黄昏の洞
上機嫌な鼻歌が、ひらりとした衣をすり抜ける。
「さすがの敏腕。隼の王は衰えなど知らないようだ」
「なあに、ついでよ」
「希望の品を二つ同時にとは……幸運な巡り合わせです。赤き導きは我らの許に…それとも、これもまた運命、でしょうか」
「ハッ、運命だと」
隼の王よりも先に口を開いた者は、不遜な態度を隠しもせずに地に座り込んでいた。ネブラトゥムである。
縛られていない体をくつろげて、ゆったりと胡座をかいていた。
「ほざくのも大概にしておけセ・アク」
ネブラトゥムは鋭く見下ろす視線に対し嘲りを示した。
「そんなものに魅入られたから失脚したのだ。よもや忘れてはおるまい」
「忘れるものか。運命とは儘ならぬもの。私の味方でなかったというだけだ、あの時は……それはそうと、ネブラトゥム。まるで思い出したかのような口ぶりで話すではないか」
今度はセ・アクが嘲笑を浮かべる。
「忘れているのはお前の方だとばかり」
「貴様が不愉快を働いたという事実の他に覚えておくことなどない」
「強がりめ」
ネブラトゥムの表情が一層厳しくなる。険悪な空気に居た堪れなくなった隼の王は、肩をすくめた。風が微量の砂を運んでいた。
「隼の王よ。これのどこが答えだというのだ?」
彼は体をぴくりとも動かさずに問うた。怒りによる強張りとはまた別に意味を持っていそうな雰囲気を醸し出していた。
セ・アクは興味深いといった面持ちで腕を組んだ。
「おやおや、彼に知恵比べを挑んだところで、完膚なきまでに打ち負かされるのみだろうに」
「黙っているかここを去るかしろ」
「出てゆくならば止めはしない。振り返って、真っ直ぐだぞ」
「どこまでも不快な男だ」
「はいはい」
隼の王が勢いをつけて手を打った。乾いた音が洞穴にこだました。
「喧嘩はそこまで。いかにも青くて俺ぁ好きだが。ほら見ろ」
彼が指していたのは、ネセトが寝転がり、辺りを緩慢に見回している様だった。
「久々の再会だ、昂っちまうのはしゃあない。だからって、俺が相手したいのは、理性のない泥人形じゃねえ」
睨みを利かせる隼の王には、普段にはない圧があった。
「話をしようぜ。有意義な話をよ」
口の端に乗せている薄ら笑いすら不要だと、表情を引き締めた。彼の姿勢に、ネブラトゥムもセ・アクも押し黙る。
年数を重ねてきた隼の王の放つ言葉が、岩肌に吸い込まれていく。
「俺はキミと商売をした、日没の一族の当主よ。ご満足はいただけたかな?」
「ええ、文句のつけようもない素晴らしい仕事に、感無量でございます。報酬はお約束通り、既に手配済み」
「おう、ありがとよ。俺がキャラバンの評判落としてちゃあ、世話ねえからな」
隼の王はずっと寝転んでいるシーツの塊をはたいた。
「ああもう、砂埃まみれじゃねえか。ずっと塔にいたからはしゃいでんのか? 起きろ、ネセト」
「不愉快な名だ」
ネブラトゥムが呻く。
セ・アクは聞こえないふりをした。
「塔?」
「テラルがコイツのために造った塔だ。一番上に居室があった」
「ではネセトには、なるべく上階の洞を用意させましょう。その方が落ち着くかもしれない」
「ああ、そうしてやってくれ」
「お前も何か希望はあるか?」
セ・アクの目線がネブラトゥムへと移動する。
「聞いてやるぞ。可能な範囲でな」
「今すぐ我が都に帰りたい」
「やれやれ。可能な範囲で、と言ったはずだ」
唯一、椅子に座していたセ・アクは、鼻から息を抜きながら背もたれに寄りかかった。
「お前をここから出すわけにはいかない」
「何故」
「故など聞いても得心しないだろうが、お前は」
ネブラトゥムの眉間の皺が深くなるたびに、空気が張り詰める。
「強いて言葉にするならば、所謂、野望や悲願というものだ」
「その為にこのネブラトゥムとネセトを拐かしたと?」
「ああ」
「……玉座の亡霊だな。結局、考えていることは我が臣下どもとなんら変わらん」
吐き捨てるような口調だった。
セ・アクの唇が弧を描いた。
ずざりと、砂が岩を削る音が響く。
「どうしたネセト」
いち早く振り向いた隼の王が声をかける。すると、ネセトの傍に、動く影を見た。大皿ほどの大きさの、軽快な動物である。
ネブラトゥムは首を傾げた。
「猫?」
「おや、マウ」
セ・アクの声音が柔らかくなる。
「散歩はもういいのか? 日が出るまでまだ少しあるが」
マウと呼ばれた猫は、セ・アクの問いかけなどどこ吹く風で、ネセトにじゃれついていた。すらりとした白い体には薄い灰色をした斑模様が浮かび、夕日のような瞳が篝火にキラキラと反射した。
目だけで説明を求めるネブラトゥムを見て、セ・アクは億劫そうなため息をついた。
「一族の一員だ」
聞いたところでネブラトゥムの懐疑は和らがなかった。だが、隼の王がこちらを見てくるので、追求するのはやめにした。両耳の羽飾りのかすかな擦れ音がした。
ネセトはネセトで、何かをするでもなく、マウのされるがままであった。父親譲りの癖毛で遊ばれ、骨の出た肩や尻を踏みつけられ、呆けた顔に頭突きをかまされた。
「珍しいですね。よそ者にはあまり懐かないのですが」
「あんのかもなあ、野生というか本能というか。理知に囚われない、なんか感じるもんが」
隼の王も興味津々なようだった。
マウは伸びをして、彼らのいる洞穴からスタスタ去っていった。
「……」
「あっ」
急に起き上がったネセトが、それを追って行ってしまう。
「待て待てネセト!」
隼の王は目を剥いて、大慌てで駆けていく。
ひやりとした夜の砂漠の、砂粒が低く鳴っていた。
しばらくしてから、セ・アクが口を開いた。
「暁光の都は、順調のようだな」
「お前がいないからな」
「そうでなくては」
伏し目がちにセ・アクが笑う。ネブラトゥムはますます険しい顔をして、頬杖をついた。
「風の噂で、お前が妻を娶ったと聞いた」
「祝いなら不要だ」
「喜びが我が内にあるかどうかはさておいて、暁都にとってはめでたいものだろう。黄昏の洞および呪いの丘を代表して、お慶び申し上げる。赤き導きよあれ」
「…………どうも」
歯を噛み合わせた奥から、それだけを発した。体裁と、メルセゲルを思ってのことであった。
彼の顔はそっぽを向いたきり動かない。
セ・アクは困り果てた様子で顎を撫でた。
「王妃の名はセプデトと聞いたが」
「そうだ」
「良い名だ。大きい方の太陽を冠するとは」
「なんだそれは」
「この辺りではそう呼ばれるのだ、あの星は」
俯いたセ・アクが顔を上げる。
「……お前はあの夜、流星群を見たか?」
「いいや」
「そうか」
「もういい。余計なお喋りなど、今更して何になるというのだ」
ネブラトゥムは耐えきれずに立ち上がった。
「部屋は」
早口で返答を待つ。苛立ちで体が熱っていた。
セ・アクはそんな彼を見て、会話を断念したようだった。
彼が足を組み替えた。ゆっくりとした、品のある所作だった。
「案内させよう。ここを出た先にいる近衛に尋ねると良い」
ネブラトゥムは聞くや否や、大股で洞穴を横切る。
「最後に一つ、ネブラトゥム」
セ・アクは去りゆく彼の背中に問いを投げかけた。
「側近は息災か」
「何?」
「お前の側近だ」
「……ああ」
「それならば良い。ではな」
ネブラトゥムはなぜ今そんなことを訊くのかと言いたげに足元の砂を蹴った。
彼の姿が見えなくなって、ようやくセ・アクが立ち上がる。
おもむろに懐から取り出した物を見つめる。妖女の羅針盤。
「否…星詠み、か」
セ・アクは吊るされた小さな篝火の炎を吹き消した。途端に洞穴は暗がりに溶ける。煙が砂漠に流れていった。
彼の姿は影と同化し、どのような思いでこの言葉を口にしたのかは、もはや闇のみの知るところとなった。
「まだ、いたとは」
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