矢上・9
年が明けて、まもなく矢上はふたたび松濤を訪れていた。
今度はペアの岡崎、渋谷署の捜査員、さらに科捜研の職員も伴っている。
渋谷署の捜査車両を運転しながら、捜査員は訊ねた。
「事件現場、取り壊すというのは本当ですか?」
「まだそこまでは。遺族の方に要請しているとは聞いています」
矢上が答えると、捜査員は安堵とも自嘲ともつかぬ笑みを湛えて、
「まあ、遅かれ早かれ、ずっとあのままというわけにはいかんですからね」
と言った。
原田副署長によれば、今回立ち会っている捜査員は14年前の捜査でも現場に臨場してきたという。彼らにもまた言葉にできない想いがあるのだろう。
今回の臨場は、事件現場を3Dデータに変換する測量を行うためだと伝えている。
実際、取り壊しの要請も行われているらしく、関係各所で調整が続いているという話がこちらの耳にも届いていた。
矢上は彼らに本当の意図を打ち明けられないことを心苦しく思う。
今回の臨場の目的――それは、オリベ童子の痕跡を見つけ出すこと。
笹木勇輔は事件の直前、オリベ童子に対する恐れを石原璃子に口にしていた。祟りなんてものを信じているわけではない。しかし松濤事件を紐解くには、オリベ童子がなにかを突き止める必要がある。
このオリベ童子とトージくんが同一の存在なのか。
祀るということは心霊ではなく、神のような存在だと捉えればいいのか。
はたして真鶴警部は、オリベ童子をどう考えているのか。
「見えてきました。現場の前に停車しますね」
「お願いします」
捜査車両が事件現場の前に到着する。
以前見た時とおなじく、門の前にはバリケードが敷かれている。灰色の塀に囲まれた邸宅は外から内部を伺うことができない。矢上たちはヘルメットをかぶり、靴にビニール袋をかぶせ、ビニール手袋を装着する。バリケードを越え、石段を上る。捜査員が持っている鍵を使い、門を開けると、邸宅の敷地内へと入った。
笹木家の邸宅は道路に対し、2メートルほどの高台を設けている。居住部の建物は道路より地盤面が高い宅地に建てられており、道路面とおなじ高さに地下のガレージを設ける構造になっていた。
建物自体は3階建ての棟が組み合わさり、真上から見ると「ロ」の形をしている。中心の空洞は中庭になっており、邸宅内部は吹き抜け構造になっている。かつては広々とした空間を有した豪邸だったのだろう。
しかし、すべては過去の話だ。
現在の邸宅跡は、建物の形自体は保っているものの、壁のあちこちに黒い煤がついている。窓ガラスは炎の熱ですべて破壊され、吹きさらしの状態だ。かつて邸宅の扉があった箇所も焼け落ち、ぱっくりと黒い口を開けている。
板が剥がれ落ちた天井から、融けた鉄骨が剥き出しになっており、コンクリートでできた壁にはあちこちひび割れが生じていた。掃き出し窓があった開口部の向こうには青い芝生で埋め尽くされた中庭があったが、いまはただ黒い土だけが広がっている。
「火災現場っていうより、まるで爆撃の跡ですね」
隣にいる岡崎がぼやく。
当時の火災調査書類によれば、邸宅の1階部分にガソリンが撒かれ、事前に仕掛けれた発火装置によって火災が引き起こされたという。
密閉された室内にあっという間に炎が燃え広がり、2階、3階へと延焼。火災の熱により、窓ガラスが割れ、流れ込んだ外気が炎を爆発的に成長させたのだ。
矢上は想像する。
荒れ狂う炎が建物を飲み込み、天井を、壁を、人を、容赦なく焼き尽くしていく様を。おかげでここに生きていた人間たちの痕跡はすべて灰塵に帰した。
証拠なんてなにも残らない。
矢上たちは焼けただれた螺旋階段を昇り、2階に向かう。燃え焦げた壁に覆われただだっ広いスペースにたどり着く。
外から吹く寒風がコートの裾をはためかせる。風が通り過ぎたあと、女の咽び泣くような音が室内に響きわたった。
かつてリビングルームとして使われていたこの場所で、4人の死体は発見された。
もともとリビングにはシャンデリアがつけられていたが、火災で崩れ落ち、4人の死体に直撃したらしい。このため、笹木家の遺体は損傷がひどく、頭部は完全に圧壊され、顎が砕けた状態になっていた。
