睦子・11

 柔らかいものに包み込まれている。

 気だるさを覚えながら、睦子はゆっくりと瞼を開いた。

「ママ、げんき?」

 紗代子が心配そうな顔でこちらを覗き込んでいる。夢かと思い、睦子は紗代子の顔に手を伸ばす。

 頬をなでる母親の手を紗代子はくすぐったそうに受け入れた。

 熱を持った柔らかさに触れるうち、睦子の意識が徐々に覚醒する。

「さっちゃん、だよね?」

 呼びかけると、娘は当然のように「うん」と頷く。

 次の瞬間、睦子は上半身を起こし、すぐに紗代子を抱きしめる。

「よかった。さっちゃん、さっちゃん!」

 睦子の脳裏に給水塔で見た光景が朧げに蘇る。玩具が飾られた貯水槽。両足を切り取られた老婆。何者かが憑依したかのような紗代子の姿。

 どれだけ眠っていたのだろう。窓から夕陽が差し込んでいる。

「目、覚ましたのか?」

 呼びかけてきた主を見て、ぎょっとする。

 寝室の入り口に、芹沢が立っていた。窪んだ目でこちらの様子を覗き込んでいる。

「どうして、あなたが……」

「覚えてないのか? あんた、ゆうべ中庭に倒れてたんだぞ。あのまま放っておいたら、凍死してた」

「中庭……」

「給水塔の入り口。その子も一緒にいた」

 睦子の背中に怖気が走った。

 やはりあれは夢ではなかったのだ。たしかに自分は紗代子を助けるために給水塔に乗り込んでいたのだ。

 だとしたら、悪魔だと思えた光景も現実だったというのか。

 紗代子が次のオリベになるという預言も――

「ママ?」

 きょとんした目で紗代子はこちらを覗き込む。やがて小さい手を睦子の頬へと伸ばした。いつのまにか頬にはガーゼが貼られている。どこかで擦り傷をつくったのだろう。

「もう、いたくない?」

 優しく、労わるように、紗代子はガーゼを撫で続ける。睦子は胸がいっぱいになりながら、うん、と頷いた。

「向こうの部屋で遊んでてくれる? 芹沢さんとお話しないといけないの」

「おはなし?」

「そう。大事なお話。テレビつけてもいいから」

 紗代子は母親と芹沢の顔を交互に見比べてから、リビングのほうへ去っていく。

 芹沢はなにも話さず、黙って睦子のそばに腰を下ろした。

 相変わらず荒んだ雰囲気を放っているが、いまは恐ろしさよりも、物悲しさのほうが優っているように思えた。

「助けてくれて、ありがとうございました。娘の面倒も見てくれてたんですね」

「礼なんかいい。それよりも」

 芹沢は膿んだ目で睦子を見据える。

「見たのか?」

 なにを、と聞き返すまでもない。

 睦子が無言で頷くと、「そうか」と芹沢は短く答えた。

 聞きたいことは山ほどあったが、睦子は口にできない。芹沢を信じていいのかわからなかったし、なにより自分たちの話を聞かれるのが怖かった。

 オリベに。あるいは童子に。

「聞きたいことがあるなら、聞いてくれていい。いまはトージも寝てる」

「ほんと?」

「前にも言っただろ。俺にはわかるんだ。信じるかどうかは任せる」

 芹沢は幼い頃から、この団地で暮らしてきた。トージくん――童子も、オリベ様も昔から見てきている。

 そういう環境下で育った感覚があるのかもしれない。

 だからこそ確かめたいことがある。

「童子はどこにいるの? 給水塔? それとも、さっちゃんの中?」

「いまはあんたの娘からは離れてる」

 芹沢は言った。

「しばらく乗り移って、居心地を確認してたんだろう。時期が近くなると、そういうことが起こる」

「時期って?」

 問いかける声が震えた。芹沢はぼんやりと窓の外を眺め、口を開く。

「檻の入れ替え。古い檻を捨てる時期が近づいてるんだ」

 古い檻。両足のない老婆を思い出し、戦慄が走った。

 紗代子は解放されたわけではない。

 いずれオリベにされる。

「本当に、さっちゃんじゃないといけないの? どうして、さっちゃんなの」

「童子に気に入られた。それだけだ」

「そんなんで納得できるわけないっ!」

 睦子はいまでもはっきり覚えてる。

 童子が憑依し、のっぺらぼうのようになった紗代子の顔を。

