流星群

 それまで門の近くにいた者たちは、ル・タから距離をとり、道の脇で塊となっていた。彼らは皆、高揚に満ちた面持ちであった。

「ル・タ!」

 夜空から降ってきたかのごとく現れた彼を見て、誰もが口をあんぐりと開けていた。

 都の英雄に相応しい登場なのだろう。メルセゲルはなんとなくそう思っていた。

 どうやら住民ではないらしい人々が、その名を聞くや否や恐れをなして逃げていくのも、彼女にとっては興味深い現象だった。

 星詠みというのも、国や地域によって扱いが全く異なるからだ。

 メルセゲルはわずかばかりの親近感を、ル・タに覚えた。

「暁都を救った英雄様じゃあないか、なんでこんなとこに?」

 門兵が額を叩きながら彼に苦笑を向けた。

「また何かしでかすつもりか。個人的には応援してるけどよ」

 彼らのよく知る英雄のル・タなら、この辺で普段通りの愛想の良い挨拶を返すのだが、今はただ、彼の双眸はメルセゲル一人を捉えるのみだった。

 じり、と彼との視線を交わらせ続けた彼女も、足元の麻袋を庇う形で、一歩前に出る。ル・タの影もまたメルセゲルに覆い被さった。逃がさない、と彼から聴こえた気がした。

 おしゃべりな彼が一言も発さないことを訝しんだ民が、ル・タの視線の先に目を凝らす。彼らは彼が見ているものがなんなのかを理解すると同時に、短く、ヒッと悲鳴をあげた。

「お妃じゃねぇか、ありゃあ……?」

 妃という単語が次々と、乾いた空気にこぼれていく。

 メルセゲルは顔を歪めた。

 ル・タが彼女につけた値段はゼロだった。価値のない身だったからこそ彼の隙をついてここまで来られたが、メルセゲルが王妃であることに勘づかれ、ここで彼女の計画が頓挫しようものなら、それこそ噴砂のごとき膨大な身代金を要求されてしまう。暁光の都の王宮に、ネブラトゥムに、迷惑がかかる。

「しまった、それは考えてなかった」

 傾国の星詠みなんて、妖女まじょよりよっぽど不名誉だ。

 メルセゲルの眉頭がわずかに下がる。

「甘く見てたな、ル・タ様を?」

 ル・タは彼女の言葉を違うふうに受け取ったようだった。

 彼らの言語を理解できなかったためか、周囲の二人への興味は徐々に薄れていっていた。ざわめきも治まりつつある。

 彼は獲物を捉える獣の目をしていた。メルセゲルの予想に反して、周りの声など彼の耳には入っていないらしい。

「命拾いした」

「安心しろよ、すぐにまた捨てることになる」

「……」

 ギラついたル・タの雰囲気に、メルセゲルが目を細める。

「まぶしいな、やっぱり」

 彼女の身じろぎが、ちゃらり、と纏っている金属を擦れさせた。

 メルセゲルはまっすぐにル・タを見据えていた。

 しかし厳密にいえば、彼女が見ていたのはル・タではなかった。

 ル・タの影の中で、メルセゲルが瞬きをした。

 彼女と交差しない目線にル・タも違和感を覚え取ったらしく、訝しげに空を振り仰いだ。メルセゲルの見上げる先、彼の背後を。

「……あ?」

 そして、目を見開くこととなる。

 ル・タは確かに見た。

 暁都の夜を撫であげるようなかすかな湿気の中を、光の筋が降り注いでいくのを。閃いては尾を引いて、こちらに墜ちてくるかのような錯覚に襲われる。一つではない、無数の、空を覆い尽くすほどの。

