矢上・10

 峯岸が転落事故にあったのは、多摩市にある歩道橋である。

 頭から血を流して倒れている峯岸を通行人が発見。そのまま市内の病院に搬送された。一命はとりとめたが、まだ意識は戻っていない。

 矢上が見舞いに行くと、峯岸は身体中に包帯が巻かれて、入院室のベッドに横たわっていた。左目が大きく腫れている。ピッピッピッ、という心電図の音だけが生存の証となっていた。

 ちょうど退室しようとしたところで、峯岸の妻と息子に鉢合った。もうすぐ中学生になるサッカー好きの息子は、峯岸に似て柔和な顔をしていた。

「この頃は家に帰って来てくれる日も多くなってたのに。困っちゃいますよね」

 峯岸の妻は柔らかく笑いながらも、目元を拭った。矢上はなにも言えず、ただ頭を下げるしかできなかった。

 病院を辞した足で、事故現場となった歩道橋へと向かう。

 問題の歩道橋は、多摩ニュータウン通りに位置している。

 事故当日は雨が降っており、歩道橋の段差も水で濡れていた。このため、現場検証にあたった捜査員たちは、運悪く足を滑らせて転落したという見方を示していた。

 車の往来は激しいものの、人通りは少なく、周囲には住宅とチェーンの牛丼屋やラーメン屋の店舗がまばらに並んでいる。

 脇に目をやれば、丘に築かれた団地が姿を覗かせていた。まるで城のようだと矢上は思った。

 多摩市はもともと丘陵地帯を開拓して築かれた街である。見上げるような高台に住宅街や団地がこのあたりにはいくつも築かれている。高台に築かれた団地なら歩道橋の様子もよく見えそうだが、いまのところ、目撃者は見つかっていない。

 事故という判断も妥当に思える。

 ポケットの中でスマートフォンが震える。岡崎からだ。

「例の骨、検視の結果が出ましたよ」

 少し興奮した口調で、話を続ける。

 笹木家で発見された脚の骨は、脛骨にあたる。骨密度からして成人のものだという。推定される身長は160センチ前後。断定はできないが、身長からして女性の可能性が高い。完全に白骨化しているため、体組織は残っていなかったが、内部に残っていた骨髄からDNAが検出された。

 鑑定の結果、笹木家の人間と血縁関係にある可能性は1パーセント以下らしい。

 さらにもうひとつ、特筆すべき点があった。

「脛骨の切断面には金属の刃物による擦過跡が認められたそうです」

「つまり、鋸で両足を切られたってことか」

「はい。それに切断面には血が付着してたことから、両足は生前に切断された可能性が高いと。骨自体に病気や壊死、怪我の痕跡はないので、治療目的で切ったわけでもなさそうです」

 骨の主は笹木家の人間ではない。

 では、いったいなんのために脚を切り落とされたのか。

「やっぱり、骨の主は笹木家の人間に監禁されてた人物……つまり、オリベ童子だったんでしょうか?」

「かもな。童子じゃなくて、成人のようだが」

「だけど、あの家には監禁されてた人物の遺体は発見されていません。つまり、犯人が連れ去った可能性が高い」

 岡崎は興奮した口調で話を続ける。

「骨の主はオリベ童子と呼ばれ、一種の生き神として扱われていた。両足を切り落としたのは、逃げられないようにするためです。笹木家の人間は、オリベ童子を家に閉じ込める必要があった。だから――」

「落ち着け、岡崎」

 矢上は後輩を窘めると、静かに諭した。

「俺もお前の意見には同意だ。あの家には誰かが監禁されていた。その誰かは犯人によって連れ去られた可能性が高い。でもな、今回の発見はなんの証明にもなりはしないんだ」

「……どういうことです?」

「殺人が起こった家で、誰のものかもわからない人骨の一部が見つかった。それだけの話だ。監禁や誘拐が発生した証拠にはならない」

「でも、俺たちが調べてきたオリベ童子の話と合わせれば、辻褄は合います!」

「そうだな。笹木家が一種のカルト信仰に染まっていた可能性は高い。疑いは十分にある。だからこそ、さらに物証を集めなきゃならん」

 骨の主である第三者が監禁および誘拐された事実をどう立証するか。

 それが今回の捜査のゴールなのだ。そしてまだ、矢上たちは端緒となる手がかりをようやく手に入れたに過ぎない。

 電話先で、岡崎の息遣いが聴こえる。珍しく落ち込んでいるらしい。気を取り直すように相手が喋った。

「……峯岸さんの様子はどうでした?」

「ベッドで包帯グルグル巻きになってる。まだ目覚める見込みはないそうだ」

 岡崎の返事はなかったが、電話の向こうで唇を噛みしめているのがわかった。

「さっき、ハギーに会ってきました。あいつ、相当凹んでましたよ」

 萩原。峯岸とペアを組んでいた第五係の女性刑事。

 彼女も峯岸とともに松濤事件の専従捜査にあたっていた。

「峯岸が事故に遭ったとき、萩原はどこに?」

「深川で報告書のまとめをしてたらしいです。こないだから峯さんと別行動とってたらしくて」

「別行動?」

「係長命令らしいです。ハギーも理由はわからないと」

 真鶴からの命令。

 矢上は専従捜査が立ち上がったとき、真鶴から告げられた言葉を思い出す。

 どんな命令でも従え。質問しても答えは期待するな。

「峯岸たちはなにを追ってたんだ?」

「……それも教えてくれなかったです。係長から口止めされているらしくて」

「頼み込んでも無理そうか?」

「ハギーは真面目ですからね。上司の命令を違える奴じゃありません」

 勝手な判断で動く人間よりも、言われた命令を律儀にこなす人間のほうがよほど信頼できる。萩原の態度は警察官として正解だと思う。

 おかげで肝心なことはわからないままだが。

 すると耳元から別の着信音が聴こえた。誰かが電話をかけてきている。

「悪い。あとでかけ直す」

 一旦、岡崎の電話を切り、着信に出る。

 相手は原田だった。

「やあ、ガミさん。忙しそうだね」

「なんだ。飲みの誘いなら後にしてくれ」

「そういうんじゃないよ。ちょっと、確認したいことがあってね」

 原田の口調が急に険しいものになる。

「ガミさんとこの天才警部、本庁で揉めてるらしいんだけど、なにか聞いてる?」

「係長が?」

 思い当たるのは、松濤の邸宅で見つかった人骨の件だ。まだ、あの一件はマスコミには公表されていない。広報課と対立しているのかもしれない。

「人骨の公表をどうするかって話なら、俺はなにも――」

「とぼけないでくれよ」

 原田は咳払いしてから、声を潜める。

「こっちには情報が来てるんだ。ガミさんのとこの係長と室長さんが詰められているって話はさ」

「詰められてる? 誰に?」

「本庁の刑事部長、捜査一課課長、理事官。本庁刑事部のお偉方だよ。まったく、捜査本部があるのは渋谷なのに、おかげでこっちの面子も丸つぶれだよ……」

「ちょっと待ってくれ。なんの話だ?」

「……本当になにも知らないのかい?」

 原田は戸惑った声で訊ねた。

「松濤事件、被疑者の逮捕状が請求されている、って話だよ?」


 ◇◆◇


 電話を終えると、すぐに矢上は深川に戻った。

 すっかり夜も更けており、分庁舎の窓は半数以上が暗くなっている。しかし第五係の部屋にはまだ明かりがついている。

 入室すると、係長のデスクには真鶴が座っていた。

「お疲れさまです、矢上主任」

 いつもと変わらない涼しい態度で出迎えられる。眼鏡をかけた目元には隈ができていた。心なしか、少しやつれたように見える。

「係長。いま、お時間よろしいでしょうか?」

「なんでしょう」

「容疑者の逮捕状が請求されているというのは、本当ですか?」

 真鶴はまっすぐにこちらを見つめる。

「どこでその話を?」

「お答えください。松濤事件の犯人が、見つかったのですか?」

 矢上は語気を強めた。

 真鶴は答える代わりに机の引き出しを開ける。

 書類の束を取り出すと、矢上に渡した。受け取った書類を見て、矢上は目を見開いた。表紙には『松濤事件・再捜査報告書』という題字が印字されている。

「萩原巡査長がまとめた報告書です。峯岸巡査部長と萩原巡査長の捜査記録が記載されています。そこに必要なことは、漏らさず記されています」

「……拝見しても?」

「どうぞ」

 矢上は報告書のページをめくる。

 峯岸と萩原は笹木家周辺の関係者を改めて調べていたらしい。しかし網羅的に当たるのではなく、範囲は絞られている。

 笹木総合病院の院長、医師、看護師。長女である瑞穂の勤務先の病院。さらに都内の大学病院の関係者。

「病院関係者ばかりですね」

「はい。私の指示で」

 捜査理由を教えるつもりはないらしい。矢上は改めてリストアップされている病院の名前を見る。どれも大きな病院ばかりだ。あとで検索すれば、共通点が出るかもしれない。

 さらにページをめくる。

 峯岸たちが聴取を取った証言の記録が並ぶ。特に目を惹くものはない。これのどこに容疑者にまつわる情報が記載されているのか。

 次のページ、さらに次のページ。報告書を追い続ける矢上の手があるページで止まった。

 紙面には建物の写真が掲載されていた。病院ではない。松濤にある邸宅でもない。どうやら団地らしい。なぜか見覚えがある。

「これは?」

「多摩市にある民営の分譲団地です。峯岸さんはここを捜査していました」

 矢上はなぜ写真の建物に見覚えがあるのか思い立った。峯岸の事故現場となった歩道橋から見えた建物。丘の上に建てられた集合住宅に間違いない。

 さらに次のページをめくる。

 次に掲載されていたのは女の写真だった。黒いブラウスを着ている。黒衣の女だ。名前も記載されている。

 久能早苗くのうさなえ

 初めて聞く名前だ。

「彼女が、松濤事件の被疑者と目されている人物です」

「はっ?」

 思わず声が出る。なぜ、この女が被疑者になるのか。矢上はこれまでの捜査を振り返るが、やはり久能早苗という名前にも、この顔にも覚えがない。

 しかも逮捕状の請求まで話が進んでいるということは、確固たる物証があることになる。

「峯岸巡査部長と萩原巡査長の捜査から浮上しました。物証もあります。間違いなく、起訴には持ち込めるはずです」

「物証というのは、いったいなんですか?」

「それは言えません」

 真鶴は首を振った。こんなときにまで秘密主義を発動するのか、と憤りを覚える。しかし真鶴は「本部命令です」と付け加えた。

「情報漏洩を防ぐため、久能早苗を被疑者と確定した根拠は極秘とされました。事件捜査に関わる捜査員にも逮捕の期日まで漏らさないよう厳命されています」

「極秘って……」

 そんな話、聞いたことがない。

 それだけ、重大な事実をつかんだということなのだろうか。

「刑事部長は一刻も早く逮捕に踏み切りたがっています。室長が説得してくれていますが、逮捕状が出るのは時間の問題です」

「そこまで話が進んでるんですか……!」

 いったい、久能早苗は何者なのか。

 なぜ捜査一課の幹部は、彼女の逮捕を急いでいるのか。

 さまざまな疑問が渦巻くが、最もわからない点がある。

「係長は、なぜ逮捕状の請求に反対されているんですか?」

「逮捕状の罪状は殺人および放火のみ。監禁と誘拐についてはまだ認知もできていません」

 それはまさに矢上と岡崎が先ほど話した事柄でもある。松濤で発見された人骨は監禁および誘拐の証拠にはならない。

「オリベがどこに監禁されているかがわからない以上、この段階で逮捕するのは危険です。オリベを保護するチャンスがなくなります」

 いつになく真鶴の口調に熱がこもる。

 彼女は事件当時、ドライブレコーダーの映像に映った犯人とオリベ童子らしき人物を発見している。このため、オリベ童子に対しても強いこだわりがあるのだろう。

 さらに矢上は気づいたことがある。

「オリベ童子ではなく、オリベと係長は呼ぶんですね」

「ええ。矢上主任も気づいているのでしょう?」

 オリベ童子とトージくんは正確には、同一人物ではない。

 トージくん――童子を閉じ込めるために依代とされた人間。

 それがオリベなのだ。

「石原璃子が研究していた加持祈祷にはヨリマシというものが出てきます。神様を降ろすための依代として、子どもが使われてたんです。勇輔が石原に興味を持ったのも、憑霊の儀式に詳しかったのも、それが関係していたんでしょう」

 さらに文献によれば、ヨリマシに憑霊させる儀式にはしばしばケシの花や大麻が用いられたらしい記述があるらしい。

 酩酊状態になれば神を降ろしやすいという感覚は、現代人にも理解できる。

 おそらく、『ひだまりの家』の子どもたちが笹木家の邸宅に招待されたのも、次のオリベを見つけるためだったのだろう。

 そして儀式の際、彼らは幼い頃から大麻の煙を吸わされていた。

 これらの話に確たる根拠はないため、あくまで矢上の想像でしかない。

 想像であってほしいと思っている。

「しかし、いま現在、オリベの行方につながる物証は見つかっていません。オリベの保護を目指すなら、被疑者の逮捕が確実だと思いますが」

 身柄を確保すれば、余罪の捜査も、家宅捜査も行える。久能早苗がオリベを誘拐していたとしたら、手がかりも得られるはずだ。

 しかし真鶴はそんな楽観視をしていないらしい。

「該当の団地について、峯岸巡査部長からいくつか報告がありました」

 無意識のうちにか、真鶴は手首に巻いた五色の紐を触る。

「こちらは管理会社ではなく、管理組合による運営を徹底しているそうです。地元の不動産業者にすら、情報がほとんど下りてこないと」

「自治意識が強い団地、ということですか?」

「かもしれません。ただ、団地の住民の情報を市役所に問い合わせたところ、住民たちの納税額がみな、1000万を超えていたそうです」

 矢上の全身に緊張が走った。

 問題の団地はいわゆるファミリー層が居住する集合住宅であるらしい。少なくとも富裕層が住むような高級住宅ではない。

「なにか特別な事業を営んでいるとか?」

「そのような痕跡はどこにも見当たらないそうです。さらに言えば、住民たちがそれほどの資産を得るようになったのは、団地に転居したあとのようです」

「その傾向が始まったのは、いつ頃から?」

「不動産業者からの証言も合わせると、13年前。松濤事件のあとですね」

 脳裏にある図式が浮かぶ。

 笹木家の4人を殺害した久能早苗がオリベ童子と目される人物を拉致し、多摩市の団地へ連れて行く。

 そして、団地に監禁されたオリベ童子は住民たちに富をもたらした。

「オリベ――オリベ童子が、団地に居着いているということですか?」

「おそらく。しかも住民全員がオリベ童子の存在を認知しているとするなら、監禁場所を秘匿される恐れがあります」

 さらに、と真鶴は付け加えた。

「最悪の場合、童子が憑依したオリベを久能早苗以外の人物が連れ去る可能性もあるかと」

 真鶴の推測を、矢上は否定できなかった。

 このまま逮捕状が請求されれば、警察は久能早苗を殺人罪で逮捕し、松濤事件の幕引きを図るだろう。

 久能早苗の逮捕に伴い、オリベが保護されるならそれでいい。

 しかし、団地の住民たちがオリベ童子を認知していた場合、彼らは全力で秘匿しようとするだろう。久能早苗を切り捨て、オリベを連れ去るかもしれない。

 そうなれば、警察がオリベを追うことはない。そもそも監禁も誘拐も、最初から認知などされていないからだ。

「久能早苗の逮捕は時間の問題です。その前に、オリベがどこに監禁されているかを突き止めなければなりません。ここでオリベと目される人物を確実に保護しなければなりません」

「逮捕状の請求はいつから?」

「早ければ、明日にでも。ただ、状況から見て久能早苗がただちに逃亡を図るとは考えにくい。室長も、こちらの捜査方針には賛同してくれています。逮捕状が発行されても、猶予はもらえる言質は取れています」

 逮捕状は早ければ、請求から半日で発行され、1週間が有効期限となる。

 期限が切れたあとも再発行はできるものの、被疑者が逃亡するリスクを高まる。

 上層部にしてみれば、今回の期限内になんとしても勝負をつけようとするはずだ。

 矢上たちに残された時間は1週間。

 真鶴の目になにが見えているのかはわからない。それでも、彼女は真実に肉薄している。峯岸もそれを信じて、単独捜査にあたり、事故に遭った。

 被疑者の逮捕は近い。だが、それだけは不十分だ。

 オリベ童子の件に決着をつけなければ、この事件は本当の意味で解決などできない。ならば迷う理由などない。

「私はどうすればよいですか、係長」

「明日より、団地の内偵に回ってください。住民には気づかれないようくれぐれも慎重に。岡崎巡査部長を同行させるかは、お任せします」

「了解です」

 矢上は承服しながら、団地の写真に目を移した。

 

 被疑者とオリベ童子はここにいる。

 追い続けてきたものとの対峙が、すぐそこまで迫っている。

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