訪れ・朝

「えっ、シンの谷って集落だったの?」

 砂が鳴く音を、風が運んできた。

 贅の尽くされた王宮内で、恐らく唯一の暗い部屋。あまり日の当たらぬ立地であるのに加え、夜色のカーテンとヴェールが壁じゅうに張り巡らされており、少々陰気にすら感じる佇まい。

 そこがメルセゲルの寝室であり、書斎であり、拠点基地だった。

 当の彼女はといえば、相変わらず、何に使うのか分からない器具をいじっている。

「暮らしてると、思ったのか。わたしひとりで? まさか」

「いやあ、だってよお。おとぎ話にゃ、妖女まじょがシンの谷からやって来るってことしか……それに妖女まじょは独りを好むって聞くし。だからてっきり、そっから来たっていうあんたも」

「月影の隣人は、谷の外に出たがらない。母数の少ない種族でもある」

 謎の器具の調整を終えたらしいメルセゲルは、扉に寄りかかるイアトを見た。

「見たことを、ないやつがほとんどだ、たとえ門番でもな」

「なにおう」

「そうだったろ、実際」

 イアトが彼女に何も言い返せなくなったところで、彼を支えていた扉がノックされる。

 あくび混じりで首を傾げたメルセゲルは、寝支度に取り掛かろうとしていた。晴れ渡った東の地平が白み始めている。瞼が重かった。

 イアトは慎重に耳を扉に寄せた。

「はい」

「セプデト様はいらっしゃいますかな」

 側近の声だった。いつもより早口だ。

「至急、お耳に入れたいことが」

「あーはいはい」

 体を反転させ、扉を開けるイアトに、躊躇は一切なかった。それは、メルセゲルが小さく、あ、と吐息を漏らすよりも、素早く。

 ちょうど彼女は下着姿ともとれる格好だったのだが、お構いなしに扉は開かれる。

 振り返って後からそれに気がついたイアトは、表情を凍りつかせた。だからといって扉を閉める訳にもいかず、彼は挙動をギクシャクさせる。

「お休みのところ失礼致します、我が王妃」

 しかし、側近は部屋の状況を察したのか、頭を上げることなく報告を続けた。

「我が王が、王の間にてお待ちでございます」

「わかった。支度を、済ませて、向かう」

 メルセゲルの返答を聞き終えた側近は、さらに深く頭を下げてから去っていった。

 不思議そうな顔で、イアトが彼女を見やる。

「こんな時間に?」

 手近な衣装を身につけるメルセゲルに対し、彼の疑問は尽きない。

「あんたがそろそろ寝るって分かってんじゃねえの?」

「急ぎなんだろう」

「なんの用だよ、まだほとんど夜だぜ」

「さあ?」

 メルセゲルにも当然思い当たる節はなさそうだった。

「行けば分かることを、考えても仕方ない。それより支度をしろ、おまえも」

「ええっ、おれもかよぉ!」

「置いてくぞ」

「ちょ、ちょちょちょ」

 彼女がさっさと行ってしまうので、慌ててイアトも武器だけは携えて、部屋を出る。

「おいおいおい」

 歩幅の差で簡単に彼が追いつくことは織り込み済みらしい。

「いくら我らが王直々の呼び出しつっても、んな忙しくすることもないだろ」

 そこまで言って、イアトはハッとした。

「まさか、星がなんか言ってたのか?」

「……“大河を架けるは祝福の橋”。今夜の星詩の内のひとつ」

「なんだそりゃ」

「大河を、この暁光の都で読むとは」

「どういう意味だ?」

「引っかかる」

「なんでだ?」

「…………」

 メルセゲルの眉間が険しくなって、それ以上は何も言わなかった。何か、気がかりがあることだけは確かなようだった。

 徐々に歩く速度を上げていった彼女は、王の間に到着する頃には駆け足になっていた。

 早朝でも変わらぬ様子で、側近が扉の傍に控えているのを見て、イアトは思わず顔を顰めた。

 側近は目だけで彼らを確認すると、直立不動のまま口を動かした。

「我が王。セプデト様がいらっしゃいました」

「通せ」

 くぐもったネブラトゥムの声がした。