 それらは光をちらつかせながら、ビロードの夜空に吸い込まれていく。それはまるで突如訪れた雨季の景色のようだった。

 ル・タとメルセゲルから一定の距離を取りながらも、彼ら二人をとり囲んでいた住人たちもまた、頭上で織りなされる星の煌めきに目を奪われていた。

「流星群という」

 柔和なメルセゲルの口ぶりが、ル・タの足元に届く。

「暁光の都じゃ珍しいかもな」

 見上げるル・タの目だけが彼女に戻された。

 都のあちこちから、感嘆の声が聞こえた。

 今、この都で上を向いていないのはル・タと、メルセゲルだけ。そう言い切れるくらい、暁都に響く歓声は驚きと喜びで溢れていた。

「星図が乱れる時に限って、皆は星を見る」

 メルセゲルは膝を折り、何かを探るような仕草で袋に手を突っ込んでいた。

「眩暈のする光陰だった。久々に奔走とかいうやつをした、師匠といた頃を思い出したよ。けどそれもまた、識る者の……」

 そこで言葉を切った彼女が袋から取り出した物に、ル・タの顔つきが険しくなった。メルセゲルの骨張った灰色の手にあるのは、羅針盤に見えた。彼女の両手いっぱいに収まるか収まらないかといった大きさをしていて、古めかしくも鈍い光を放つそれは、えもいわれぬ存在感を醸し出していた。

