睦子・10

 夜の中に、白い吐息が散った。

 睦子は枯れ落ちた葉を踏みしめながら、中庭を進む。外灯に照らされた遊歩道から少し外れたところを歩くだけで、辺りは闇に覆われる。

 実家の近くにある野山を思い出す。夜の山林はほとんど灯りがなく、それなのに生き物の気配がそこらじゅうに満ちていた。虫が動く音、鳥の鳴き声、獣の足跡。

 夜の中になにが紛れているのか。

 もしかすると、息を潜めてこちらを狙っているのではないか。

 幼い頃に感じたものとおなじ感情が自分の中に湧き上がってくる。しかも給水塔に近づくにつれ、どんどん膨らみ続ける。それでも歩みは止めない。一瞬でも立ち止まれば、きっと足がすくんで動けなくなる。

 やがて睦子は給水塔のそばにたどり着いた。

 間近で見る壁はあちこち塗装が剥がれており、年季を感じさせる。

 足元の地面には雑草が生えておらず、無数の足跡が残っている。普段、この近くで遊んでいる子どもたちのものだろう。

 彼らにとってトージくんは良き友だちであり、給水塔は一種の守り神のような存在なのかもしれない。

 睦子は地面を見下ろした。顔を上げることができない。天を仰ぐのが怖かった。

 みられている。

 団地に引っ越してきたときから感じる視線をひときわ強く感じる。

 まるで巨人に見下ろされる蟻になった気分だ。相手の気まぐれによって、こちらがいつ踏み潰されてもおかしくない。

 息を潜めながら、給水塔の周囲を回る。壁のどこかに扉があるはずだ。中に入るとしたら、そこから忍び込むしかない。

 問題は扉を見つけたところでどうやって入るかだ。

 当然、施錠はされているはずだ。

 誰が鍵を持っているのか。おそらく守部だろう。

 団地の管理人である彼女はある意味、この共同体の長にあたる。共同体の神であるオリベに最も近いのは守部のはずだ。

 彼女が鍵を貸してくれるとは、とても思えない。取ることもできないだろう。そもそも鍵を入手して、中に入れたところで、本当に紗代子がいるかはわからない。

 先ほどの亜紀の態度を思い返す。

 彼女は給水塔をひどく怖がっていた。オリベに対する恐怖と畏怖を、団地の住民はみな抱え込んでいるのだ。

 もしも自分が給水塔に踏み込んだことがわかれば、なにが起きるのか。住民たちがどんな行動を起こすのか、予想がつかない。

 あるいは、このまま殺されることも――

 睦子は自分の両頬をはたいた。鋭い痛みが顔じゅうに伝わり、迷いを無理やり追い払う。

 いまからやろうとしていることがタブーだろうがどうでもいい。

 紗代子を守る。それが最優先だ。

 壁伝いに歩いていた睦子はやがて、扉にたどり着く。ステンレス製の銀色の扉だ。

 まずは試しに、とドアノブを回す。

 わずかな軋み音を立てて、扉が開いた。

「なん、で……」

 普段から施錠をしていないのか。だが、それは考えにくい。オリベのもとに誰かが近づくことを、団地の住民たちは良しとしていないからだ。

 だとしたら、なぜいま、給水塔の入り口は開いているのか。

 わずかにできたドアの隙間から内部を覗き見る。しかしいくら目を凝らしても屋内は暗闇に覆われ、中の様子はなにもわからなかった。

 その代わり、扉の隙間から生暖かい空気が漏れ出ている。まるで臓器に触れたかのような生暖かさだ。鼓動が聴こえるのではないかと錯覚しそうになる。

 この給水塔は団地の中心であり、心臓なのだ。

 睦子は手にした懐中電灯の灯りを点けると、扉を開け放つと、頭上を仰いだ。

 まばらに明かりがついた各棟の部屋。その窓には、小さな人影が見える。子どもだ。団地の子どもたちがみな、一様に睦子を見下ろしている。

 睦子は子どもの視線に正面から睨み返す。

 そのまま団地の心臓へと足を踏み入れた。

 ねっとりとした空気が体中に貼りつくようにつきまとう。視界が闇に閉ざされる中、懐中電灯の灯りだけが塔の内部を照らしだす。

 塔の最下層は広間になっていた。

 広間の中心には天井から地下に埋設されたポンプへと繋がる配水パイプがまっすぐ伸びており、パイプを取り囲むように螺旋階段が設置されている。螺旋階段を昇り切った先には踊り場があり、そこから先は梯子でさらに上階へと昇る構造になっていた。

