行進
ネブラトゥムは、日よけの取りつけられた砂鯨の上で、不機嫌そうにあぐらをかいた。
「乱暴な招待だ」
彼は周りに目をやった。
暁都に攻め入ろうかという数いた兵隊たちは、現在は貴賓の護衛という大義名分のもと、彼の乗る砂鯨を取り囲むようにして一路、東を目指している。
最も先頭を行く剣の王の姿は視認できない。
隣で思慮を重ねている様子のメルセゲルの手には、星鑑が携えられていた。
「セプデト」
あれほど眩く映った星鑑だったが、陽光に照らされた輝きは鈍って見えた。
「何をしている」
「星を。見ている」
「ふっ」
変わらぬ彼女の返答に、安堵にも似た笑いが漏れた。
「青天に星を見るか」
「うん。それを、できるのが、星鑑」
「ほとんど魔術だな」
「星詠みは、魔法使いじゃない」
「ル・タはどうなったのだ」
「ここ」
メルセゲルが星鑑を差し出す。
「夜を、迎えると目覚める」
「危害があるのではなかったか」
「今は平気」
ネブラトゥムが触れることをためらったので、彼女はやんわりとそれを腕の中に引き戻した。
日よけのおかげで、灼熱に晒されずに済んでいるものの、外気温は変わらず高い。
厳しい太陽の日差しに、ネブラトゥムは目を細めた。
自らの体内に、あれが宿っていたとは、とても思えない。
「未だに信じ難い話だ」
「信じなくていい」
メルセゲルは足を組み替えた。彼女の動作に元より粗雑さは見えないものの、最近、彼女の機微に、気品を感じることが増えてきた気がするようにネブラトゥムは思っていた。
妃の候補であった女たちから贈られたという品のある装いが板についてきたのも、それが理由なのだろう。
ネブラトゥムが不意に彼女の裾を持ち上げた。腹立たしいくらいに手触りが良い。生地からメルセゲルの顔へと視線を移すと、彼女は夜で塗りつぶしたような瞳でこちらをじっと見ていた。
「こうして見ると、似合っている」
「手伝ってもらったんだ、着替え」
メルセゲルはあくびを堪えながら言った。
「いいやつだ、みんな」
誰に手を借りたのかが彼女の言い草で分かってしまい、ネブラトゥムは裾から手を離した。
彼の眉間には溝ができていた。
最近、あれらとつるんでいるという噂をよく聞く。もしかすると彼女の所作が上品に感ぜられるのは、それも関係しているのかもしれない。
王宮に暮らしているだけで身につくものなのかと問われれば、そうではないようにも考えられるが。
「星は全てを伝えてくる。前にも言ったか」
メルセゲルが話を戻した。
「それを、選び取るのが星詠み。何を、どう選ぶかは、詠み手によって変わる。だから、あれを真実だとはわたしも言えない。だから信じなくていい」
「とはいえ、今のところ齟齬はないのだろう」
「ああ。けど、今のところ、だ」
話し終えると、メルセゲルは再び星鑑に視線を落とす。彼女の横顔は、静謐さと頼もしさを兼ね備えていた。
ネブラトゥムは背もたれに体を預けた。彼の顔は満足げであった。おそらく、彼自身も気づかぬ内に。
「感謝している」
ネブラトゥムが前を見据えたまま言った。
気恥ずかしさを微塵も覚えない、飾らない言葉だった。
メルセゲルはじっと考えている様子であった。どう返せばいいか、迷っているらしい。
「赤き導きよあれ」
長い沈黙を、メルセゲルがその言葉で終わらせ、また始めた。快い静寂だった。
ネブラトゥムは瞼を閉じた。風が砂を運ぶ音に耳を傾ける。
彼らの間を通り抜けていくのは、暁都に流れるものとは全く異なる風だ。吹きつけてくるかすかな鉄の匂いに、戟塵の城塞が近いことを感じ取る。
地平が途切れるのを見たメルセゲルは、首を傾げた。ちゃり、と耳飾りの金属が擦れた。
「谷を。行かないのか」
「そのようだ」
ネブラトゥムもまた、彼女と同様に眉を顰めた。