「マジかよ」

 ル・タが思わずといった調子で膝をついた。

 深い夜の暗がりの中、近づいて見たそれは確かに星時計だった。

 彼の声が上擦った。

「盗んできたのか?」

 彼は心底仰天した様子で、メルセゲルの手に乗るそれを凝視する。

「……妙だと思ってたんだ、オマエ。神官サマと一緒に宮殿から連れ去られてきたってのが、ずっと引っかかってた」

 ル・タは目を細める。真贋を見極める質屋のそれに似た目つき。

妖女まじょに先越されるなンてな」

 彼は布の下で笑顔を浮かべていた。威嚇と牽制の笑みだ。

「どーやったンだ、教えてくれよ?」

「これは元々、わたしの師匠の持ち物だ」

 いまいち噛み合わなかった答えに、ル・タが鼻息で不満を示す。

「星時計というのも、言い得て妙だと思う」

 羅針盤に視線を落としたメルセゲルは、漆黒の睫毛を揺らした。

「譬え空が墜ちようと、天文盤に刻まれた星図が、今宵、星のあるべき位置を映す。これは夜空の羅針盤、星鑑」

 それが暁光の都で至宝と名高い星時計の、正式な名前らしかった。

「圧倒の、来たるは東」

 そう言って、メルセゲルが顔を上げた。

「眩き光は眩さ故に、誰も真っ直ぐ見られない」

 屈んでいたル・タに、ずいと己の身を寄せる。

「スェスの神託。ネブラトゥムのクマ」

 彼女が首を傾げると、金属音と共に、関節がコキと音を立てた。

 ル・タの背筋がぞわりと粟立つ。

 光のない黒い目に捉えられた彼は、ほとんど反射的に顔を背けた。

 その背けた拍子に、彼女の薄い手のひらにもう一つ、何かが握られているのに気がついた。

 星鑑よりも小ぶりで、それもまた、羅針盤めいた形状をしている。

 彼は顎でそれを示した。

「そっちは?」

「わたしの方位磁針コンパス。星を見る時、いつも使っている」

「壊れてンじゃねーか」

 ル・タが即座に反論した。

「北はそっちだ」

 彼の指がメルセゲルの額を突く。

 彼女の方位磁針コンパスは、間違いなくル・タが立ち塞がっている南門の方向を指し示していた。あちらは陽光の通り道。疑いようのない正南だ。

「そうだな、北は指さない」

 メルセゲルが頷く。

 今度はル・タが首を傾げる番だった。

 すべらかな布が彼の首元から肩へと落ちていく。

「色々あンだな、妖女まじょの道具ってのは」

 ル・タには壊れた方位磁針コンパスにしか見えない。値段のつかなさそうな、古ぼけた骨董だ。

 しげしげと眺める彼に対して、メルセゲルは緩く頭を振った。

妖女まじょじゃない。わたしは星詠み」

 途端、ル・タがハッとする。

 覗いていた片眼の瞳孔が揺れ、愕然とした表情が慄きへと変わっていく。

 彼の本能が警鐘を鳴らしていた。

「ル・タ」

 焦燥に駆られた彼が立ち上がろうとするのを、メルセゲルの黒い瞳が絡めとった。

「この方位磁針コンパスはわたしの望む星の在処を教えてくれる」

 彼の身体がわなわなと震えだす。

 地面についていた手に、メルセゲルのそれが重なる。汗ばんでいたル・タの肌は、なぜか冷え切っていた。

「わたしが今望む星。即ち、この空で最も偉大な星」

 息を吐くように絞り出される彼女の声がル・タを追い詰める。

「“圧倒”」

 メルセゲルは、方位磁針コンパスを握っていたその手で、ル・タの頭部を覆っていた艶のある布を引き下ろした。

 方位磁針コンパスが、砂地に転がる。

 勢いをつけたメルセゲルの拳が、布を握りしめたまま地面を殴りつけた。衝撃に少しばかり眉をぎくつかせたものの、彼女の目がル・タから離されることはなかった。

 露わになった彼の顔面を、頭髪を見て、メルセゲルの足先が砂を削った。

「……!」

 ル・タがすかさず彼女を突き飛ばす。

「離れろ!」

「もう遅い」

 宙に飛ばされたメルセゲルは、自身が落下していくのに逆らうことはせず、ただ抱えた星鑑を守ろうとするような体勢をとった。

 メルセゲルが彼から空へと視線を移し、降り頻る流星群に目を輝かせる。

 その瞬間、ル・タには星鑑そのものだけが、時間の流れに沿わず、浮かんでいるように見えた。

「──汝、星散のうちにその軌跡を」

 メルセゲルの声に解かれるようにして、星鑑がゆっくりと、回り始めた。

 ル・タは彼女に向かって突進した。

 そして、星鑑に手を延ばす。

 彼は、やめろ、と叫ぼうとした。止まれ、と、胸中はそれでいっぱいだった。

 彼の制止はしかし、届かなかった。

 星鑑とル・タの間で閃光が瞬いた。

 放たれた眩い光が辺りを真っ白に覆い尽くす。

 熱を持った光線が暁都を包む。

 その場は悲鳴やら喚き声やらで騒然となった。

 砂地が震える。大勢の足音。崩れたり、壊れたりといった物音。

 その後、しばしの静寂があった。

 メルセゲルが閉じていた瞼を上げた。頭上では相変わらず、流星が降り注いでいる。

 体を起こす。その先で星鑑と、ル・タが、砂の上に横たわっていた。

 見渡すと、逃げ遅れた住民たちだろうか、彼らは道の脇で縮こまり、身を丸めていた。恐怖を滲ませていた。

 門兵や衛兵たちが状況を確認しようと怒号を飛ばしている。

「……暁光の都に翳りをもたらすは、都の象徴にして民の誇り」

 彼女のヴェールに付着した砂は、メルセゲルが立つのに合わせて、さらさらと落ちていった。

「明けの王の身体に宿りし、眩き太陽そのもの」

 星空の中に彼女は言った。それから、星鑑を手にとって、倒れているル・タに歩み寄る。

 きっちりと首元まで隠れるように着込んでいたル・タの服は、先ほどの眩い光のもつ熱によって、胸の辺りが大きくはだけていた。

 褐色の上裸に刻まれた、青い紋様。ところどころに目を思わせるような、不気味で魔術的な刺青。

「ネブラトゥム」

 メルセゲルが呼びかけても彼は眉間に深く皺を寄せるだけだった。本当に眠っているのかと疑いたくなる仏頂面だ。

 彼の手に、メルセゲルがそっと触れた。

「いつもの熱さ」

 メルセゲルはそこでようやく、安堵にも似た、和らいだ表情を浮かべた。

 やまない流星群の下、彼女が星鑑を撫ぜる。

 心なしか、真鍮の輝きが増していた。

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