郷なんてものに手放しの恩情などあるものか」
「ねえちょっと待って。君が、僕の星占いをしていたんじゃなくて。彼が。君の星占いを僕に流してたっていうの?」
「ああ、その通りだ」
「い、いや、わしは……」
「わたしの預かり知らない場所で、おまえのために誂えた物だなどと謳ってたんだろう、勝手にな」
「キサマっ!」
「へーえ?」
「あ、いやっ…その……」
メルセゲルに食ってかかる族長だったが、剣の王に捉えられると、途端にしどろもどろになる。
「そ、その…その凶星めの言うことを信じてはなりません! そやつはシンの谷に災いをもたらす凶兆。絆されては、
「よく回る口だ」
メルセゲルが嘲りを吐き捨てる。
「非情、冷酷。はは、間違いないな。至極当然。そもそも、おまえたちの師匠への態度を知っている身で、どうしておまえたちに情が湧くと思えるんだ? 脳が風化してるんじゃないのか。星詠みとしての力を認め、畏れていながら、敬意ではなく迫害を以て師匠を孤立させた」
「それはあやつが」
「凶星に手を延べた星詠みだっただけだろう」
メルセゲルは族長の顎に、指を突き立てた。
「異様だったから、異形だったから、異常だったから、異端だったから。おまえたちはそればっかりだ。師匠がいなきゃ、あの谷はとっくに滅んでた。だってのに、おまえたちは歩み寄らなかった。思考を拒んで星を眺め、夜を生きてただけだ。何より怒りを覚えるのは! おまえたちとこんなことをしてる間にも、空は、星の盤面は変化していってるってことだ。こんなところで、おまえたちとこんなことをしているせいで、星を見られない、全く以て許し難い。腑が煮えくり返りそうだ」
口走ったメルセゲルが息を呑んだ。
沈黙は一瞬だった。
彼女の足先が、元来た方向ににじり。
「凶星、捕虜、煮えくり返る……」
彼女は手を引っ込め、ぶつぶつ言いだした。
「谷、大河…水位……」
彼女は真剣な面持ちを牢屋の地面に俯かせる。それから唇を動かした。
「祝福」
吐息ですらない言葉だった。メルセゲルが目を見開く。漆黒の瞳がわずかに揺れた。
「テラル」
彼女に名を呼ばれ、剣の王の体が硬直した。
刹那、メルセゲルは彼の隙を突き、腕をすり抜ける。
「あっ」
剣の王が声を上げた時には既に、彼女は牢獄の暗がりの中に駆け出して行った後だった。
遠ざかっていく足音を、剣の王と囚われの月影の隣人たちで聞く。
「ふ、ふふ。ふふふ」
薄暗い牢の前で、剣の王の頭が静かに、檻を向いた。
「見たかい、あの子の素晴らしさを」
「あ、あれはただの凶星で……」
「たとえそうだとして。僕に何か問題がある? 君の言う災いとは何? 君の言う凶星とは何? 戟塵の城塞に何が訪れるの?
「それは、っ」
「答えられないのなら、僕にとって重要なのは、君たちよりもあの子だ」
「なっ!?」
族長は信じられないという顔をした。
「一種族よりもあの、あの凶星を選ぶというのか!」
「うん」
即答であった。
にっこり頷く剣の王に、族長は物を言えなくなってしまう。
「それより、君たちは、どうしてあの子を凶星と呼ぶのかな? 見た目に大差はないし、能力で言えば、あの子の方がよっぽど優れている。僕に言わせれば君たちは、妬み嫉みであの子に不当な扱いを強いてるようにしか思えない」
「まさか! 月影の隣人がそんな低俗だとお思いか! ああ、なんということだ。なんという屈辱か! やはりあれは我らに不幸しか呼び込まぬ最悪の存在! 凶星の星図なのだ!」
頭を抱えた族長が崩れ落ちる。
囚われの彼らは一様に、傷ついた顔で項垂れていた。
剣の王の手がランタンを粗暴に取った。
「凶星の星図」
反芻した剣の王の目がらんと光った。
「……じゃあ、あの子が」
彼は、メルセゲルを最後に見た、闇を見る。
「運命の日に、生まれた…子」
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