呪いの丘
星々の墓場がシンの谷なら、星の死に場はどこだろう。
揺蕩うような感覚の中、ぼんやりと考えた。
そして意識は覚醒する。
焼けた砂の匂い。乾いた風には塩味と苦味。ぱちりと瞼を持ち上げる。
寝ぼけ眼には、久々の光は眩しく、見上げた拍子に思わず喉が鳴った。
「ああ、クソ。天井だ」
「お目覚めですか」
光は、揺らぐ灯火だった。照らし出された影を見る。
首を傾げた。耳飾りが音を立てた。
自然の岩を浮き彫りにして誂えたような厳めしい椅子に、男が座していた。程よい肉づきで、すらりとした骨格をし、美しい比率の身体だった。足を組んで構えているのが、絵画の中から飛び出たかのごとく様になっている。
片側に寄せて垂らした長髪の艶からも、丁寧に自身の手入れをしているのが見てとれる。
ただ、とメルセゲルは思った。
「見覚えの、ないやつだ」
「ええ、初めまして、です。私はセ・アク。黄昏の洞および呪いの丘の代表」
「セ・アク……」
「はい」
「…赤き導きよあれ」
「赤き導きよあれ。どうぞお見知りおきを、セプデト様」
恭しく礼をする仕草に既視感を覚えた。
「さて、思うところも様々おありと存じますが」
彼は傾いて肘をつく。
「ありますか、何か」
試すような視線を向けられたメルセゲルは、身体を起こした。頭が重い。
皿に置かれた灯火で明るくなる範囲はかなり狭く、セ・アクの表情は窺い知れない。彼がメルセゲルを測ろうとしていることだけは感じ取れた。
彼女は少々の間をとって、風上に顔を向ける。
「……よかった」
セ・アクのつま先がぴくりと動き、彼は黙って次の言葉を待った。
「夜に間に合って」
風の吹いてくるそこは、今いる場所よりも更に明るく、洞穴の口であることは容易に想像できた。あれはまだ太陽の沈んでいない外の眩さだ。
安堵の息をつく。
セ・アクが若干取り繕うふうに声をかけた。
「なるほど。今夜はちょうど、翼が天上に掛かりますからね」
「ふむ」
メルセゲルが背後のセ・アクを振り仰ぐ。
「星を、見るんだな」
「好きが高じて」
そう言った彼は、懐から
「お返しします」
「…………感謝を」
受け取ったメルセゲルはそれをじっと見つめ、困惑を見せた。
「どこで落としたんだ、無いとは思ってたが……いつ」
「流星群の夜に」
口走った彼女が、セ・アクの返事に目を見張る。
羅針盤が握り締められ、かすかに軋んだ。
「東の言語を?」
「教育の一環で」
「……底の知れないやつだな、おまえ。非常に高い水準と質の教養を備えている。天文学なんて、学びたくても学べない、前提の要求が重いから。好きという理由だけでそこまで出来るのは」
言いかけた口を閉じ、メルセゲルは両手を差し出す。
「……縛るなり抑えつけるなり、なんでもしていいから。星を見させてくれ、日が落ちた」
「まさか。そのような無体は働きませんよ、セプデト様に対して」
「セプデトで構わない。王族が謙るなんておかしいだろ」
セ・アクが彼女の両手をとって、引っ張り上げる。
「おまえが、あいつの言っていた
メルセゲルの華奢な体躯は反動で立ち上がり、彼の腕に支えられた。間近になってようやく、セ・アクの顔立ちがはっきり視認できた。
彼と目を合わせたメルセゲルが、睫毛をわずかに震わせる。
「隻眼、か」
「しかと見えております」
セ・アクの片側の瞳は、メルセゲルに似て暗い色をしていた。よく見ると、眉毛も黒い。
「生粋の太陽の民なのですがね、これでも。最近は、髪まで黒ずんできた気がして」
彼は流れるようにメルセゲルを洞の外まで付き添わせた。
洗練されたエスコートに、彼女は面食らう。
セ・アクは連れ立ったまま、砂岩で形づくられた洞を出ていく。メルセゲルは洞の全貌を確認しようとした。
「ああほら。天の頂に鷲獅子の翼が」
しかし、彼の言葉に、振り返りかかっていたメルセゲルの顔は上を向いた。
呪いの丘と呼ばれる砂丘は、他の砂漠の砂よりも色が白んでいて、雲上のごとき様相を呈していた。呪い殺された者たちの骨が積もって砂漠になったという伝承があるが、彼女の瞳には明るく映った。
満天の星空が、今夜も砂上に星図を描く。
鷲獅子座の翼の先に、一際強い輝きを持つ星。
「乙女の星ですね。今夜も澱みなく、美しい」
セ・アクが呟いた。
大きな漆黒の眼を、メルセゲルがぱちくりとする。
彼女の視線を感じてか、彼は空から視線を戻し、眉尻を下げた。
「弟とは違いますか」
「うん、全く」
セ・アクの困り顔から笑みが漏れる。
「おまえとネブラトゥムに何があった」
「……全てをお話しすることは出来ません。私も、全てを知っているわけではない。しかし、これだけは伝えておきたい。ネブラトゥムは私のために犠牲となったのです」
「戟塵の城塞では星宿しの儀が執り行われた。暁光の都では、何が起きていた?」