 天井は屋内に向かって湾曲している。貯水槽タンクの底部のようだ。

 給水塔は地下に埋設されたポンプと、パイプ、塔の頂にある貯水槽タンクによって構成されている。貯水槽タンクは定期的に点検が義務づけられている。螺旋階段や梯子も点検に入る水道局の職員が使用するために設置されたのだろう。

 螺旋階段へと進んだ睦子は薄いスチールの段差に足をかける。甲高い音があがり、塔の内部に反響した。手すりを握り、足音を殺しながら、慎重に段差を昇っていく。

 懐中電灯だけを頼りに、螺旋階段を回りながら塔を昇っているせいなのか。だんだん粘り気と熱さを増している空気のせいなのか。少し体重をかけるだけで、いまにも抜け落ちてしまいそうになる段差の不安定さのせいなのか。

 ぐるぐるぐるぐる、

          ゆらゆらゆらゆら、

                   ぐらぐらぐらぐら、

 昇るたびに、理性が削られる。正常と異常の境目がわからなくなる。

 それでも、階段から誤って転落したりしないよう、正気の手綱を握り続けた。

 無心で足を動かし、ようやく踊り場までたどり着くと、膝に手をついて息をした。

 足が震えている。立っているのも億劫なほどだ。

 ぽたぽたと床に水滴が垂れ落ちる。それが額から流れたものなのか、まなじりから零れたものなのか、睦子には判断がつかなかった。

 踊り場の手すりにつかまり、給水塔の底を見下ろす。

 それほど高さはないはずなのに、明かりがないせいで底が見えない。まるで奈落の底を覗き込んでいるようだ。

 吸い込まれそうな引力を感じ、慌てて手すりから離れた。

 振り返れば最後、引きずり込まれる。睦子は梯子に手をかけようとした。

 たーん たーん たーん

 最初は聞き間違いかと思った。だが、次第に音が大きくなっていく。

 足音がする。誰かが階段を上ってきている。

 たーん たーん たーん たーん たーん たーん

 反響する足音は侵入者を追い立てるかのようだ。止まっている猶予などない。慌てて睦子は懐中電灯を消した。必死に梯子を掴み、上っていく。

 梯子を上りきった先には、湾曲した廊下があった。

 左手にはおなじく曲線を描く壁がある。貯水槽タンクの外壁のようだ。どうやら外壁に沿って廊下がつくられているらしい。

 早くしないと足音の主がやってくる。

 廊下を進み続けようとした睦子は、異臭に気づいた。

 むせ返るような甘ったるい香りがする。

 オリベ祭りで嗅いだ大麻の煙を、砂糖とキャラメルで煮詰めたような匂いに、その場でむせそうになった。

 頭が締めつけられるように痛い。視界が霞み始める。

 ふらつきながら、睦子は頼りない足取りでとにかく進み続けた。

 やがて視線の先に、壁から淡い光が漏れていることに気づく。

 急いで光のもとへ近づいた。

 色あせた薄桃色のカーテンが壁に張られている。壁の一部を切り取り、あとからカーテンレールを付け加えたらしい。

 淡い光はカーテンの隙間から漏れていた。

 睦子は恐る恐るカーテンを開け、貯水槽タンクの中を覗き込む。

 そこは広い子ども部屋だった。

 湾曲した底部には床板が敷かれ、人が出入りできる平面にならされている。床板にはキャラクターの形をしたテーブルランプがいくつも置かれ、暖色の光を放つ。

 ランプで照らされた壁沿いにはひな壇が設けられ、飾り立てられた大量の玩具が妖しく姿を浮かびあげている。

 積み木でつくられたはめ絵、木彫りの車、お手玉、コマ、けん玉、縁日で売られているお面、ビー玉、特撮ヒーローの人形、女の子の人形のドールハウス、プラモデルのロボット、大きな動物のぬいぐるみ。