 側近がイアトに目配せする。王妃の通る扉を開けるのは、護衛の仕事だ。彼はまだぎこちない仕草で、重厚な扉を開け放つ。

 そして、メルセゲルを見送る。

 護衛といえど、付き添えるのはここまでだ。

 側近が彼女に頭を下げた。

 イアトを振り仰いだ彼女は、ゆっくりと室内に視線を移動させていった。

「こちらへ」

 玉座に腰掛けていたネブラトゥムが、メルセゲルを手招いている。

「寝支度の途中だったろう、突然すまない」

「夜を、明かすのはいつものこと。気にするな」

 彼女の素足は、ひたひたとそちらに近づいていく。

「おはよう、ネブラトゥム」

「ああ。良い日を、セプデト」

 口癖と化した挨拶を交わす彼の表情は晴れない。

「……あれを」

 仏頂面の理由は、ネブラトゥムの睨めつける先にあった。

 王の間のバルコニー、暁都を一望できる特等席に、誰かが立っている。メルセゲルは目を細めた。

 人影の振り返った気配がした。続けて何か、鎧の擦れるような音。

 甲冑が、ゆっくりと玉座に近寄ってくる。

 兜を片手に抱えた壮年の彼は、白い肌に空色の瞳をしていた。ネブラトゥムのものよりも明るい金色をした髪が、朝日に煌めいて眩しかった。

 歳を経てなお若々しく映る彼の佇まいには、メルセゲルも言い知れぬ気品を感じた。

 彼が立ち止まったところで、ネブラトゥムが重々しい口調でメルセゲルに告げる。

「剣の王だ」

 メルセゲルの顔は一気に神妙になった。

 思わずネブラトゥムの方に身を寄せる。

「やあやあ、ごめんね、こんな朝に」

 ネブラトゥムに対して、剣の王は片目を瞑ってみせた。

「でもお忍びって、こういうものだろう?」

「何故来た」

「君が結婚したと聞いて、いてもたってもいられなくなったんだ」

 剣の王の声色は、威圧的なネブラトゥムとは不釣り合いなくらいに優しく、柔らかだった。

「あれだけ僕を罵っていた君も、ついに、と思って」

 ネブラトゥムが不愉快そうに鼻を鳴らした。

「明けの王の妃。お会いできて光栄だ」

 玉座の傍らに立ち竦むメルセゲルに、恭しくひざまずく。

「僕は戟塵の城塞の暫定君主。周囲からは剣の王と呼ばれている。君に赤き導きよあれ」

「……剣の、王におかれては、その栄光輝かしく。赤き導きよあれ」

「ふふっ、ありがとう。お名前を聞かせてくれたらば、この上なき重畳」

「セプデト」

 間髪入れずに答えたのはネブラトゥムだ。メルセゲルもまた、肯定と挨拶を兼ねて膝を折る。

 だが、剣の王は眉頭を寄せた。納得していないふうだった。

「ほう?」

 彼の空色の瞳が、メルセゲルの一挙一動をも見逃すまいとしている。

「月影に寄り添いし暗き海の御名において、かい?」

 ぴくりと彼女の睫毛は揺れた。

 それまで、赤い土地デシエルトの公用語を巧みに操っていた剣の王が、この瞬間だけ戟塵の城塞圏での言語で話したのだ。

 もちろんそれが通じないネブラトゥムは、何も言い返さなかった。メルセゲルが拳を握りしめたのを、横目で見つめるのみだった。

「……それを、なぜ」

「おっと、あくまでそちらで話すんだね。王を思うが故か、果たして……?」

 剣の王は寂しげに俯いた。

「まあいい。月影の隣人は友だ…いや…友だった、だね。友だと思っていた、僕は」

「まるで裏切られたかのような言い草だな」

「額面通りの意味だよ、ネブラトゥム。彼らは裏切った」

「裏切った?」

 ネブラトゥムが訝しげにメルセゲルを見る。

「いつの間に、シンの谷はこいつの同盟に加わったのだ?」

 彼女は首を左右に振った。

 メルセゲルの反応に嘘のないことを、剣の王が証明する。

「ああ、違うよ、それとは別。どちらかというならむしろ、その同盟に参加しなくて済むようにするための約束事みたいなもの」

「そんなものが」

 メルセゲルとネブラトゥムは声を揃えて言った。

 互いに顔を見合わせる。

 剣の王が微笑ましげに二人を見つめた。

「まあいいんだよ、そんなのは。僕は君の結婚を祝いに来たんだ、ネブラトゥム。剣の王から明けの王へ。国交は大事だからね」

「そうか。礼を言う」

「淡白だな。君の誕生祝いも兼ねて来たのに」

 彼の笑顔に、ネブラトゥムが顔を顰める。

 メルセゲルは注意深く剣の王を観察していた。

 彼の振る舞いは、まるでネブラトゥムの父親のようだった。

「誕生日。もうすぐだったろう」

「気色の悪い男だ」

「国交は大事だから」

「自らの子らの誕生日なぞろくに覚えておらん父のくせして」

「だってネブラトゥム、君は強いからね。僕だって、赤い土地デシエルトの王みんなの誕生日くらいは記憶しているはずだよ。それに」

 剣の王は顎を撫でた。

「ちょうど君と同じ日に生まれたのがいるんだ。それで覚えてるんだよ」

「なんだと?」

 ネブラトゥムが目を見張る。

「お前の子らの誕生日は全て把握しているつもりだったが」

「えーっ、全部? すごいね」

 今度は剣の王が目を丸くした。

 ネブラトゥムに嫌悪が滲む。

「大事なのだろう、国交は?」

「そうだけど。僕には無理だなー」

「では何故、それの誕生日は覚えている?」

「ああ! それはね」

 剣の王が堪えきれず吹きだした。

 陽光を美しく反射する鎧を上品に鳴らして彼は笑った。容姿も相まって、見惚れてしまうほどの所作である。

「とんでもない出来損ないだったんだ、あれは。それで城が大騒ぎになってさ、大変だったからよく憶えてるんだ」

 思い出話のついでのように、剣の王はにこやかに手を叩いた。

「あれは大失敗だったな……きっと、あの日に生まれた全ての子の祝福は、君が独り占めしちゃったのかもね、ネブラトゥム」

「……この明けの王に責をなすりつけるな」

 ネブラトゥムは眉間の皺をいっそう深くした。

 剣の王が楽しげに笑う。彼の伏せた瞳に不思議な光が宿ったのを、メルセゲルは見た。

 都からどよめきがあがったのは、メルセゲルの険しい面持ちに影が落ちたのと、ほとんど同時だった。

「おっと、早いな」

 剣の王が囁いたのを、メルセゲルだけは聞き取った。彼女の足先が力んだ。

 遅れて、割れんばかりのファンファーレに暁都が包まれる。

 バルコニーから、驚いたのか鳥が慌ただしく羽ばたいたのが見えた。

 弾かれたようにネブラトゥムは外に首を向けた。

「なんだ」

「おいっ!」

 扉を開け放ち、目を白黒させたイアトが駆け込んでくる。

「おい、あれいいのか!? 武装軍だぞありゃあ!!」

「おのれ」

 ネブラトゥムが立ち上がり、剣の王を睨めつける。

「何を企んでいる」

「僕は祝いに来ただけだよ、これは本当」

「お忍び、というのは?」

 口を開いたメルセゲルも身構えていた。警戒心を露わにしている。

「嘘、なのか」

「それも本当。でもバレちゃったみたい、ごめんね」

 彼女は首を傾げた。砂漠を震わせるような一糸乱れぬ足音を聴く限り、バレちゃった、で済まされる軍隊の数ではないように思えた。

 崩すことのないにこやかな表情からは、彼の真意が読めない。

「ああでも困ったな。兵隊たちから見れば、僕は暁光の都の王宮に一人。自国の王が、異国の王宮に、一人。あれらが、僕を解放させようと考えていてもおかしくない」

「なんだって!? それじゃあ、まるで」

「テラル」

 動転するイアトを遮り、ネブラトゥムが剣の王に詰め寄った。

「貴様の目に余るちょっかいは再三、大目に見てきたつもりだ。故に、我が兵への教育は徹底している。どれだけ戟塵の城塞からの挑発を受けようと、こちらから仕掛けることなど、我が生の続く限り終ぞない。いくら思想を違えているとはいえ、同じ王の座に就く者として、共感できなくとも一定の理解は示してきた。だが、これだけは許せない。貴様、己の行いが何を意味するか、まさか分かっていないわけではあるまいな」