 娘が娘でなくなったまま、一生を、あの暗い檻に閉じ込められる。

 そんなの、耐えられるわけがない。

「じゃあ、どうする。ここから逃げるか?」

「逃げたって、武藤さんたちみたいに事故で死ぬだけでしょ」

「でも、ここで生きていくよりは幸せかもしれない」

 思いがけない言葉に、睦子は顔を上げる。

 芹沢はうずくまったまま、暗い眼差しをこちらに投げかけていた。

「どうせ人間、いつかは死ぬんだ。檻の中か、外か。マシな最期を選ぶ自由くらいはある」

 オリベとなり、監禁されたまま一生を過ごすか。遠からず訪れる死を待ちながら、外の世界に出るか。

 睦子にできる選択はそのふたつだけ。

 リビングから耳馴染みのある歌が流れる。アンパンマンのマーチだ。テレビをつけたのだろう。オープニングに合わせて、紗代子が楽しそうに歌を口ずさんでる。

 思考を巡らせながら、娘の歌が頭の片隅でぼんやりと流れる。

 いつのまにこんなに歌が上手くなったんだろう。楽しそうに歌ってるな。アンパンマン好きだよね。こんなにどうしようもない母親なのに、いい子に育ってくれた。きっとこの子は世の中の正しさを信じていて、優しさがあると信じていて、この先にも素晴らしい未来があると信じて疑っていないのだろうな。

 そんな取り止めもないことを考えていると、なぜか目の前にいる芹沢が狼狽えた顔になっていた。

 どうしたんだろうと首を傾げていると、相手はなぜかハンカチを渡してくる。

 そこで初めて、自分が泣いていることに気づいた。

「あれ?」

 睦子は自分の目元を拭った。すぐに収まると思ったのに、涙の雫はぽたぽたと溢れて止まらなくなる。

「ち、違うの。えっとね、悲しいとかじゃなくて。あれ?」

 わけがわからないうちに、気がつくとしゃくり上げる自分がいた。

 それは次第に激しくなり、ついには号泣に変わった。

「やだ、やだよお、さっちゃんが死ぬなんてっ。死んじゃうなんてダメ。オリベになるのもやだ、やだったらやだぁっ!」

 ついには顔をあげられなくなり、畳を見つめる。するとごつい手の感触が背中から伝わってくる。芹沢が背中をさすっているようだ。まるでこちらを怖がるように、恐る恐るといった感触だが、それが睦子には労りのように思えた。

「ママ?」

 泣き声が聞こえたからなのか、リビングから戻ってきた紗代子が心配そうに自分を覗き込んでいる。

 心配そうに近づき、声をかけてきた。

「やっぱり、どこかいたいの? 苦しいの?」

 睦子は答えようとするが、しゃくりあげるせいで言葉にならない。頷きながら、結局どうすることもできず、抱きしめてしまう。

「痛くないよ……。さっちゃんがいてくれるなら、全然痛くない」

 もともと子どもは好きじゃなかった。

 小説を書き続けることさえできればよかった。愛する人と愛を交わすことさえできれば、他になにもいらないと思っていた。

 しかし愛した人には裏切られ、仕事も失い、魂を込めて書いた作品もピリオドを打てないまま打ち切られ、すべてを失ってしまった。

 そんな中で、この身に宿した子どもを愛せるわけがない。そう思っていたのに、結局生む選択をしたのは、中絶への恐ろしさが上回っただけのこと。

 母親になる覚悟も、意志もなかった。しかし赤ん坊が生まれて、しわくちゃの顔を眺めながら、つぶれそうなほど小さな手に触れたとき、睦子の意識は変わった。

 自分の人生はこの子を生かすためにある。心からそう信じることができた。

 頭にすっとひとつの名前が浮かんだ。

 そして生まれたばかりの赤ん坊に「紗代子」と名付けた。

 だから、選べるわけがない。

 紗代子が幼くしてすぐ死ぬ未来も。オリベとなって監禁される未来も。

 そんな将来を、あの子に与えたくない。

 自分がどうしたいのか。最初から答えは出ていた。

「さっちゃんを死なせるつもりはない。それに、オリベにさせるつもりもない」

 腕の中の紗代子は戸惑ったように首を傾げている。少し抱擁を緩め、娘の自由にさせる。拘束から解き放たれた猫みたいな動きをする紗代子を見て、思わずくすくすと笑ってしまう。

 そんな場合じゃないのに、どうしようもなく笑顔がこぼれてしまう。

「わかったよ」

 芹沢はぽつりと呟いた。

 いつもの仏頂面が、いまはとても優しく見える。

「団地から出られるかもしれない方法が、ひとつだけある」

 一瞬、相手の言葉の意味が呑み込めなかった。遅れて理解が進み、それは衝撃へと変わる。

 芹沢はこちらに接近し、耳元でささやいた。

「オリベを連れて、外へ出るんだ。そうすれば、連れて出た奴は助かる」

 睦子は声をあげそうになった。

 オリベのもとから離れた者は命を落とす。

 ならば、オリベから離れなければいい。そしてオリベが実体を持った人間である以上、外へ連れ出すことはできるのだ。

 だが、疑問はある。

「外に連れ出したら、残った人はどうなるの?」

「たぶん、あんたが想像しているとおりになる」 

 オリベのもとから離れた者は命を落とす。ならば、オリベそのものが団地から離れたら、団地の住民も無事ではすまない。

 何十人という命を引き換えに、逃げ出す覚悟があるか。

「どうして芹沢さんは、そんな話を私にするの?」

「俺も檻から出たいんだよ」

 芹沢は窓の外に目を向けた。

「練っている計画がある。協力者もいる。たぶん、あんたの協力が必要になる」

「計画って、どんな?」

「それは――」

 紗代子はあっと声をあげて立ち上がると、サンルームのほうへ駆けだしていく。芹沢の顔に緊張が走る。

 童子が目覚めたのだ。

 睦子は思わず紗代子を呼び止めようとするが、芹沢は首を振った。

「大丈夫だ。儀式の日が来るまで、あいつはあの子に手は出さない。あんたのことも、娘のことも、大事に扱うはずだ」

 儀式の日――当代のオリベから、次代のオリベへと継承される日。

「いつ行われるの?」

「わからん。ただ、猶予はない」

 芹沢は立ち上がる。睦子はさらに尋ねようとするが、芹沢は咎めるように視線を向けた。

 これ以上は話せない。そういうことなのだろう。

 だから代わりに答えた。

「私、やるよ」

 睦子はしっかりした声でもう一度繰り返した。

「大事なのは、さっちゃんだけだから」

 芹沢はなにも答えない。かすかに頷くと、そのまま玄関から出て行った。

 部屋の空気が肌寒い。悪魔と契約を交わしたような錯覚に陥るが、不思議と後悔はわかなかった。

 なに食わぬ顔でサンルームにいる娘のもとへ向かった。

「さっちゃん。今日は遅いから、遊ぶのは今度にしようね」

 窓から見える景色は夕闇に沈んでいる。

 紗代子は遊歩道のほうを眺めていた。また童子の姿を見ていると思ったが、娘の視線の先に不自然なものを見つける。

 人影が見える。それもふたつ。顔はよく見えないが、男性のようだ。ひとりは初老の男性。もうひとりは若い男のようだ。

「あのおじさんたち、昼間もいたよ」

「えっ?」

 睦子は人影によく目を凝らす。男たちはなにかを話すと、そのまま中庭を出て行った。しかし完全に歩き去る直前、初老の男が立ち止まり、こちらに見上げる。

 自分の顔を見ているのかわからない。

 だが、目が合ったように思えた。

「誰だろう、あの人たち」

 疑問を浮かべる紗代子に睦子も「誰だろうね」と声をかける。

 誰だろうと関係ない。

 もう後戻りはできない。

 この子の未来を守るためなら、なんだってできる。

 誰が生きようが、死のうが、睦子にはもう関係ない。

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