矢上・12
夜も更け、坂道の人通りは絶えている。
矢上は捜査車両の助手席に座り込み、じっと団地に目を凝らした。捜査車両が駐車しているのは、団地のそばにある個人所有の駐車場である。
丘の裾野から団地へ続く坂の途中に位置しており、団地の外観がよく見えた。
助手席側のドアが開かれる。レジ袋を持った萩原が乗り込んできた。
「お疲れさまです。缶コーヒー買ってきました」
「おう、あんがとさん」
缶コーヒーを受け取った矢上は、萩原と隣り合わせになる。
いま、矢上たちは団地の張り込みを続けていた。
被疑者である久能早苗が逃亡しないよう監視するためである。矢上たちだけでなく、近隣には他の班の刑事たちがそれぞれの配置についていた。
矢上たちが乗り込んでいるこの車両は、矢上、岡崎、萩原の3人体制でローテーションを組んでいる。
久能早苗の逮捕まで残り3日を切っていた。3日後の朝になれば、捜査一課の精鋭が団地に乗り込み、久能早苗を逮捕する手筈になっていた。
オリベと目される人物の誘拐および監禁を確定する証拠はいまだ掴めていない。
「久能早苗に動きは?」
「ないな。ずっと団地に引きこもっていやがる。買い物にすら出てこない」
こちらを警戒しているのか。もともと団地から出ない生活を送っているのか。矢上には判断がつかない。
萩原は張り詰めた顔をしながら、団地を見ている。
もともと萩原は峯岸とペアを組み、別の線から松濤事件の再捜査を進めていた。
久能早苗にたどり着いたのも、萩原と峯岸がたどった線からだと聞いている。峯岸が重体となっているいま、並々ならぬ想いがあるのだろう。
「あまり気張っても、消耗するだけだぞ」
「……わかってます。でも、落ち着かなくて」
萩原は息を吐きながら、矢上を気遣うように言った。
「主任と岡崎さんこそ、大丈夫ですか? 誘拐と監禁の証拠を押さえようとしてるって、聞いてますけど」
「合間を見て、調べは進めてるがな。ちょっと厳しいな」
「そうですか……。なんとしても、無事に保護しないとですね。被疑者の確保も迫っていますし」
萩原は、オリベ童子の件を知らない。監禁されている人物を、あくまで誘拐事件の被害者と見ている。
まさか相手が、子どもの幽霊を宿した人間だとは夢にも思っていないだろう。
オリベ童子を追ってきた矢上もいまだに半信半疑なほどだ。
本当に祟りはあるのか。あるとした場合、それを罪に問うことができるのか。
この世ならざるものに対し、警察の捜査はどこまで対抗できるのか。
「萩原、ひとつ聞いてもいいか?」
「なんです?」
「久能早苗がどうして被疑者になったか、お前は知ってるか?」
萩原が息を吸い込むのがわかった。
この件に関して、矢上はこれまで萩原に訊ねないようにしていた。命令を守っている後輩に余計な圧をかけたくなかったからだ。
だが、監禁と誘拐の事実を突き止めるためには、久能早苗が何者なのかを把握する必要がある。
矢上なりに事件の全体像を把握しておきたかった。
「係長の命令を破れ、って言ってるんじゃない。答えられることだけでいいんだ。頼む、教えてくれ」
「なぜ彼女が被疑者になったのかは、私も知りません」
萩原は慎重に言葉を選びながら答えた。
「途中で私は捜査から抜けて、報告書の作成のほうに回されたんです。その後は峯岸さんが捜査を進めていたようなので」
「だが、久能早苗の名前はお前たちの捜査から浮上したんだよな。だったら、被害者と久能早苗の関係は知っているはずだろ?」
「ごめんなさい。その件も係長に口止めされているんです」
あくまで萩原はシラを切ろうとする。緊張しながらも、怯んだ態度は見せない。彼女はこれからいい刑事になる、と直感する。
やはり、無理やり口を割らせるのは厳しそうだ。
コンコンと車両の扉が叩かれる。岡崎がこちらに手を振っていた。
「お疲れ、ハギー。交代の時間だ」
「……はい」
萩原は助手席から立ち上がる前に、申し訳なさそうに矢上のほうを見やった。気にするな、と矢上は伝える。
「悪かったな。変なことを聞いて」
萩原は首を振り、車両を出て行った。
代わりに岡崎が助手席に収まる。
「ハギーをいじめるのは勘弁してやってください。パワハラで訴えられますよ?」
「必要なことを聞いただけだ。あれはいい刑事になる」
岡崎の軽口を受け流しながら、矢上は問いかけた。
「それで、成果はあったのか?」
「例の給水塔について水道局からの確認が取れました。矢上さんの見立てどおり、15年前から給水設備としては使われていなかったみたいです。ただ、住民の強い要望でモニュメントとして保存されることになったようです」
「となると、使われなくなったのは松濤事件よりも前ということか」
「ええ。それと給水塔の管理は、団地の管理組合側で行われているみたいですね。立入検査もやってないとか」
「つまり、塔の中身がどうなってるか行政も把握していないのか」
やはり、あの給水塔が鍵を握っている。
オリベが監禁されている可能性は高い。
「ガサ入れしたいが、いまのままだと法的根拠がないな」
「捜索差押許可状も発行されないでしょうね。捜一の偉い人たちに止められますよ」
いま、捜査一課は久能早苗の捜査に全力を挙げている。
少なくとも逮捕前のガサ入れなど許可されるわけがない。
それでも監禁場所の検討がついたのは大きい。
「逮捕前は厳しいが、逮捕後なら、問題ないだろう」
矢上は言った。
「殺人の証拠を隠した可能性があるといえば、捜索も許可されるはずだ。そのタイミングで見つけ出すしかない」
「逮捕後ですか。それまで大人しくしてくれますかね、奴さん」
「そう願うしかあるまい」
矢上がいま、抱いている懸念もそこだ。
久能早苗はいったい、なにを考えているのか。
先日、相対した様子からいっても、彼女はこちらの正体に気づいている。自分を取り巻く包囲網にも気づいてないはずがない。
逃げ切れる自信があるのか。
そもそも彼女は事件と無関係なのか。
あるいは――祟りが降りかかるのを待っているのか。
14年前の丸山の死、映像データの破損。そして峯岸の転落事故が、矢上の脳裏をよぎる。
岡崎は呻いた。
「なんにもできないのが悔しいですね。せめて、久能早苗と被害者のつながりがわかれば……」
「それならわかったぞ」
一瞬、車内に沈黙が下りる。
岡崎は目を剥いて、矢上を見た。
「本当は萩原にも裏どりしたかったけどな。おそらく間違いはないだろう」
「つながりって、いったいどうやって……!」
「係長から渡された報告書には、峯岸たちが追っていた病院関係者のリストが書いてあっただろ?」
報告書を見たときから、引っかかっていた点があった。笹木総合病院や、看護師だった笹木瑞穂が勤務していた病院のほかに、大きな病院の名前がリストにはいくつもあったのだ。被害者たちとはなんの接点もない。
リストにある病院にはある共通点があった。
「ふたりが追っていたのは、移植認定を受けた病院だ。日本骨髄バンクから認定を受けた、骨髄移植ができる病院だよ」
「骨髄移植……」
口先で繰り返した岡崎は目を大きく見開いた。
どうやら気づいたらしい。
「久能早苗は、10代の頃に白血病を患っていた。その際、骨髄移植を受けていたんだよ。彼女のドナーになったのが笹木瑞穂だった」
矢上たちも関係者から聞き込みをしていく中で、何度か聞いていた。
笹木瑞穂は骨髄移植のドナー登録をしており、骨髄も採取していた。久能早苗は移植先のレシピエントだったのだ。
「そうか。骨髄移植か。なるほどなあ」
岡崎は興奮したように鼻息を荒くするが、次第に眉をひそめていく。
「ドナーとレシピエントが交流することなんてあるんですか?」
「ない。プライバシー保護のため、お互いの顔も名前もわからないようにされているはずだ」
とはいえ、個人が特定されない範囲においては手紙のやりとりをすることは認められている。それも骨髄バンクで手紙の内容がチェックされているという。
「久能早苗は手術の成功後、2回ほど手紙を出している。手紙のコピーが骨髄バンクの事務所に保管されていたが、他愛のないことしか書かれていなかったよ」
「たとえば、どんな?」
「元気になったらやりたいことや、好きな花の話とか、そんなことばかりだ」
特に久能早苗はカタクリの花に興味を示していたらしい。淡い紫色の美しい花で、“春の妖精”という異名を持つ。手紙にはかわいらしい花のイラストが添えられていたが、個人を特定する情報はなにも記されていなかった。
14年前、久能早苗が捜査対象にならなかったのも当然である。久能早苗と被害者とのあいだに交流関係が存在しないからだ。
なぜそれがいまになって、被疑者だと確定されたのか。
「ハギーも理由は知らないんですよね?」
「ああ。物証を掴んだのは、峯岸らしい。ただ、峯岸も係長の指示に従って動いたってとこだろうな」
つまり真鶴は再捜査を開始した当初から、被疑者の目星をつけていたことになる。
事件の全体像を見据えているのは、真鶴しかいない。
彼女の目にはいったいなにが見えているのか。
「結局、本当のところは逮捕しないとわからないってことですか」
「そういうことだ」
いずれにしろ、久能早苗は3日以内に逮捕される。
いまは彼女を逃がさないことだけ考えればいい。
それがきっと、オリベを保護する一番の近道になるはずだ。
ぱーん ぱーん ぱーん
ボールの弾む音が道路に響いた。
矢上たちは前を見やる。
車道のそばで帽子をかぶった男の子がバスケットボールを路面に叩きつけている。
ぱーん ぱーん ぱーん
車用時計は夜の11時を示している。未成年が出歩く時間帯ではない。
本来であれば、すぐに声をかけて保護するべきだ。
しかし矢上も、岡崎も動けなかった。
男の子に見覚えがあった。団地で出会った子どもだ。
街灯に照らされながら、男の子は矢上たちを見ている。にやにやと白い歯を見せて笑っていた。
矢上は警察無線を手に取った。
「深川3から警視庁各局。多摩市S町いろは坂の路上にて、未成年の少年を発見。至急、保護を願います。どうぞ」
ぶつ……ぶつ……ぶつ……ぶつ……ぶつ……
「深川3から警視庁各局。聞こえますか、どうぞ」
ぶつ……ぶつ……あっはっ……ぶつ……ぶつ……あっはっはっ……
「深川3から警視庁各局! 聞こえますか!」
あっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっ!
無線からノイズ交じりに響く、爆発するような笑い声。
なにが起こっているのか。
混乱しているあいだに、いきなり真横から強烈な光が当てられた。
「矢上さん、伏せて!」
岡崎が叫ぶ。
矢上は光のほうを振り向いた。
眩しく輝く光がふたつ。
車のヘッドライトだ。運転席には女性が座っている。
いまにも泣き出しそうな、思いつめた顔で、女性はハンドルを握っていた。
車が接近する。
ぶつかる。
次の瞬間、激しい衝撃を全身に食らい、矢上の意識は途絶えた。
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