 甘い匂いの空気に溺れそうになる。あらゆる感覚がふわふわしてくる。

 もしかすると、ここは現実ではないのかもしれない。子どもの空想でできた楽園であり、王国である。

 そして楽園の中央には、別の区画が鎮座していた。

 床上に敷かれた8畳間の畳。四方は竹でできた御簾に囲まれている。

 まるで祭壇のようだ。


 あーそーぼー、あーそーぼー


 不意に何者かの声が響き、懐中電灯を取り落としそうになる。

 ひどく幼い声だ。

 御簾の向こう側で、もぞもぞと小さな影が動く。寝そべっているのだろうか。

 睦子の目には巨大な芋虫が蠢いているように見えた。


 あーそーぼー

 あーそーぼー

 わーたーしーとあーそーぼー


 あれが、オリベ様なのか?

 確信は持てない。ただ、あの影がおぞましくしてしかたがなかった。

 呻き声が聞こえる。御簾のそばに小さな人影が横になっていた。

 紗代子だ。

「さっちゃん!」

 名前を呼び、娘のもとへ駆け寄った。

 紗代子の体を見る。どこにも怪我はない。しかしいくら呼びかけても返事がなく、焦点の合わない目で宙を見つめている。

「お願い、さっちゃん……。返事をして……」

 睦子は紗代子を抱きしめ、なんとか起こそうとするが――

 たーん、たーん、たーん

 壁の向こうで足音がした。

 先ほどの足跡の主が梯子を上ってきたのだ。もう逃げるしかない。紗代子を抱き抱え、睦子は部屋を出ようとした。

 そのときである。

 突如、御簾から土気色の手が伸び、睦子の腕を掴んだ。氷のように冷たく、亡者の体温をしている。


 あーそーぼー


 幼い声で呼びかけながら、睦子を御簾の奥へ引きずり込もうとする。

 悲鳴をあげながら、睦子は手を振り払おうとするが、強く締め付ける手はこちらを離そうとしない。

「あらあら、珍しい。お客さんが来て、興奮しているのね」

 睦子は入口を振り返った。

 黒衣の影が部屋の入り口に立っている。先ほどのように足音を出さず、滑るように影はこちらへ接近した。

「ごめんなさいね、睦子さん。オリベ様も戯れてるだけなの。怯えないであげて」

 守部だ。

 真っ白い顔に微笑を浮かべ、睦子を見下ろしている。

 悪魔のように美しい微笑みだった。

「お、お願いします……。娘を……娘をここから返してください! 私はどうなっても構いません! だから、どうか……!」

 睦子は必死に懇願した。

 もうここからは逃れられない。

 ならばせめて、紗代子だけでも。

「それはね、できないの」

 心から悲しそうに眉をひそめながら、守部は睦子の頬を撫でる。こちらはまだ人間の体温を感じる。しかし、御簾から伸びる手とよく似た印象を受けた。

 団地の運命を掌握する支配者の手だ。

「もうすぐオリベ様はお役目を終える。新しいオリベを選ばないといけないの」

「なにを、言ってるんです……? だって、オリベ祭りはこないだ中止になって――」

「お祭りなんて、ただのごっこ」

 守部は遮ると、

「本当の引き継ぎはこれからなの。そして次のオリベとして、童子はこの子を選んだ」

 紗代子を指さした。

 守部の言葉の意味は相変わらずひとつもわからない。しかし今回は特に、睦子にとって受け入れ難い話をしているのは理解できた。

 なおも腕を掴む手は自分の側に睦子を引き寄せようとしてくる。

 まるで、こちらを地獄へと引きずり込もうとしているかのようだ。

 