「むしろ、分かっていてやっているように見える、と言いたいんだろう」

 剣の王は、ネブラトゥムを見上げる。

「当たり」

「貴様!」

 凄まじい激昂ぶりだった。

 ネブラトゥムは今にも剣の王に掴みかかりそうな、荒い呼吸を繰り返していた。

 獣のごとく怒れる彼を、剣の王は見つめ返すのみだった。ただ、その口元に浮かべている笑みに、イアトの背筋が凍った。

 ネブラトゥムが唸る。

「受けて立つことなど容易い」

「待て。列強同士の争いはよくない」

 拳を握り、メルセゲルが間に入る。

「よくない」

 大の男に挟まれた彼女は、より小さく見えた。

「とても」

 彼女は言い聞かせるように言葉を紡いだ。

 メルセゲルの漆黒の瞳からは譲らないという強い意思が感じられ、二人の王がわずかにたじろぐ。

 その隙に彼女は拳でネブラトゥムを押し退けた。

「ネブラトゥム」

 砂粒が擦れ合うような、低い声。

「おまえらしくない」

「……」

 メルセゲルとネブラトゥムの視線が交錯する。

 ちりつくような緊張感の中、イアトは不安げに三人を順番に見ることしかできなかった。

 メルセゲルはネブラトゥムを、ネブラトゥムはメルセゲルを。指先一つ動かすことなく、静かに面と向かい合う。

 剣の王はといえば、興味津々といった様子で、メルセゲルの背中とネブラトゥムとを見つめていた。

「……はぁ。お前が正しい、セプデト」

 ふいとネブラトゥムが顔を逸らす。

「激情に駆られ、矛先を見誤った。許せ、テラル」

「ふーん?」

 剣の王は、少しだけつまらなさそうにした。

 イアトが胸を撫で下ろす。あまりに張り詰めた空気にいたためか、呼吸すら忘れていた。

「明けの王の非礼を、お詫びする。剣の王」

 メルセゲルは彼に向き直り、頭を下げた。

「知恵を、お借りしたい。兵隊たちを、納得させる方法を考える必要がある。勘違いによって戦いが勃発してしまう、このままでは」

「王妃セプデト。どうか顔を上げて。大丈夫、僕は全然怒ってないから。ここで戦いになったらそりゃあ大興奮だけど。ネブラトゥムがつれないのは、いつものことだしね」

 ネブラトゥムの殺気が増したのを、剣の王は見て見ぬふりで続ける。

「そうだなぁ、策はあるよ。僕ら戟塵の城塞は、知っての通り内乱の絶えない国だ。時には強引に雌雄を決することもあるが、無益な争いは避けたいというのも本音ではある」

「どの口が」

「ネブラトゥム」

 前に出ようとする彼を、メルセゲルが止める。

「続けてほしい」

「そういう時には、両軍の頭領が腹を割って話す場を設けるんだ。敵陣に単身、危害を加えることも加えられることもなく一夜を明かす。これを両者が無事に、計二晩」

かぶらだ」

「おや、よく知ってるね」

 剣の王は、口走ったイアトに賛辞を送った。

「夜が明けたのち…三日目の朝だね。頭領は自分が生きているという証明に鏑矢を飛ばす。以て双方の戦闘は落着とする。これが鏑。戟塵の城塞における和平の結び方だ。つまり、君たちが」

 そこで剣の王がメルセゲルとネブラトゥムを手で示す。

「今の僕と同じ状況に置かれること。擬似的な鏑を執り行ない、君たちに敵意がないことを確認できれば、あれらは納得するだろう」

 剣の王はニッコリと、しかし有無を言わさぬ圧を醸し出した。

「さあ、どうする? 明けの王ネブラトゥム、王妃セプデト」

 メルセゲルは答えられなかった。否、答える権利は彼女にはない。

 背後のネブラトゥムを仰ぎ見ると、なぜだか彼の顔は心なしか和らいでいるように見えた。

 彼は長いため息をついた。

 そして、疲労の色を押し殺し、やれやれと頭を振った。

「初めからそれが狙いだな」

 ネブラトゥムは気疲れからか肩の力を抜いていた。

「食えない男だ、全く」

「お互い様だよ」

「回りくどいことをする」

「だって、こうでもしないと来てくれないんだもん」

 二人の王の間にあった、一触即発の気配が消え失せていく。

 メルセゲルは当惑し、離れた場所にいたイアトに目線を飛ばした。彼もまた、首を傾げていた。

「まあ、こういう手段を取らないとまともに外交できない、僕の国が悪いんだけどね!」

 日に照らされ、剣の王がキラキラ笑うので、王の間に漂っていた毒気はすっかり抜けてしまった。

 剣の王がメルセゲルに微笑みかける。

「そんなわけで、列強、暁光の都を治める明けの王とその王妃。僕の国においでよ。結婚を祝われに僕の城へ。砂埃と血風が吹きつける、戟塵の城塞へ!」

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