睦子・12
睦子はキーボードを叩き続けていた。
なにかに急かされるように文字を吐きだし、物語を綴る。いままでこんなに早く執筆が進んだことはない。
だが、筆が乗っているのとも違う。ただ、自分になにが起きてもいいようにやり残したことを無くしたいだけだ。
ここ数日、紗代子を保育園に預けている間はずっと原稿を書き続けている。あと少しで編集部にも送付できるだろう。
アニメ化の話が動いている現行シリーズの最終作をいきなり受け取った担当はどんな顔をするだろう。読者に対しても申し訳なく思う。しかし未完で終わらせるのは読者に対する裏切りだ。作家の矜持なんてものはほとんどないけど、そこだけは誠実でありたい。
これから自分は人の道を踏み外すことになるのだから。
いきなり玄関のチャイムが鳴らされる。
睦子の意識は一気に原稿から引き剥がされてしまう。まだ作業に未練はあったが大事な用件でも困るので、玄関の扉を開けた。
「睦子さん、こんにちはあ」
笑顔の亜紀が玄関先に立っている。すぐに扉を開けたのを後悔した。
亜紀はお菓子の袋を掲げ、猫撫で声で話しかける。
「よかったら、あとでお茶でもご一緒しない? フランスから直輸入のハーブとクッキーが届いたの。きっと気にいると思うわあ」
「お気遣いありがとうございます。いまは仕事中なので、落ち着いたらまた」
閉めようとした扉を、慌てて亜紀が抑える。
「あなたにね、伝言を頼まれたの! 守部さん! 守部さんが話したいって!」
「守部さんが?」
睦子が問いかけると、会話のきっかけを見つけたとばかりに、亜紀は何度も頷いた。
「儀式の相談をしたいんじゃないかしら。いつでもいいから訪ねていくといいわ」
「わかりました」
睦子は靴を履くと、玄関に出る。そのまま階段を降りようとしたところで、亜紀は面食らったような顔になる。
「ちょ、ちょっと! いまから行くの!?」
「いつでもいいんですよね? だったら、急いだほうがいい」
「そ、それはそうだけど……」
「なにか問題が?」
再度問いかけると、そこで観念したように亜紀は引き下がった。
構わず階段を降りていくと、中庭をつっきる。遊歩道の途中で立ち止まり、給水塔を見つめる。塔の頂に暮らすオリベに想いを馳せる。
紗代子が次のオリベに選ばれた。
団地じゅうの人間がそれを知っている。そのせいか、彼らは急に手のひらを返し、睦子に媚びるようになった。復讐をされるのが怖いのだろう。
気持ち悪いっ。
しかし、いまは彼らのことなどどうでもいい。
先日、真一から改めて計画のあらましを聞かされた。
オリベを盗み、団地から脱出する。
タイミングは継承の儀式が行われる、まさにそのときだという。
給水塔の扉には厳重な鍵がかかっている。鍵を持っているのは守部だけ。鍵を盗んでも、守部は見逃さない。
さらに給水塔は常に団地の誰かの視線に晒されている。こっそり近づくこともできない。先日、睦子が給水塔の中に入れたのは、童子が招いていたからであり、それ以外では中に入れる機会など皆無といってもいい。
しかし継承の儀式に立ち会うことができれば、誰にも怪しまれず、オリベに接近できる。
「継承の儀は、守部を中心に数人の住民の立会いのもとで行われる。それ以外の奴らが近づくことは許されない」
ちなみに立ち合う人間の中に、芹沢さんは含まれていない。穢れた人間はオリベに触れることが許されないらしい。
「立ち会うためには、守部に取り入る必要がある。特に担ぎ手になれたら、言うことはない」
担ぎ手とは、オリベを担ぎ、給水塔から降ろす役目を担った人物だという。
継承の儀はオリベを広場に降ろし、給水塔の外で執り行われる。この時、担ぎ手になった睦子がオリベを背負っていれば、連れ去る機会はずっと多くなる。
はたして、上手くいくのかはわからない。
しかし、やるしかない。
向かいのA棟へと入る。
守部の部屋はA棟の403号室。表札はかかっていない。
扉の前に立った時、さすがに緊張が走った。こうして部屋を訪ねるのは初めてのことだ。
手櫛で髪を直し、呼吸を整えると、インターフォンを鳴らす。
すぐに守部は出てきた。
「あら。早かったのね」
いつもと変わらない黒衣を纏い、守部は優雅に微笑んでいる。
「お話したいことがあると聞いたので。急いで来ました」
「そんなに急がなくてもよかったのに……と言いたいけれど、そうね。正直早く来てくれて私も助かったわ」
部屋の奥からポッドが沸騰する音がした。
「いまね、お茶を淹れるところだったの。こちらにあがって。中で話をしましょう」
「はい」
睦子は靴を脱ぎ、室内用のスリッパに履き替える。
部屋の廊下にはたくさんの絵が貼られている。子どもが描いた絵だろう。
どの絵にも白い顔の子どもが描かれている。トージくん――童子の絵だ。
リビングに入ると、雛壇が壁に沿うように設られ、さまざまな玩具が飾られている。給水塔の頂で見た光景を思い出す。
「この玩具、なんなんですか?」
「住民の皆さんからいただいたお供物よ。折を見て、オリベ様の部屋に飾るの」
守部はキッチンに立ち、電気ケトルのお湯をティーポッドに注ぐ。
無色透明のお湯が紅茶葉によって、褐色に染められる。
「ずっとおなじ玩具ばかり飾っても退屈でしょ? そんなのは可哀想だから」
「あんな部屋にずっと閉じ込めるほうが可哀想だと思いますけど」
つい皮肉が口からこぼれ出る。
しまった、と後悔するが、守部はおかしそうに笑った。
「いいわね、睦子さん。あなたみたいに正直な人、好きよ」
守部の言葉が本心かどうか、睦子には区別がつかなかった。
どのみち取り繕っても仕方がないと思い直す。下手に誤魔化しても彼女には見破られる。そんな気がする。
「仕方ないのよ。オリベ様をあそこから動かすわけにはいかないもの。あの場所は、団地の中心だから」
「中心?」
守部はティーカップに紅茶を注ぐ。豊かなハーブの香りが部屋中に広がった。
「かつて、あの給水塔は団地の生活を支えていた。すべての部屋に水を届ける、いわば心臓の役割を果たしていたのよ」
「でも、いまは使われていませんよね?」
「かつてはそうだったという事実が大事なのよ。土地の記憶というのは、私たちが思っているよりずっと根深い」
睦子は想像する。
土地の心臓部に根付いたオリベの姿を。水を届ける代わりに、穢れをばら撒き、団地を支配する童子の姿を。
「オリベ様を流れの中心に据えるからこそ、みんなが童子の恩恵を受けられる。だから、中心から動かしてはいけないの」
「動かしたらどうなるんです?」
「心臓を失くした獣が生きていられると思う?」
目の前にティーカップが置かれる。湯気が立つカップからは甘い香りが漂う。いつかのオリベ祭りで嗅いだ、煙の匂いとおなじ。
守部は淹れた紅茶に砂糖とミルクを入れて、スプーンでかき混ぜる。
「それでね、睦子さん。あなたに相談したいことがあるの」
ようやく守部は本題を切り出した。
「睦子さん、継承の儀の進め方は誰かから聞いてる?」
「いえ。知りたくもないので」
「それはいけないわ。団地の住民である以上、儀式のことはきちんと把握しておかないと」
守部は言った。
「継承の儀はね、先代のオリベ様を取り込んで、新しいオリベ様をお迎えする儀式なの。そのためには、新しいオリベ様となる子どもにも頑張ってもらわないといけないのよ」
睦子は顔を上げられなかった。
貯水槽に閉じ込められていた、脚のない老婆の姿を思い返す。
「……あの人みたいに、両足を切り落とすんですか?」
「儀式のときに、そんなことしないわ。あれは必要だったから切り落としただけよ」
守部は笑いながら答える。
なにがおかしいのか、睦子にはさっぱりわからない。
「でも、オリベ様を継承する子どもが辛い目に遭うのは避けられない。そんな姿、親御さんなら見たくないでしょ?」
だからね、と守部は付け加えた。
「儀式のあいだは、自分の部屋で待機してもらってもいいかしら」
睦子の頭は、まっ白になった。
返事まで少し時間を置き、冷静になるのを待った。
「子どもが苦しんでるのを黙って放っておけ、ってことですか?」
「見ないふりなんてしなくていいわ。紗代子ちゃんを想って泣き叫びたいなら、どうぞご自由に」
「馬鹿にするなっ」
反射的に、睦子は椅子から立ち上がった。
息があがっている。怒りでなにを話せばいいか、わからなくなる。
「さっちゃんをオリベになんてさせないっ。あなたたちの好きになんてさせないっ!」
「もうこれは決まったことだと、前にも言ったはずよ」
「なら、せめて儀式に立ち合わせて! さっちゃんのそばにいさせて!」
この女に取り入るなんて無理だ。
理不尽に対する怒りがどうしても湧き上がってしまう。
「結局、あなたたちは、オリベを使って、繁栄とやらを続けたいだけでしょ! オリベでも童子でも好きにすればいい。だけど、私の娘を巻き込むなっ!」
「あなたは私たちが私利私欲のために、オリベ様を祀ってると思ってるの?」
「違うとでもっ」
声を張り上げようとした直前、睦子は柱に目をとめた。
柱には油性ペンで引かれたらしい横線がいくつも描かれていた。赤線と黒線は下から上へ、競うように迫り上がっている。
まるで幼い子どもたちが互いに背比べをしているかのように。
「お子さんがいらしたんですか?」
守部の顔色が変わった。
仮面を外したかのように、口元から微笑みが消える。整った顔に深い皺が浮かぶ。内側に押し殺していた苦悩を浮かび上がらせる。
「ええ、いたわ」
感情のない声音。
視線の冷たさにぞっと寒気が走った。なぜ、こんなに寒気がするのか、自分でもわからない。睦子がなにも言えずにいると、守部はそっと椅子から立ち上がった。
棚の引き出しを開け、封筒を手に取ると、睦子の前に置く。
電気、ガス、水道の請求書である。住所と名前が記載されている。住所からして、守部の部屋のものに間違いない。
だが、名前が違う。守部ではなく、別の名前が記載されている。
「私はね、すべてを捨ててきたの。家族も、友人も、思い出も、全部」
守部を名乗る女は請求書に記載された名前を指先で叩く。
「ここに記された名前だって、いまの私にとってはなんの意味も持たない。私は守部。オリベを守る、守部なの」
とん、とん、とん
ゆっくりとしたリズムを刻みながら、守部は話す。まるで壊れた人形のようだ。
「どうして、そこまでしてオリベを守ろうとするんですか? 大事なものを切り捨ててまで、どうして?」
「なんにも捨てようとしないあなたなんかに、理解できるはずないわ」
守部は拒絶した。この人はもともと、誰のことも信用していない。オリベ童子を守ることにすべてを捧げたのだ。
「そもそも、あなたが儀式に立ち会いたいのは、オリベを連れ去るためでしょ?」
睦子は息を呑んだ。それが隙となった。
「やっぱりあなたは正直な人ね、睦子さん」
守部はようやく笑顔の仮面を被り直す。
この場の空気に気圧されている。このままでは娘を奪われてしまう。
「ち、違うんです。わ、私は、そんなこと……」
「ごまかさなくてもいいわ。童子はすべてお見通しですもの。大方、芹沢真一になにか吹き込まれたのよね?」
息が止まりそうになった。
計画が露見している。
もはや、打つ手はない。
芹沢の計画は失敗したのだ。
「ねえ、睦子さん。あなた、そんなに儀式に立ち会いたいの?」
急に守部が問いかける。
なにを訊ねられてるのかわからない。
しかし、動揺してる頭では上手く思考が働かず、頷くしかなかった。
「だったら、機会をあげるわ」
「はい?」
この女は、なにを言ってるのだろう。
睦子たちの企みを知って、なぜそんな提案をするのか。
「こないだからね、敷地に鼠が紛れ込んで困っているのよ」
「鼠?」
「そうよ。大きなのが2匹。敷地のあちこちを荒らしまわっているの」
すると守部は1枚の写真をテーブルに置いた。団地の敷地で撮影されたと思しき写真には、ふたりの男が写っている。
男たちに見覚えがあった。先日、団地の敷地内で見かけたスーツ姿の男たちだ。
鼠。
呼吸が早くなる。
「しかもこの鼠は権力を笠に着て、団地をこそこそ探っていてね。いつもなら放っておくんだけど、いまはまずいの」
話がうまく入ってこない。
守部は自分になにをさせようというのか。
「あの、なんでそんな話を私に……」
「もちろん、鼠退治をお願いしたいからよ」
守部はいつもの微笑を浮かべている。その裏でなにを思っているのか、睦子にはまるでわからない。
「方法は任せるわ。きちんと“処理”をしてくれれば、それでいいから」
「ちょっと待ってください。そんなこと、できるわけないっ」
「できるわよ。子どもを誰か連れて行けばいい。童子が手伝ってくれるわ」
「だ、だけどっ」
なぜ睦子にそんなことをやらせようというのか。
団地を嗅ぎまわる者には、童子の祟りが下るのではなかったのか。
「覚悟を見せてほしいのよ。自分の手で血を汚す覚悟を」
震えが止まらなくなる。
紗代子を守るためなら、団地の人間が死んでも構わないと思っていた。
だが刑事たちは違う。
団地となんのかかわりも持たない、普通の人間だ。
警察は同胞殺しを許さないと聞いている。
もしも彼らを手にかけたら、睦子は永久に追われ続ける。なんとか団地を抜け出せたとしても、紗代子には警官殺しの娘という烙印が押されるだろう。
外の世界に睦子たちの居場所はなくなる。
「大丈夫よ。あなたなら、きっとやれる」
震え続ける睦子の手に、そっと守部は自分の右手を重ねる。オリベとおなじ冷たい体温の手だ。
「紗代子ちゃんのためなら、なんだってできるのよね?」
一度も口をつけていないティーカップからは、すっかり湯気が消えている。
睦子はじっとティーカップを眺めた。
ゆらめく水面に映る顔は、先ほどの守部の顔にそっくりだった。
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