睦子・13

 もう深夜を回っている。

 睦子は無心にハンドルを握り、芹沢から借りた車を運転していた。

 がたがたと車体が揺れる。激しく衝突したためか、坂道を上るたび、がたがたと車体が揺れる。このまま廃車処分になるのは確実だろう。

 それ以上のことはいま、なにも考えられない。

 助手席に座る志村輝明――亜紀の三男坊が機嫌よさそうに鼻唄を口ずさみ、後部座席からは男の呻き声が聞こえてくる。

 顔を上げ、ルームミラーを見る。

 小さな鏡には後部シートに座らされた刑事たちの姿が映っていた。

 額から血を流し、折れ曲がった手足をだらりと下げている。まだ辛うじて息があるのが不思議な状態である。

「生きてる生きてる」

 後ろを振り返った輝明はきらきらと目を輝かせていた。

 睦子は幼少の頃、おなじ組にいた男の子たちの姿を思い返す。

 彼らは時折、捕まえた虫の脚をもいでは、じたばたと虫が足掻く様を興奮気味に眺めることがあった。いまの輝明は、あのときの彼らとおなじまなざしをしている。自分がなしとげた成果に鼻息を荒くしているようだ。

 たしかに了承はした。

 娘を連れ出すために、団地の住民たちが死ぬかもしれない計画を実行しようしてるのだ。娘を守るためなら、この手が血で汚れる覚悟など、とっくにできているつもりだった。

 そのために芹沢から車を借り、童子が見える子どもを伴って、守部のいう“鼠退治”に向かったのだ。

 それでも、まさかこんなにあっさり上手くいくなんて。

 正直、見つけ出すのにもっと苦労すると思っていた。いま、刑事たちがどこでなにをしているかわからなかったし、たとえ運良く見つけられたとして、格闘技の心得がない睦子に刑事たちをどうにかできるとは思えなかったのだ。

 あわよくば自分たちを見つけて、止めてくれるかもしれないという淡い期待もあった。

 だが、刑事たちはすぐに見つかった。

 童子が見つけ出した。

「ネズミたち。あそこにいるって」

 団地を発車してすぐ、輝明はそう言って指をさす。まさかと思い、指し示した方向を見ると、いた。紛れもない、写真で見た刑事たちだった。

 刑事たちは、自分たちのことに気づいていない。

 隙だらけだ。

 焦る睦子に、輝明は言った。

「早くやらないの? って、トージくんが言ってる」

 童子が見ている。

 もう逃げられない。

 睦子は叫びながら、アクセルを踏み、見事にやり遂げた。

 刑事たちはまだ生きている。

 とはいえ、全身打撲で手足も折れている。当分、動くことはできないだろう。

 やがて睦子の運転する車は団地の駐車場に入り、停車する。

 エンジンを切ったあとも、睦子はハンドルに額を埋めた。アクセルから離した足がいまも震えている。

「すごいね、おばさん」

 隣の席では輝明が目をキラキラと輝かせている。

「トージくんもすげーってほめてた! ほんとに刑事をぶっ殺しちゃった!」

 きゃはははははは。輝明は笑う。母親にそっくりな不快な笑い声。

 睦子はクラクションを鳴らし、相手を黙らせる。

「降りて」

 男の子は返事もせず、いそいそとドアを開けると、走って出て行った。

 睦子はしばらく動かなかった。

 コンコンとドアをノックされる。思わず睦子は身体を震わせた。

 外にいたのは芹沢だった。

 ドア窓を開ける。肌を刺すような冷気が車内に流れ込む。

 芹沢は白い息を吐きながら、後部座席を覗きこんだ。

「ごめんなさい。借りてた車、壊してしまって」

「別にいいよ」

 後部ドアのロックを解除すると、芹沢はドアを開け、座らせていた瀕死の刑事を引きずり出す。

「手伝う?」

「いい。ひとりでやったほうが早い」

「でも――」

「気にするな。これは俺の仕事だ」

 車の側には、周囲に柵がついた台車が用意されていた。芹沢は手早く、刑事のひとりを台車に載せていく。膝を折りたたみ、体育座りの格好にして収める。

 もうひとりの刑事は手首と足首を結束バンドで手早く縛り、拘束する。

 2回に分けて運ぶつもりらしい。一連の動きがとても手慣れている。

 睦子はまだ手伝うことへの未練があったが、それは芹沢への気遣いからではなく、ひとりになる不安を紛らせたいからだと気づき、それ以上口にするのをやめた。

「早く部屋に戻れ。娘が待ってるんだろ?」

 芹沢の言葉に、睦子は力なく頷いた。

 紗代子は部屋にいる。そばには守部が寄り添っている。

 継承の儀が行われる日まで、紗代子に危害が加えられることはない。

 皮肉にも、この団地が娘を守ってくれる。

「芹沢さんの計画、あの人に全部バレてる。たぶん、このままだと失敗する」

「そうか」

 とくに芹沢は動揺していない。その落ち着きが却って腹立たしかった。

「本当にこれで、団地から抜け出せるの? 私は、なんのためにこの人たちを――」

「心配するな。他の協力者とも準備は進めてる。あんたはあんたの、やるべきことをやってくれればいい」

 協力者。そういえば前にもそんなことを言っていた。いったい誰のことなのだろう。芹沢は刑事を台車に乗せて、団地に運んでいった。睦子もとぼとぼと駐車場をあとにする。

 早く寝よう。休んでしまおう。

 朝、目覚めたら、すべては夢に変わっている。いや、違う。夢じゃない。私はたしかにアクセルを踏んだ。刑事たちを手にかけた。まだ死んでない。殺してない。そんな言い訳が通用するとでも? いまさら、なにを怯えてる。これからもっとたくさんの人間を巻き込むのに。紗代子を助けるためだ。紗代子を自由にさせられるなら、私はなんだってやる。だから、いいんだ。これでいい。オリベを奪って、この団地から逃げ出せば、また親子ふたり、自由な生活を――

 足が動かなくなる。

 どちらへ進めばいいのか、わからなくなる。

 自由な生活なんて、あるわけがない。

 睦子は人殺しに、加担してしまった。それも刑事を、ふたり。警察だって動き出す。オリベの加護があれば、もしかすると、このまま露見せずに済むかもしれない。

 しかし、罪を犯したという事実は消えない。

 もう、アクセルを踏む前の自分には戻れないのだ。

「ママ」

 聴こえてきた声に、ビクッと肩を震わせた。

 こんな夜更けだというのに、遊歩道のベンチに誰かが腰かけている。ふたり並んだ人影のうち、小さな影がこちらに駆け寄ってくる。

 相手はぶかぶかの赤いダッフルコートを着ていた。赤いコートの主はそのまま睦子の腰に抱きつく。

 コートの主がにっと顔をあげ、睦子に笑いかけた。

「お帰り、ママ」

 突然の出迎えに言葉を失っていると、もうひとつの影がベンチから立ち上がった。

「紗代子ちゃんがね、どうしてもママを出迎えたいって言ったの。もう夜も遅いからやめなさい、って言ったんだけど。ごめんなさいね」

 夜の闇に紛れ、守部が微笑みかける。

 いつになく彼女の微笑みは満足そうに見えた。きっと、睦子が“鼠退治”を無事にやり遂げたからだろう。

 自分の心臓が激しく鼓動を打っているのがわかる。

 紗代子は、母親がなにをしたのか知っているのだろうか。「ママ?」と紗代子は首を傾げる。黙ったままではダメだ。早く返事をしないと。怪しまれる。

「迎えにきてくれたんだね。ありがとう、さっちゃん」

 頭を撫でようと手を伸ばす。しかし、紗代子に触れることができない。

 こんなに汚れた自分が娘に触れていいわけがない。

 睦子はその場で膝から崩れ落ちた。

 紗代子の顔をまともに見られなかった。

「あなたは優しい人なのね、睦子さん」

 頭上から守部の声が降りかかる。

「あなたが、なにを企んでいたかは知ってる。大方、真一に頼まれて、オリベ様を連れ去ろうとしたのでしょう? あとに残された私たちを踏みつけにして」

 すべてバレている。

 こちらの計画を、守部は正確に見抜いていた。

「でもね、考えてみて。たかが男ふたりを轢き殺したくらいで怯えているあなたが、何十人、何百人という命を引き返しにして、外の世界でのうのうと暮らしていけると思う?」

「ま、まだ、死んでない。私は、殺して、なんて……」

「いいえ、殺した。殺意を持って、あなたはやった。やったの」

 これは本当に守部の声なのだろうか。

 それとも、自分を責める心の声なのか。その区別すらつかなくなる。

「もう、あなたは外で生きることはできない。だから、ずっとここで暮らしましょう? 紗代子ちゃんも、あなたから離れず、ずっとそばにいてくれるわ」

「さっちゃんを、オリベになんてさせない。ずっと、あの塔に閉じ込めるなんて、そんなこと……」

「あなたは勘違いしている。オリベは童子であり、童子はオリベなの。両者は違うものだけど、同時に繋がっている」

「変な言葉遊びでごまかさないで!」

「言葉遊びじゃなくて事実よ。紗代子ちゃんの肉体は塔に居続けるけど、魂は童子と一体になる。永遠の子どもとして自由に生きられるのよ」

「永遠なんて、そんなの望んでない! この子には、この子の未来が――」

「ねえ、睦子さん」

 守部はふたたび呼びかける。

「あなたはそうやって、なんでもかんでも自分の意思を通そうとするけど、ちゃんと紗代子ちゃんの意思は確かめたのかしら」

「さっちゃんの、意思?」

 なにを言っているのだろう。

 あんな場所に閉じ込められることを望む人間がいるはずないじゃないか。

 顔を上げる。

 紗代子が正面からこちらの顔を覗き込み、口をもごもごと動かしている。

 すると後ろにいる守部がそっと紗代子の背中を押した。そのひと押しで覚悟が決まったらしい。

「大丈夫だよ、ママ」

 紗代子は睦子の頭を撫でた。朗らかな顔で睦子に笑いかける。

「わたし、オリベさまになるから」

「なに言ってるの、さっちゃん……」

 睦子は紗代子のコートを掴んだ。紗代子の言葉をなんとかして否定しようとした。

「オリベになるのが、どういうことか、本当にわかってるの!?」

「うん。あそこにずっと住むんでしょ?」

 紗代子は給水塔を指差した。

「わたしも、オリベさまになりたい。そしたら、みんなでずっと楽しく遊べるよ!」

「違う!」

 睦子は紗代子の腕を掴み、声を張り上げた。

「さっちゃんも見たでしょ! オリベになったら、ずーっと閉じ込められちゃうの! 足も切り落とされちゃうんだよ!? 大人になっても、おばあちゃんになっても、ずーっとあそこから出られないんだよ!?」

「でも、でもっ」

 母親の剣幕を前に、紗代子はしゃくりあげていた。娘に向かって、こんな大声を出したのはいつ以来だろう。

 そういえば、越してくる前にいたアパートのでは、こんなふうに怒鳴ることも珍しくなかった気がする。

 なんで、こんなことをいま思い出すのか。

 紗代子はいまにも泣き出しそうな顔をしている。しかし必死に涙を堪えてる。

 しゃくりあげながら、紗代子は言った。

「わたしが、オリベになったほうが、ママも楽しくお仕事、できるもんっ。小説家のママで、いられるもんっ!」

「さっちゃん、どういうこと?」

 紗代子がなにを言ってるのか、まるでわからない。

 娘が指摘してることがなんなのか、身に覚えがなかった。

「マ、ママは小説のお仕事なんて、どうでもいいよ。あなたが、さっちゃんが元気でいられるなら、それで――」

「ウソだよ!」

 紗代子は怒鳴った。

 涙をこぼしながら、顔を真っ赤にして、睦子を糾弾する。

「ママ、お引越ししてから、ずっと楽しそうにカタカタしてるもん! お引越しの前は、ずっと怒りながら、書いてたのに!」

 睦子は否定しようとした。だが、できなかった。

 思い当たる節が次から次へと鮮明に頭に浮かんできたからだ。

 あの狭いアパートの一室で、睦子は幼い紗代子を抱えながら、来る日も来る日も原稿を書いていた。

 いくら小説の企画書や原稿を持っていっても、不倫スキャンダルを起こした作家と仕事をしたがる版元はどこにもなく、零細雑誌のページを埋める飛ばし記事の仕事でなんとか食い扶持を稼いできた。

 すべては娘を守るためだ。

 だから小説家としての自分は捨てた。母親として、この子にすべてを捧げると決めたのだ。

 ――本当にそうなのか。

 だとしたらなぜ睦子は、いまも小説を書いているのか。

 あの狭いアパートの一室で、泣いている紗代子の世話を人のいい大家に任せ、原稿を書き続けたのか。

 なぜ書斎がある広い部屋にこだわり続けたのか。

「ママは、本当はママをやりたいんじゃなくて、小説を書いていたいんだ」

 紗代子は糾弾する。

 睦子が犯した罪ではなく、この子が生まれたときから、つき続けたウソを。

「だからっ、わたしは、ママの前から、いなくなったほうが――」

「紗代子!」

 睦子は娘の言葉を掻き消すように絶叫した。自分の叫びが団地じゅうに反響する。

 とうとう紗代子は決壊したように泣いた。

「ヤダっ! ここから離れたくない! ずっとここがいい! トージくんも、みんながいるここがいい! ヤダ、ヤダ! 離れたくない!」

 ずっと胸の奥に抱えていたのだろう。

 目の前で爆発する娘の本音に、睦子はただ立ち尽くしていた。

 頑張って、母親をやろうとしたけど、自分は最初から躓いていたのか。

 自分ですら気づいていない本心を娘はちゃんと見抜いていた。

 だからいま、紗代子はオリベになりたいと言っている。

 それに無理やり、計画を強行し、団地から逃げ出せだとしても、その先に幸せはあるのか。

 紗代子は賢い子だ。自分たちが逃げ出した後、この団地の人たちがどうなってしまうか、きっと後で気づく。

 そうなれば娘はきっと、重い罪の意識を背負うことになる。いまの睦子がそうであるように。

 本当にこのまま、この団地で暮らし続けるしかないというのか。

 そのときである。一陣の風が吹いた。この季節にしては違和感があるほど、生暖かい風である。

 紗代子はぴたりと泣き止み、給水塔のほうを振り向いた。

 頭上からも次々と窓を開く音が聞こえた。

 団地の住棟に目を向ける。

 すべての部屋の窓が開き、すべての部屋で小さな影が姿を見せている。

 団地に住む子どもたちが中庭にある給水塔を見下ろしている。

 みな、判を押したかのようにおなじ表情を浮かべている。うつろな目に、半開きの口。

 まるで給水塔に魂を吸い取られたかのようだ。と、急に半開きになった口が動きだす。


 こーわれたー、こーわれたー

 おーりーが、こーわれたー

 

 指揮者もいないのに、子どもたちは寸分の狂いなく揃った声で歌いだす。

 子どもたちの大合唱が夜の団地に響き渡る。


 こーわれたー、こーわれたー

 おーりーが、こーわれたー


 いったい、この歌はなんなのか。

 睦子は守部に問いただそうとして、えっ、と声を漏らした。

 守部は給水塔を見ながら、きゅっと唇を噛み締めていた。なにかを堪えるような顔に、本当に彼女が守部なのかわからなくなる。

 しかし、その表情になっていたのもほんの一瞬だった。睦子と目が合うと、いつもの微笑に戻る。

「さあ、睦子さん。すぐ準備に取り掛かりましょう」

 準備、と、か細い声で答える。

 なにが起きているのかわからない。頭が理解を拒絶する。

 やだ、やだ、やだっ。

 なんで、うそでしょ。

 まだ、なんにも、なんにも受け入れてなんかないのに。

 睦子の想いなど、無視するように、守部は告げた。

「継承の儀を、始める時がきたわ」

 子どもたちが合唱を続ける中、紗代子はただ給水塔を眺めていた。

 儀式が始まる。

 新しい檻を生み出す儀式が。

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