矢上・11
2月初旬。
いつもと違うスーツを着た矢上は九十九折りになった坂を上っていた。
最後に内偵の任についたのはいつの頃だったか。麻薬の密売組織を摘発するため、張り込みをしたのが最後だったかもしれない。
「笑顔で頼みますよ。ただでさえ強面なんだから」
「おかしくもねえのに笑ってる奴なんて、怪しいだけだろ」
「こういうのは相手の緊張感を解くのが大事なんですよ」
岡崎は坂を上りながら、呑気に笑う。しかし、そんな会話も坂を上り切り、団地の敷地に到着した頃には自然と途絶えた。
4階建ての住棟がひっそりと佇んでいる。外から伺う団地はもの静かで、ひっそりとした気配を漂わせている。
不審な点は見受けられない。ごく普通の団地だ。
しかし、団地のどこかに被疑者である久能早苗が暮らしている。
そして、オリベ童子も――
「行くぞ」
矢上が促すと、岡崎も緊張した面持ちでついてきた。今回、矢上たちはネット回線事業者の営業マンという想定で部屋を回るつもりだった。
童子が憑依したオリベの居場所を掴むために、まずは団地の内偵を進める。
この団地が現在、どういう状況にあるのか。それを確認しなければならない。自分たちが刑事だと、住民たちに気づかれないようにしながら。
「こんにちは!」
いきなり声をかけられた。
振り返ると3人の子どもたちが矢上たちを見ていた。使い古したバスケットボールを手にしている。
彼らはいつからそこに?
矢上が訝しんでいる横で「こんにちは」と岡崎は会釈しながら、子どもたちに近づいた。
「いいシューズだね。レブロン・ジェームズ? しかも限定品じゃん」
「おじさんもバスケ詳しいの?」
「昔はバスケ部だったんだよ。シューティングガードをしてた。わかる? ミッチーのポジション」
「僕、仙道のほうが好き」
「おー、スラダンわかる? 話が合うね」
矢上は止めようか迷うが、このまま岡崎に任せることにした。人の距離を縮める才覚において、岡崎は天才的といってもいい。
しばらく話に花を咲かせたのち、子どもたちはバスケをすると言って別れた。
「近くの公園にゴールあるんだ。おじさんもあとで来ていいよ」
「マジで? じゃあ、あとで顔出すよ。おじさんいないと、ひとり余っちゃうしな」
岡崎が軽口を叩くと、子どもたちはキョトンとした顔になる。
「人数、そろってるよ」
「3人だと、2対1になるだろ?」
「ううん。2対2だよ」
子どもたちはおかしそうに笑った。
にやにやとした笑顔には幼い嘲りが混ざっている。そのまま「さよなら!」と言い残し、子どもたちは去った。
矢上は公園に消えていく子どもたちの背中を見つめる。いくら目を凝らしても矢上の目には3人しか映らない。
岡崎も神妙な顔で子どもたちを睨んでいた。
「顔を緩めろ、岡崎。いま、完全に刑事の顔になってるぞ」
「……いけね」
気を取り直した矢上たちは各棟の部屋を回り始める。施設点検という名目で、住民たちの様子を探るためだ。
各戸のチャイムを次々に鳴らしていく。
はじめまして。施設点検にまいりました。ネット回線でお困りのことはありませんか? 今日はおすすめのプランがありまして。
応対用の台詞も用意していたのだが、一度も口にすることはなかった。
いくらチャイムを鳴らしても、誰ひとり扉を開けようとしなかったからだ。
全員が留守のわけではない。しかし扉の向こうからは物音ひとつ聞こえなかった。まるで部屋の中で息を潜めているかのようだ。
10戸目の訪問が空振りになったところで、いよいよ矢上と岡崎の顔に諦めの色が浮かび始めた。
疲れを隠さない顔で、敷地内にあるベンチに座り込む。
「矢上さん。この団地、気持ち悪いっすよ。知らない国にいるみたいですよ」
「黙ってろ。誰に聞かれるかわからん」
とはいえ、矢上も気持ちはおなじだ。
肌にまとわりつくような気持ち悪さをずっと感じている。
内偵の前に聞いていた情報が影響しているのかもしれない。
この団地が捜査対象になった際、矢上たちがまず行なったのは団地から転居した家族からの聴取だった。
実際に現地に入る前に、住民たちの様子を知りたかったのだ。
市役所に保存された過去5年間の転居届けのうち、団地から転居した世帯は1組。
若い夫婦と幼い男の子がいる家族だ。
すぐに矢上たちは連絡を取ったが、聴取はできなかった。
団地を転出してすぐ、家族全員が死亡していたからである。
遺族によると、夫婦は団地での生活にたびたび不安の言葉を漏らしていたらしい。
特に幼い息子は、目に見えない子どもの幻覚をたびたび見ていたらしい。イマジナリーフレンドという言葉で片づけらない生々しさがあったという。このため両親は息子を精神クリニックに連れて行き、たびたび受診させていたらしい。担当医師によれば、幼い息子はその子どものことを「トージ」と呼んでいたという。
他に転居者はいないのか。転居したあと、彼らはどうなったのか。矢上たちのほうでは調べがつかなかったが、おおよその予想はついた。
オリベはこの団地のどこかに監禁されている。しかし同時に、住民たちもまたオリベ童子に縛られているのだ。
笹木家の人間たちのように。
どこからか子どもの笑い声が聞こえる。誰かと遊んでいるらしい。
「この団地、子どもが多いですね」
「ほとんど子持ちの家族しかいないらしいからな」
オリベがどのようなタイミングで、どのように継承されるのかはわからない。
しかし、オリベが生きた人間である以上、老いて死ぬ運命からは逃れられない。
ならばこそ、次のオリベを調達する場は必要になる。
『ひだまりの家』の子どもたちのようにわざわざ外部の人間を使わず、調達できる環境。
それを見越して、久能早苗が団地にオリベ童子を連れてきたのだとしたら。
矢上はそれとなく上を見上げ、ある部屋に目を留めた。
久能早苗の部屋はカーテンで閉ざされている。部屋にいるのか、外出しているのか。こちらからでは判断がつかなかった。
「何者なんですかね、久能早苗は」
岡崎も似たような想像をしているのだろう。わからん、と矢上は頭を振るしかなかった。
彼女についてわかっているのは、管理組合の理事長を務めていること。伴侶も子どももいないこと。特に事業を営んでいる形跡はないが、多額の資産を有していること。両親は20年前に他界しており、天涯孤独の身であること。
久能早苗と被害者のつながりはわからないままだ。
そのままベンチに座り、遊歩道の脇に設られた土だけの花壇を眺める。
芽のひとつも生えていない。なんの花が植えられているのかもわからない。そもそも花なのかすらもわからない。
顔をあげた矢上は、あるものに目を留めた。
団地の敷地に大きなとっくりが建っていた。住棟とおなじだけの高さがある。風景に馴染んでいるようで、妙な異物感がある。眺めるうちに正体がわかった。
給水塔だ。
水道の水を高層階に行き届かせるための設備。現在ではポンプの性能が向上したこともあり、需要は減っているものの、いまでも現役として稼働しているところは少なくない。
塔の頂には貯水槽タンクがあり、団地内に水を行き届かせている。
笹木邸にある貯水槽のように。
そもそもオリベ童子は邸宅や敷地をどのように認識しているのだろう。
団地は集合住宅である。しかし、見方によっては何百人という人間と同居している巨大な邸宅とも呼べる。
オリベ童子は家の中心に祀られる。それは、人間が暮らすうえで決して切り離せない“流れの中心”を指すのではないか。
だとしたら、生きていく上で不可欠な水が団地に供給している給水塔は、団地の中心と呼べるのではないか。
矢上は給水塔に近づいた。
「矢上さん?」
慌てたように岡崎も追いかける。
間近に見ると、実際よりもずいぶん大きく見える。壁はコンクリートで造られており、雨風にさらされてか塗装も剥がれている。
入り口の扉を見つけ、ドアノブに手をかけてみるが案の定、施錠されていた。
「無駄ですよ。笹木邸とは状況が違うじゃないですか。ここは水道局が管理しているでしょうし、人間を監禁できるような場所じゃあ……」
「それはないな」
矢上は敷地の一角にある小屋のような建物を指差した。
「あそこにポンプ室があった。給水塔はおそらくいまは使われてない」
「使われてないものを残してるんですか?」
「たまに給水塔をモニュメントとして残す話は聞くから、それ自体は珍しい話じゃないさ」
しかし裏を返せば、この給水塔には団地の住民以外は近づかないということになる。
思えば笹木邸の貯水槽タンクも破棄された設備だった。
もしも捨てられた設備を借用し、オリベを監禁する檻とすることで、オリベ童子の権能を敷地全体に巡らせているのだとすれば――
「こんにちは。どうかされたんですか?」
慌てて矢上たちは振り返った。
いつのまにか黒衣の女性が立っていた。
年の頃はわからない。若く見えるが、真鶴とおなじくらいの年ごろにも思える。
黒衣の女は白いほっそりとした顔に微笑を浮かべていた。まるでモナリザみたいな女だ。
「すいません。我々、こういうものです」
矢上は胸ポケットから用意していた偽の名刺を取り出した。
名刺を受け取りながら、黒衣の女は「まあ」と上品な声で頷いた。
「ネット通信の営業の方ですか。わざわざ、こちらまで足を運んでいただいてお疲れさまです」
「いえ、私も突然の訪問となり申し訳ないです。先ほど皆さまの部屋をまわっていた時に、こちらの給水塔を見かけましてね。立派な塔だと思い、近くで見てたんです。なあ?」
「う、うす」
ここへ来る前はアドリブには自信があると豪語していた岡崎だが、いまは借りてきた猫のように大人しい。
満更でもない様子で、黒衣の女は笑う。
「ありがとうございます。外の人に褒めていただけると嬉しいですね。こちらの塔は、団地のシンボルになっていますから」
「外の人?」
「この団地の人たち、みんな部屋に篭りきりで外の世界と関わりたがらないんです。近頃はお仕事も在宅でできるし、食事も買い物もネットで頼めば、運んでくれるでしょ? だから外に出ない生活を送る人も多くて」
「たしかに。便利な世の中になりましたからね」
矢上は相槌を打ちながら、他愛もない会話を交わす。相手が口にする言葉を吟味し、女のパーソナリティを捉えようとする。
印象が掴みにくい。感情の芯がどこにあるのかまるで見えてこない。
「なので、あまり敷地をうろうろしないほうがいいですよ? 無用な警戒心を抱かれてしまいますから」
「ええ。気をつけます」
矢上も笑いながら、その場を立ち去ろうとしたが、「そうそう」と女はなにかを思い出しように呟いた。
「先日もひとり、敷地内を散策されてる方がいらっしゃいましたね」
「散策?」
「ええ。早朝だったかしら。朝の掃除をしていたら、あのゴミ捨て場のところに男性の方が立っていたので声をかけたんです」
女の細い指がゴミ捨て場を指差す。いまは回収されたのか、ゴミ袋ひとつなく片付いている状態だった。
「話を聞いたら、入居志望の方だったそうで。たまにこちらを散歩しているうちに団地が気に入ったので、空きの部屋がないか尋ねられたんですよ」
なぜ女がこんな話をしているのかわからない。それでも矢上は調子を合わせた。
「どんな男だったんですか?」
「公務員をされているとか。家族を大切にされてる、とても真面目そうな方でしたよ。もうすぐ中学生になる息子さんがおられるとかで」
いつかの峯岸の顔を思い出す。
久しぶりにサシで飲んだ晩。なれないグラスを片手に息子の話を楽しそうにしていた。
「あら。どうされました?」
黒衣の女は不思議そうに首を傾げている。表情の読めない目で、じっとこちらを覗き込む。
「ずいぶん怖い顔をされてますけど」
感情が顔に出てしまったのか。矢上は思わず手で自分の顔を確かめた。
すると、黒衣の女は声を出して大笑いした。
あははははは!
「ごめんなさい。からかっただけです。お気になさらないで」
矢上はなにも答えられない。
こいつが松濤事件の犯人。
笹木家の4人を殺し、オリベを誘拐した女――久能早苗。
管理組合室のほうから、若い女性がこちらに手を振っている。
久能早苗を呼んでいるようだ。
「あら、呼ばれちゃったみたいね。ではお先に失礼します。お時間とらせてごめんなさい」
一礼すると、足早に去っていった。
久能早苗は、自分たちが刑事だと気づいたのだろうか。おそらく気づいていたはずだ。だとしたら、なぜあんな態度を取れるのか。
矢上はこれまで出会った被疑者の顔を思い浮かべる。
逮捕が間近に迫ったとき、被疑者が浮かべる顔は大抵決まっている。観念するか、最後まで抵抗するかだ。
しかし久能早苗は、そのどちらにも当てはまらない。取り繕うのでもなく、こちらの正体を見透かして挑発までしてきた。
まるで警察なんて、最初から目にも入っていないかのように。
彼女は本当に、この世の者なのだろうか。
矢上は息を深々と吐き、給水塔を見上げた。やはりここが怪しい。だが、いま調べるのは危険だ。一度引き返すしかない。
「岡崎。俺たちも、そろそろ――」
こちらの声にも気づかず。岡崎はスマートフォンを片手にじっと画面を見ている。
いままで見たことがないほど、顔はひどく強張っていた。
「どうした?」
返答する代わりに、岡崎はそっと自分のスマートフォンを矢上に見せる。
団地の棟に向けてインカメラを起動しているのか、画面にはカメラがとらえた光景が表示されている。
矢上の背中越しに映る団地。各戸の窓すべてに人が立っている。
子どもから大人、老人まで、じっとこちらの様子を伺っている。
後ろを振り向くことができない。見上げることもできない。
矢上たちは無数の視線に包囲されている。
「いつからだ?」
声をひそめ、尋ねると、岡崎は口パクで「さっきから」と答える。
久能早苗と話したときから、矢上たちは見られていた。
あるいはここに足を踏み込んだ時から。
矢上は上を向かず、黙って敷地の出口に向かって歩きだした。岡崎もついていく。
無数の視線が矢上たちに突き刺さる。たまらずちらりと団地のほうに目をやった。
4階の窓から、幼い娘と母親らしき人影が物も言わずこちらを見下ろしている。
彼らがいま、どんな感情で自分たちを見ているのか、想像もつかない。
敷地を出てからも、まだつきまとわれている錯覚が拭えず、九十九折りの坂を下りきるまで、互いに言葉を交わさなかった。
丘の裾野に広がる住宅街にたどり着いたところでようやく岡崎は口を開いた。
「なんなんだよアレ、なんなんだよアレっ。ヤバすぎるだろっ」
「落ち着け、岡崎」
激昂している後輩を宥めながら、矢上はもう一度丘を振り返った。
頂にそびえる団地が、いまは難攻不落の要塞に見える。
自分たちの敵は被疑者だけではない。この団地そのものだ。
本当にあの場所からオリベを見つけることができるのか。いくら頭を捻っても、手段が思いつかない。
矢上は切っていたスマートフォンの電源を入れる。真鶴から着信が来ていたのですぐにかけ直した。
ワンコールで着信に応じた真鶴は単刀直入に告げる。
「先ほど、久能早苗の逮捕状が発行されました」
真鶴は言った。
「団地の周囲に、本庁から派遣された捜査員が配置につきます。松濤事件の捜査は第五係の管轄から離れました」
「そうですか」
淡々と返事しながらも、矢上は訊ねる。
「猶予はもらえたのですか」
「逮捕の決行は5日後。ですが、すでに松濤事件の動きをマスコミも嗅ぎつけています。久能早苗の動向によっては前倒しになる可能性があります」
「つまり我々がオリベ童子の捜査をできるのもそれまで……ということですね?」
「はい」
真鶴は首肯すると、鋭い口調で命令した。
「5日以内に、オリベ童子を見つけてください。誰かに連れ攫われる前に、必ず」
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