暁光の都より東に位置する国家はどれも、恵みの河を越えた先にある。大小に関わりなくどの国家も、恵みの河の恩恵を享受している。そこを渡って進むとなると、諸国の国境を知らず知らずの内に侵犯してしまう可能性が伴う。
故に、東を目指すのなら、南を流れる河ではなく北の谷に沿って行く方が安全なのだが。
一行の向かう先は恵みの河だ。
「ふむ」
ネブラトゥムは先刻前の剣の王との会話を思い出していた。
「シンの谷が裏切ったのどうだのとぬかしていたな。北を行かぬ原因はそこにあるやもしれん」
「岩肌を、滑るのは砂鯨には少々酷だ。谷の周囲は砂に隠れた岩地も多い」
ネブラトゥムとメルセゲルが見解を示したのはほぼ同時だった。
「ああ、それもある」
声を揃えて彼らは互いに頷いた。
「あの地をゆくには、砂鯨よりも適したのがいたはずだ。隊商が好んで飼育している、あの扁平の…飛翔する絨毯のような」
「
「恐らくそれだ。連中は個体の名で呼ぶ者ばかりで。空鱏というのだな、あれは」
「そういえば、暁光の都では見かけなかった」
「恵みの河より西は砂深いからな。砂漠の足という意味でなら砂鯨の方が主流だ」
ネブラトゥムは思い出したかのように、顎に手を置いた。
「確か、王宮の厩舎に何匹かいたはずだ」
「そうなのか」
「無駄に血統の良い奴がな」
「贈り物?」
「隼の王だ」
ネブラトゥムは苦い顔をした。
「ほとんど押しつけるようにして置いていった」
「流砂のキャラバンの、長か」
「うむ。いらぬと再三言ったのだが」
「王を、冠するだけある」
メルセゲルは得心いった様子で腕を組んだ。
「さすがの曲者だな。奔放と聞く」
「奔放で済むものか」
ピシャリと言い放つ彼に対して、メルセゲルは目を瞬かせた。
流砂のキャラバンもまた、列強に数えられる独立勢力である。隊商と傘下を幾つも抱える大所帯を、砂漠の中で定期的に移動を繰り返しつつまとめあげる手腕は、ネブラトゥムも認めてはいる。
だが、彼の表情は渋いままだった。
「ふらふらしおって、老いぼれめ。古株のくせしてあの放任主義、全くいただけない」
「“魔具、魔術書、魔法に関わる全て、流砂の如く”。わたしでも知ってる、有名な謳い文句だ。キャラバンの名を轟かせているということ、勤勉な王ということ、と思えるが」
「その通り。故に、長い間、奴らは完全なる遊撃軍という扱いなのだ。口を開けば魔法の普及、隊商の安泰、を繰り返すばかり。魔術に取り憑かれた耄碌じじいには、
「それが隼の王の信じる、赤き導きなんだろ」
「力を持ちながら、それを振るわん。癪だ」
「……力を。持っているからこそ。振るわないのかもしれない」
メルセゲルの瞳には一抹の寂しさが宿っていた。
「色々ある。力にも」
目を伏せた彼女へ、なんと声をかければよいのか、ネブラトゥムには分からなかった。
彼はただメルセゲルの背中に手を置いた。できるだけ優しく。
「お前を和らげる言葉は持ち合わせていない」
ひんやりとしていた。
「持てる力を均しく振るう。王たる責務はそこにある。それを果たさぬ者は不誠実に映る眼を持っている。許せ」
「ネブラトゥムはそれでいい」
「……王には各々の掲げる正義がある、それを礎として国家がある。故に誰も否定するつもりはないのだ。気に食わんだけで」
冷静な口調だったが、言葉尻には苛立ちが滲んでいた。
メルセゲルはふむ、と視線を上にやった。
「似た感情に覚えがある」
「ほう?」
「シンの谷の舵取りを。わたしは、あまり好かない」
「生存戦略としては機能していると思うが」
シンの谷は恵みの河の上流地域ということもあって、暁光の都と戟塵の城塞に挟まれていながら、双方が気軽に手出しできない地形である。
また外交をほぼ絶っているために、周辺諸国の民は、月影の隣人への理解が進んでいない。暁都で起こった
国家間の戦争に巻き込まれたという記録もない、秘匿の地。列強でないにも関わらず、侵攻に怯える必要のない勢力というのは、シンの谷だけだろう。
民からすれば住み良い土地だとも考えられる。むろん、国交を拒んでいる影響で不便があるにしても。
「閉じることは悪いことじゃない。開こうとするやつを抑圧する、これが問題」
「何?」
メルセゲルの抽象的な言い回しを咎めるように、ネブラトゥムが口を挟んだ。
「お前にしては随分と、漠然としている」
「内向かつ保守。月影の隣人の心理性だ。星を、読むには少々息苦しい」
彼女が何か言う度に、その背に置かれたネブラトゥムの手が震えた。
「約束事と。言っていただろ」
「戟塵の城塞が、シンの谷と結んでいたというあれか」
「ああ。それこそ首長の好みそうな手口だ」
「心当たりが?」
「いや。けど、同盟には連ならず、庇護の対象となる。いかにも月影の隣人という感じの立ち回りだ」
メルセゲルがネブラトゥムを仰ぎ見た。
「おまえが初め、わたしの狙いを言い当てようとした時の。あの推測、そのままだろ。危機が差し迫っていると伝え、守護を求める。あるいは、それを知らせたことへの褒美を」
「……ああ。凶星の話か」
「凶星を、知るのは星詠みだけじゃない。月影の隣人なら誰でも知ってる」
「つまりあれに…剣の王にその情報を与えることで、シンの谷は奴によって守られ、対外的には月影の隣人が戟塵の城塞と協力関係を結んでいるように見せる、と」
「不干渉にして恩を売る。月影の隣人らしい」
そう零したメルセゲルの言葉が、珍しく皮肉っぽかったのを奇妙に思いつつ、ネブラトゥムは彼女に触れていた手をそっと離した。
彼らの前方に河が広がる。砂鯨でそのまま渡る算段のようだ。
ネブラトゥムは頭を傾けた。
「橋は」
「落ちた……」
眠気に勝てなくなったらしく、メルセゲルが横たわる。
「内乱の、飛び火だ」
確かに河辺に、橋桁の残骸のような物が散見された。
ネブラトゥムはメルセゲルの体を抱き寄せた。彼女がすっぽり日陰に収まるように、である。
朝早くの訪問のせいで、ネブラトゥムにも疲れが出ていた。
「お前の星詠みを尋ねたことはないし、否定する気もさらさらないが。こういった事態を読めはしないのか?」
口ずさんですぐに、少し高慢だったかと、ネブラトゥムは己を恥じた。
彼らの乗る砂鯨が河に入ると、浮遊感に包まれる。
メルセゲルは微睡みの中、言葉を探している様子だった。
「……“大河を架けるは祝福の橋”……剣の王の訪れ……だが、それだけを、あの瞬きに込めるとも思えない…一編の星の詩は…無数の意味を持つ」
「つまり、その詩に準えた事象が、幾つか起こる可能性があるというわけだな」
「……うん」
ちゃり、と耳飾りが鳴った。
かろうじて開いている目は既にぼうっとしている。
ネブラトゥムは彼女に言った。
「河を渡れば戟塵の城塞に入るが、奴の城まではまだかかる。眠っておけ」
それから、渇いた笑いを漏らした。
「戦場を突っ切ろうとも、我らに危害が及ぶことはない。褒められたことではないが、その点に関してだけは、奴は信頼できる」
「……巻き込んですまない」
メルセゲルの囁いた言葉は、彼の耳には届かなかった。
砂鯨のひれが、波を起こして水音を立てる。じりじりと照りつける太陽で熱された砂漠では、滅多に聴かない音だ。涼やかで、心地良い。
ネブラトゥムの瞼も重くなってきた。
二人が眠りに落ちる直前、メルセゲルが星鑑を強く抱いた。眉がぴくりと動いた。
「妙だ」
メルセゲルはそれだけを口にすると、睡魔に身を預けた。
彼女の見つめていた先は、恵みをもたらす大河の水面が、日を照り返して眩く輝いている光景だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます