矢上・5
その日、矢上は朝の9時に登庁した。第五係の部屋は、特命捜査対策室の第一から第四係がある部屋からは離れた場所にある。
もとは資料置き場だった倉庫からキャビネットを撤去し、無理やりデスクを詰め込んだ手狭な部屋。
部屋の窓際に設置された係長デスクにひとりの女性が座っている。
病的なほど青白い肌にほっそりした顔立ち、すらりとした長身は見ようによってはモデルのように見える。歳の頃は40手前だと聞いているが、もっと若く見える。
銀縁メガネをかけた奥に光る、鋭い眼差しからはいかなる感情も伺えず、長い黒髪をヘアバンドでひとつ束にゆわえている。
制服の胸元にある階級章には金の線が2本入っていた。彼女の階級が警部であることを物語っている。
「おはようございます、真鶴係長」
「おはようございます、矢上主任」
係長――真鶴警部はこちらを一瞥たりともしない。
彼女がなにに関心を抱き、胸の内にどんな野心を秘めているのか、矢上にはわからない。
知っているのは真鶴警部が極めて優秀な刑事であり、いくつかの難事件を解決に導いてきたこと、捜査一課の刑事たちの大多数はそんな彼女を煙たがっていること。
そして、この世ならざるものの気配を感じ取れるという噂があること。
「係長。いま、お時間よろしいでしょうか」
「なんでしょう」
机を挟んだ目の前にきても、真鶴は顔をあげず、ノートパソコンに集中している。
「先日、提出した報告書、確認はしていただけましたか?」
「どの報告書ですか?」
「松濤事件です。先週、情報提供者から聴取した内容を書面にまとめて提出したはずですが」
「結城の証言ですね。はい、確認してます。それが?」
「係長の見解を伺いたいのです。係長は松濤事件の捜査に関わっていたと聞いたので」
「確証をもって答えられることはありません」
一切の間を置かず、真鶴警部は澱みなく答えた。
「トージくんなる子どもが実在したのか。事件に関わっていたのか。あの証言からはなにもわからない。私が言えるのはそこまでです」
真鶴警部の態度には一切の隙が見当たらない。もしも彼女が容疑者だったら、口を割らせるのは骨が折れるだろう。
ならば揺さぶりをかけるまでだ。
「先日、事件現場付近でトージくんのことについて捜査をしていたようですね」
無反応。
人形のような顔は冷ややかなままだ。それでも矢上は話を続ける。
「係長は事件当時、SSBCに所属し、防カメの解析に当たっていた。そこで得た、なんらかの心証に基づき、トージくんのことを調べている。違いますか?」
「答えるつもりはありません」
「捜査をしているのは認めるんですね?」
真鶴は初めて面をあげた。冷ややかなまなざしが矢上に向けられる。
「矢上主任。いったい、この問答になんの意味があるのですか?」
「係長がなぜあの事件を気にかけるのか知りたいからです。当時、私も現場周辺の聴取にあたっていましたから」
「それはいまのあなたの職務ではないはずですよね?」
「私は刑事です。刑事は容疑者を逮捕し、事件を解決するのが本分のはずです。未解決に終わった事件の手がかりがあるなら、それを追うのが刑事のはずです」
矢上は答えてから、さらに付け加える。
「トージくんの名前は、私も他の仲間から聞いたことがあります。そいつは不運にも亡くなりましたが、彼は事件の核心に迫っていた可能性がある。だから、どうしても放っておけないんです」
真鶴は矢上を見据える。まるで値踏みをしているかのような目だった。
しばらくして、すくっとデスクから立ち上がる。まっすぐな立ち姿はほっそりしているのに、揺るがぬ力強さを感じた。
「いまなら会議室が空いてますね。ついてきてください」
頷いた矢上は、真鶴と揃って部屋を出た。
会議室の扉にかけられた札を「使用中」に変え、真鶴と矢上は会議室に入室する。狭い会議室は取調室とほとんど変わらない。
「松濤事件のこと、話していただけるのですか?」
「ええ。勝手な行動を起こされるより、状況を正確に共有したほうがよさそうなので」
「ご面倒をおかけします」
話しながら、矢上は真鶴の手首に目を止める。制服の裾がずれて、あらわになった細い手首にはミサンガのようなものが巻かれていた。
赤、緑、黄色と信号機のような彩りの糸が撚り合わせてつくられた素朴なブレスレット。なにかのお守りのように見える。
「先ほども話したとおり、トージくんが何者か、実在したのかどうか。現段階で確たることは言えません」
ただ、と真鶴は付け加える。
「笹木家には被害者以外の何者かがいたこと。そして、事件の容疑者によって笹木邸から連れ去られたのは、間違いないと考えています」
「言い切れる根拠はなんですか?」
「犯人が乗った白のプリウスと思しき車の映像記録をこの目で確認したからです」
矢上の背筋に衝撃が走る。
峯岸の言葉どおり、映像記録は本当にあった――
「現場周辺の防犯カメラは破壊されていたはずでは……」
「ドライブレコーダーです」
真鶴は簡潔に答えた。
「白のプリウスが渋谷付近を走行していたのは17時頃。現場付近の車道を踏まえると走行できるルートは限られます。そこでタクシー会社に問い合わせ、該当の時間に現場周辺を走行していた車両のドライブレコーダーを提出してもらったんです」
事件が発生した2010年代初頭、タクシーやトラックではすでにドライブレコーダーを常備しているところが多かった。そして提出された膨大な映像記録を精査した結果、不審な車が1件だけ発見されたという。
「17時5分頃、富ヶ谷を通過したタクシーのドラレコが、松濤方面から発進するプリウスの姿を捉えていました。さらに当該車両のナンバープレートを照会したところ、登録されている番号の車両はまったく別の車種であることが判明しました」
つまり、偽造のナンバープレートだ。
「白のプリウスの運転手の姿ははっきりと映っていません。ただ、その映像記録を見る限り、後部座席に誰かが座っていたのは間違いないです」
「どんな人物が座っていたんですか?」
「わかりません。フードを被り、毛布を被らされていたようです。小柄な人物なのは間違いないと思います」
偽造されたナンバープレートの番号はすぐにNシステムで照会にかけられたそうだが、問題の車を見つけることはできなかった。おそらく、どこかで別のナンバープレートに変えたのではないかという推測がなされたらしい。
「しかし、なぜそれほど有力な記録が捜査本部に提出されなかったのですか?」
「提出する前に、トラブルが発生したんです」
「……映像の破損、ですか?」
真鶴は黙って頷いた。涼し気な表情の中で、わずかに険がこもった目つきになる。
「原因は、当時SSBCで導入されたセキュリティシステムのエラーです。その影響で保存されていたデータのいくつかが破損したんです」
その中に例の映像記録も含まれていた、ということらしい。
「バックアップも取れておらず、提出元のタクシー会社も記録を破棄してしまっていた。これにより、証拠の提出ができなくなったのです」
SSBCで発生したトラブルは重大なインシデントとして公表されたが、その際、「捜査への影響は出ていない」という声明が出された。
映像記録の存在は最初からなかったことにされたのだ。
「原因の対応は、セキュリティシステムの交換という形で決着がつきましたが、なぜ、あのタイミングでそんなエラーが起きたのかはいまでもわからないままです」
矢上は、峯岸の表現を思い出す。
祟られた事件。
それが意味するところ、少しだけ理解できた気がした。
「係長がおひとりで捜査しているのは、連れ去られた人物を追うためですか?」
「業務に支障をきたさない範囲で調べているだけです。他に動ける人間がいませんから」
「だったら、渋谷署から捜査の権限を移譲してもらえればいいでしょう。
「専従班を立ち上げるつもりはありません」
「なぜです」
「私の噂は矢上主任も聞き及んでいるのでしょう?」
矢上はどう答えるべきか迷ったが、ごまかしても意味がないので、正直に答えた。
「妙な事件に関わることが多い、とは聞きました。不思議なものを感じ取れる、とも。この噂は事実ですか?」
「“妙な事件”や“不思議なもの”の定義にもよりますが、私が他者とは異なる感覚を持ち、合理的解釈が難しい事案に遭遇する傾向があるのは事実です」
彼女の声音にはまったく淀みがない。いまの質問者が矢上ではなく、警視総監であったとしても、真鶴はおなじように答えただろう。
「そして、これまで遭遇した事例でも、予期せぬ危険が降りかかってきた。そのような現場に部下を巻き込むことはできません」
「危険な現場に飛び込むのは、我々の職務です」
「私が言う危険は、矢上主任が想像するものとは違います」
「たとえば、どんな?」
「ある事件で捜査に携わった同僚は神隠しに遭いました」
ご冗談を、と笑い飛ばせる空気ではなかった。
言葉が不足しているという自覚があったのか、真鶴はさらに説明を加える。
「……あくまで私が感じ取っているのは、合理的な説明ができない存在の気配です。根拠を説明できないリスクに部下を巻き込めません」
彼女はどこまでも理知的な人間なのだろう。だから、霊感や怪異といった言葉を安易に用いることを避けようとしている。
確かに峯岸の言うとおりだ。
この係長は、本当に他人の使い方が下手らしい。
「私には係長が見ているものがなにかはわかりません。心霊なんてものも信じていない。トージくんが何者か、犯人の目的がなにかはわからない」
真鶴は反応を示す。じっとこちらの話に耳を傾けてくれている。
「しかし一家4人を殺した犯人は実在し、そしてその犯人は被害者の邸宅から何者かを連れ去った。あなたはそう信じているのですよね? 真鶴警部」
あえて役職ではなく、肩書で呼ぶ。
彼女の警察官としての職能に敬意を示すために。
「ならば我々は警察官として、この事実を突き止め、事件解決に努めなければならない。そこに祟りやら、怪異やら、合理的な説明ができない存在とやらの有無は関係ない」
矢上は骨の髄まで警察官だ。大した信念もなく公務員試験を受け、警察組織でもまれ、警察官としての生き方を叩き込まれた。
あと数年で定年の身だが、だからこそ最後まで警察官としての筋は通したい。
「事件を単独で解決することはできません。そして私はあなたの部下だ。ならば命令を下し、駒として使うべきだ。指揮官として、駒の生死に責任を負うべきだ」
真鶴はじっと矢上を見据えながら、問いかける。
「ならば矢上警部補は私の命令で死ねるのですか? あなたが培ってきた直感とは異なる、私の直感に従って死ねますか?」
「死ぬのはごめんですがね。やれと言われたら従います。それが真鶴警部にとっての“刑事の勘”なのでしょう?」
驚いたように真鶴は目を見開く。しばらくして、ふっと唇を緩ませる。
「刑事の勘、ですか。なるほど、いいですね」
真鶴はすぐに表情を引き締める。
部屋へ入った時とは別種の緊張感が漂っていた。
「松濤事件の捜査の権限はいまだ、渋谷警察署にあります。捜査権限の正式な委譲にはまだ時間がかかるでしょう」
「つまり、いまは誰にも知られず、内密に捜査を行なえ、ということですね?」
矢上の返答に、真鶴は頷いた。
「報告は随時、私のもとへ回してください。適時指示を出します。矢上主任は岡崎巡査部長とペアを組んでいますが――」
「できれば、岡崎も捜査に参加させてください。軽口は叩くが、行動力はあります。それに峯岸も、あなたの指示なら動くはずです」
「そうですね。峯岸さんは私のやり方をよく知っていますし……ああ、そうだ」
真鶴は改めて居住まいを正すと、ポケットからなにかを取り出した。それは真鶴が手首につけているのとおなじ紐でつくれたブレスレットだった。
「矢上主任。左手を出してください」
言われるままに左手を出すと、真鶴はブレスレットを着けていく。やはり見ればみるほど、ミサンガに似ている。
「麻紐でつくった魔除けです。多少は役に立つはずです」
「心霊は信じないのに、魔除けは信じるんですか?」
「打てる手を打ってるだけです。それなりに効果はあります」
矢上の手についた魔除けはお守りというには頼りなく、いまのスーツ姿からもだいぶ浮いてしまっている。
だが、上司命令とあれば、身に付けるしかない。
「それと、私の指示には必ず従ってください」
「わかりました。ちなみに質問は許されるのですか?」
「時と場合によりますが、答えが返ってくることは基本的に期待しないでください」
「承知しました」
話は終わり、とばかりに、真鶴は立ち上がる。
窓から差した光が真鶴の背中を強く照らしだす。矢上は朝日の眩しさに目を細めながら、自分の身体に懐かしい活力が巡ってくるのを感じた。
獲物をどこまでも追いかける狩猟犬――刑事としての性分が自分の中で蘇ろうとしている。
たとえ祟りが降りかかろうと、事件が解決するまで、猟犬が止まることはない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます