第二章 戟塵の城塞

プロローグ

 切り立った崖の隙間から無数の星が輝く様は、割った原石の内に光る宝石の美しさに匹敵する。

「ここからの眺めは何度見てもため息が出ちゃうな。星空を切り取ったみたいでさ」

 谷間を吹き抜ける夜風が、優しい独り言を運ぶ。跨っていた砂鯨が頭を振った。眉尻を下げて彼は笑う。長いブロンドの髪を靡かせていた。

「あーあ。だからお気に入りだったのに」

 彼は至極、残念そうに目を閉じた。筋肉質でいてすらりとした、彼の白い腕が掲げているのは、老いた男の体であった。彼の手が、その喉元を鷲掴んでいる。

 苦しげな老年の呻き声など彼は気にも留めていなかった。

「そもそも、君の提案だった」

 世間話となんら変わらぬ声色で。

「決して外さない優秀な占星師がいる。戦況を占わせるから、代わりにここは冒さないでほしい。ここまで飛び火しそうな戦の火種は消してほしい。そうだったね?」

 返事があろうとなかろうと、どうでもよさそうな、凪いだ瞳をしていた。

 宙ぶらりんの老いぼれは、必死にもがき、弁明を口にしようとした。

 しかし、有無を言わさぬ彼の穏やかな圧がそれを許さない。

「これまでは互いに誠実だった。関係は良好に続いていたし、きっとこれから先も続いていくのだと僕は思っていた。だけど」

 そこで彼の肩が下ろされた。老いた男の体は岩肌に叩きつけられ、しわがれた咳き込みが谷間に響く。

「君が反故にした。君は約束を違えた」

 彼の視線は星空に注がれたままだ。

 フラフラと老いた男が立ち上がり、彼の砂鯨に縋りつく。

「ちが、違うのです。我々の仕業ではない! あれが勝手に……」

「駄目だよ。もう駄目だ。僕は君を信じることはできない。君は僕の信頼を裏切った。簡単に取り戻せる問題じゃない」

「後生じゃあ、どうか、お聞き入れくだされ! 赦してくだされ!」

「口約束とはいえ、国家と国家で結ばれた協約だったんだよ。それを破ったということは、僕たちへの挑戦状であると僕は受け取った」

「そんな! どうか、どうか! どうかお慈悲を!」

 ほとんど泣き喚くようにして、老人は請い願った。

 彼の砂鯨がひれを動かし、老人を振り払う。

 話を聞いてやる気など最初から無い、とでも言うように。

 彼の後ろには、砂鯨の隊列が控えていた。

「それじゃあ降りて。この先は岩だから」

「ああ、ああ、そんな、そんな……」

 打ちひしがれる老人を、隊列の先頭にいた兵士が捕らえる。

「おやめくだされ、お願いします、お願いします! 我らはただのひ弱な人間です! あんな数が攻め込んできたら滅んでしまう! 滅んでしまいます!!」

「安心して。君の故郷を滅ぼすつもりはない。あの地にはただこれから蹂躙が待つだけだ」

 彼はなんともなしに言ってのける。

「君に裏切られて僕は傷ついたんだ。その心の穴を埋める、お手伝いをしてほしいだけさ」

 柔和な微笑みを絶やすことない彼からは、底知れない狂気すら感じられた。

「それに、僕が君だけを許しても、君が辛いだけだと思うよ」

「あ…あ……」

 彼の言葉に、老人は絶望した。この仕打ちはもう決まったことなのだと気づいてしまったからだ。ここで老人一人が状況を覆そうと奮起しても無駄なのだと、分かってしまった。

 もう彼に、老人たちを許そうという余地は残されていないのだ。

 彼らの進軍を止めることはもう、不可能なのだ。

 老人ががっくりと肩を落とす。

 乾燥した頬を涙が伝った。

「逆らうつもりなど…なかったのに……」

「そう? 別にいいのに、逆らってもらっても。その方が楽しいし」

 彼の乗る砂鯨がゆったりと進み始め、自ら傍らに身を置いた。

 鯨を降りた彼は、荘厳な鎧に身を包んでいる。

 谷間の集落は目と鼻の先だ。

 老人を押さえておくよう指示した兵士以外の総員が、彼の後に続く。一糸乱れぬ、鎧兜の擦れる音に、彼は思わず笑みを深める。

 物々しい空気を感じ取ってか、集落の住民たちが外へ出てきていた。

 住民らは不安そうに辺りを見渡して、そして彼を見る。 

 星明かりの下、彼がにこやかに告げた。

「じゃあ、教えてくれるかな。僕の占い師を、どこへやったのか」

「かかれー!」

「うおおおおお!」

 彼の問いを合図にして、彼らは集落に襲いかかった。

 悲鳴と怒号が、集落を包む。

 老人は初め悲壮に満ちた顔をしていたのだが、それが段々と、怨嗟へと変貌し、恐ろしい形相で、陥落していく集落を見つめていた。

「やめろ、っやめろぉぉぉおおお!」

 ジタバタと暴れる老人を兵士が容赦なく地面に押さえつけた。顔じゅうに擦り傷を作ろうとも、半狂乱の老人は治まらない。

 とめどない涙で視界を滲ませ、それでもなお夢中で顔を上げ、抵抗の中、集落が彼の手に堕ちていく様子を目に焼きつけていた。

「くそう、くそうっ……こんなはずでは、こんなはずではぁぁああああ!」

 濁った色の血管を突出させた老人の手が、恨みがましく岩肌の砂利を握りしめる。 

 老人の脳裏に浮かんでいたのは、元凶の姿だった。

 血走った眼で老人は叫んだ。

「おのれ、おのれぇぇえええっ!」 

 留められた砂鯨が最後に聴いたのは、谷間を劈く、老人の絶叫。

「あの…凶星めがぁあああああああ!!」

 後にはただ、静かな星空が広がるのみであった。

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