 あーそーぼー

 あーそーぼー


「もう、あなたもわかってるでしょ? ちゃんと見ておくといいわ。オリベになるのが、どういうことかを」

 御簾の横に深紅の紐が垂れている。守部は深紅の紐を引くと、きゅるきゅると音を立てて御簾が巻き上がった。

 オリベ様の姿があらわになる。

「あっ……ああ……」

 睦子は言葉を失った。

 畳の上に、老婆が横たわっている。

 生気を搾り取られたかのように、肌は干からび、白濁した眼をこちらに向けている。とがった鼻はまるで魔女のようだ。全身には汚物がこびりついた白の浄衣を着こんでいた。

 歯の抜けた口が、餌を求める鯉のようにぱくぱくと動く。


 あーそーぼー

 あーそーぼー

 わたしとあそぼー


 その姿と不釣り合いな、幼い声が喉から漏れた。

 なぜか老婆はなめくじのように這いつくばったまま、立ち上がろうとしない。腰から下を覆う袴はずるずると畳を引きずる布となっている。

 そこでようやく、睦子は理解した。

 彼女は両足を切り落とされているのだ。

 これがオリベ様。

 紗代子に訪れる未来の姿――

「やだ……」

 睦子は頭を振った。

「やだ……やだやだ……やだやだやだやだやだやだっ!」

 悲鳴とも、慟哭ともつかない叫びをあげ、その場にうずくまった。

 震える睦子の身体を、守部が抱きしめる。

 泣きわめく子どもを鎮めるように、背中をさすり、頭を優しく撫でる。

「これは大切なお役目なの。みんなが繫栄していくための大事なお役目」

「そんなお役目を、なぜこの子が背負わないといけないの……他にも子どもはたくさんいるでしょ!」

「童子が気に入ったから。それ以外の理由が必要?」

 睦子はオリベと呼ばれる老婆を見た。

 どう見ても彼女は、童子ではない。

 たしか以前にも守部は言っていた。

 トージではなく、ドウジだと。

 ドウジ、童子。

「睦子さん。ヨリマシって知ってる?」

 守部の問いかけに、睦子は答えられなかったが、ヨリマシという言葉に聞き覚えはあった。

 ヨリマシ。漢字で書くと憑座。

 子どもを媒体とした、神の依り代である。

「古来より、純粋無垢な子どもは神が宿る座としてふさわしいと考えられてきたの」

「それじゃあ……オリベっていうのは……」

「そうよ。オリベ様は檻の役目を持った憑座。童子を閉じ込める檻なの」

 守部が囁く。

「我らに繁栄をもたらす童子は気まぐれで、移り気で、目を離すとすぐにどこかへ行ってしまう。だから檻が必要なの」

 甘い腐敗臭が鼻をつく。陶酔したように頭がくらくらする。

 睦子の現実感が揺らぐ。

「当代のオリベの終わりは近い。だから、古い檻を捨て、新しい檻を用意しないといけない」

 守部の両手が頬にかかった。相手の指先にかかったわずかな力に逆らえず、睦子は娘の方を向く。

 ママ、ママ、ママ。

 視界が霞む。

 紗代子の顔がよく見えない。

 ママ、ママ、ママ、ママ。

 娘の声が虫の音のように頭に響く。答えようとしても、なぜか言葉が出てこない。

 体が縛り付けられたように動かない。

 ママ、ママ、ママ、ママ、ママ、ママ。

 睦子の頬に小さな手が添えられる。まるで布に包まれた氷のように、その手は柔らかく、冷たかった。


 あーそーぼー

 

 呼びかける紗代子の顔には、目がなかった。耳も、鼻もなく、卵の殻のように全体がつるっとしている。まるで白い球だ。

 球の下半分に、横倒しになった三日月が浮かんでいる。

 この顔を、睦子は見たことがある。

 紗代子が描いた白い子どもの絵。トージくん。いや、違う。正しくは童子か。

 オリベと童子――オリベ童子。

 甘い匂いに溺れていく。

 目の前の景色がどんどん遠ざかる。

 いまが夢か現なのかもわからないまま、睦子の意識はゆっくりと途絶えていった。

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