「あの日、王宮で行われようとしていたのは…人を抜け殻にしてしまう、呪いの儀。日没の一族に伝わる秘術でした。私と、ネブラトゥムの父。暁都の王は代替わりを恐れていた。そこで、次代の王を抜け殻にすることで、政治を意のままに操ろうとしたのです。日没の一族を迎えて準備は整えられ、私を、物言わぬ傀儡にする工程は順調に進んでいた。ネブラトゥムが身代わりを、王に進言するまでは」
「抜け殻」
囁くようにメルセゲルが繰り返す。ネセトを思い出さずにはいられなかった。
当然、彼女にとっては聞き馴染みのある言葉だ。乙女の星が瞬いた。
「ネブラトゥムの首から下に刻まれた呪いの紋様は、儀式の贄として捧げられる身に入れられるもの。あなたも見覚えがあるでしょう。本来ならばこの身に刻まれるはずだった」
「……星宿しの儀を行なったネセトは抜け殻に、呪いの秘術の贄となったネブラトゥムは星を宿し。結果がまるで反対だ」
「ええまさに。儀式まで時間はありません。私があなたにお願いしたいのは、あの日の真実を見出すこと。私は、
セ・アクはメルセゲルを見つめた。
「なんの因果か、同じ日に謀略の犠牲となったあの二人の。呪いを解いてやりたい。どうか、お力添え頂けないでしょうか」
「なぜ拐わせた」
「そうでもしなくては、運命を味方につけられないからです。大いなる流れを荒らすほどの、大それたことをする前には、より大それたことをしてみせなくては」
「運命に、抗うと」
「抗うのとはまた違う。運命を、こちらに手繰り寄せるのです」
「なるほど。道理だ」
メルセゲルの目は空に執われ、セ・アクを瞥することはついぞなかった。
「わたしが断ったら、それも運命か?」
「あなたの運命は、私の力となることで決定しているはずですよ。王も王妃もいない暁光の都を、どうするかはお分かりでしょう」
「暁光の都には戟塵の城塞がついている。戦力差は目に見えていると思うが」
「
「ほう……囲い海の向こうにまで協力者がいるか」
「あなたに選択肢はない。儀式の成功のために、力を貸して頂きます」
ネブラトゥムやネセトの身に、ル・タに何が起こったのか。
それを知ることは、師匠の足跡を追うメルセゲルにとっても重要なことのように思えた。
「呪いを解くのに、儀式が」
「はい。強力な呪いですので、規模の大きな儀式が必要です」
「……隼の王は、まだここに?」
「ネブラトゥムとネセトを連れて来た夜のうちに、発ってしまいました。儀式の当日にはまたいらっしゃいますよ」
「それはいつだ」
「明日です」
「すぐ、だな」
「事が起きたのは明日の日付です、二十年前の。呪いを解くのなら条件はなるべく揃えた方がいい」
「ネブラトゥムはどこにいる?」
「おや、いけませんよ。逃がされては堪らない。あの二人は私が…黄昏の洞が身柄を引き受けております。接触がないよう、あなたは、日没の一族の集落へ」
メルセゲルが辺りを見渡した。
黄昏の洞、という名のこの土地は蟻塚のように盛り上がった砂岩に多くの穴が空いていた。
砂丘の向こうに、寂れた建物群が見える。あれが、日没の一族の集落だろう。
日没の一族はかなり前に黄昏の洞へと移り住んでいて、住んでいた家屋はほとんど廃墟になっているのだとイアトから聞いた。
「ネセトも、こちらに?」
「もちろんです…と言いたいところですが、実はここ数日ふらふらとしていて。よく行方を眩ませては、近衛たちを困らせているのです。あちらの集落にいることもあるそうですが」
セ・アクは拳を握った。
「あなたから彼の元へ出向くのはおやめくださいね。あなたがネブラトゥムやネセトに会うことは、私を以てして許し難い。理解のほどをお願いいたします」
「ふむ……まあ、星が見られるならそれでいい。わたしには酷いことをしてもいいので、彼らは丁重に扱ってやってくれ」
「献身的ですね。自由の身であるが故でしょうか。星詠みとはやはり眩しい」
「違うよ。わたしの背負うそれは宿命。それにあの二人は、国家間の争いの火種として優秀すぎる立場にあるから。下手を取ると
「ああ、そういう意味でしたか」
「他にどういう意味が?」
「いえ。なんでも。ご心配なく。黄昏の洞の威信に賭けて、最上級のもてなしをしていますので」
「ならばよし」
メルセゲルはそれきり黙って、星の輝きに集中した。熱心な彼女の様子に、セ・アクも倣って空を見る。
広大な砂漠を覆い尽くす勢いの星々は、言うまでもなく圧巻の光景であった。
感嘆の吐息がセ・アクから聞こえた。
「誰かと…星を見るのは初めてだ」
彼の言葉は、寂しさのような、嬉しさのような、微妙な感慨を帯びていた。
「最後まで、ご一緒させて頂いても?」
「いいよ」
こうしてセ・アクとメルセゲルは、静かに夜空の変遷を見守った。
穏やかな気流が洞穴を通り抜けていく。死を運ぶと云われる呪いの丘の風は、やはりほのかに焦げ臭い気がした。
「星の、死に場……」
メルセゲルは自分の抱いた疑問を思い出す。
「……師匠」
彼女の呼びかけは、星空に吸われた。
とにかく今は、隼の王の到着を待つ他にない。あとは、剣の王の言葉を信じるのみであった。
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