黙って手を合わせる岡崎の隣で、矢上は階下を見下ろした。
笹木邸は中庭を取り囲むように4つの棟が取り囲んでいる。まるで邸宅の中心だと主張するかのように。
中庭にオリベ童子が祀られていたのだろうか。黒焦げになった中庭には、なんの痕跡も見当たらない。
「オリベ童子って、この家のどこにいたんですかね」
弔いを終えた岡崎が矢上に話しかける。
「見当もつかねえな。残されていた遺留品もあらかた回収されてるし」
矢上は嘆息した。
「係長はなんだっていまさら、俺たちをここによこしたんだか」
矢上たちは石原璃子に接触したのち、オリベ童子の話を真鶴に報告した。すると真鶴警部は家宅捜査の令状を取り、矢上たちに次の指令を出した。
『オリベ童子の痕跡を見つけ出してください』
無茶を言ってくれるな、とぼやきたくなる。
火災現場は火事と消火活動であらゆる物証が消える。事件捜査において、これほど鬼門とされる現場はない。
すでに14年前、大勢の捜査員たちが邸宅を捜索し、事細かに記録が取られている。現場へ赴く前、火災調査書類や捜査資料を再確認したが、引っかかる箇所はなかった。
真鶴はなにを期待しているのか。
自分たちの勘よりも、彼女の直感のほうがこの場合、役に立つのではないか。
「しっかし、向こうは派手にぶっ壊れてますね」
中庭の跡地を挟んで対面にある棟は、他の棟と比べてもさらに崩れている。2階と3階の天井に穴が開き、壁も崩れ落ちている。
地下に埋設されていた受水槽が母屋の炎に熱せられ、爆燃を起こしたためだ。
近隣の住民たちが聞いた爆発音も、受水槽の爆発が原因だという。
受水槽は高層の建物に用いられる給水方式である。地下に埋設する方式の受水槽は昭和50年に建築基準法違反とされたが、笹木邸では改装前まで使われていたらしい。大規模な改装に伴い、一般的な直接給水方式に切り替えたと記録が残っている。
たとえるなら、地下に放置された圧力鍋が爆発したようなものだ。
だが、笹木家はもっと別の爆弾も抱えていた。
オリベ童子、家の住民を畏れさせる神。
彼らはこの邸宅で、どのように過ごしたのだろうかと想像する。
貴族の街の一画に豪邸を築き、この世の春を謳歌していたのだろうか。しかし石原が話す勇輔の様子を鑑みると、なにかに怯えながら暮らしていたのはないかとも思える。
だとしたら、この家は笹木家の人間にとってなんだったのか。
ポタポタと黒い土に雫が垂れる。やがて、冷たい雨が降りしきる。
うわっ、と岡崎は声を上げた。
「屋内なのに水が垂れてきたっ。雨漏れなんてレベルじゃないでよ」
「もう天井が役目を果たしてないな」
矢上は上を見上げる。ひび割れた天井の隙間からは、さび付いたパイプが走っていた。パイプの切れ目から雫が落ちている。かつては水道管だったのだろう。
岡崎は水道管をじっと眺めると、しきりに首をひねりだした。
「なんか、この家。水道管、多くないですか?」
「そりゃ、多いだろう。全部の階に水道やトイレがついてんだから」
「そんなにトイレ増やしてどうするんですか。4人家族なんだから、1個で十分でしょ」
「ゲスト用に決まってんだろ。子どもも招いてたって言ってたじゃないか」
答えながらも、矢上もなにかが引っかかり始める。
水道管だろうか。
関係しているが、そこではない。
気になったのは、水道管が繋がっている先である。改装後、旧式の受水槽は使用されず、放置されていた。
なぜ放置されたのだろう。
改装の際、完全に破棄することもできたはずだ。破棄できない理由があったとしたら、それはなんだろう。
「なあ、岡崎。地下にある受水槽が一時的にも使われていたとしてだ。この家じゅうにある水道管に繋がっていたとしたら――」
矢上の目は、棟を半壊させた爆心地の跡を見据えていた。
「そいつは、家の中心、ってことにならないか?」
岡崎は大きく目を見開く。そして、半ば確信を抱きなら、ふたり同時に向かいの棟まで駆け出した。
半壊した塔の床にはぽっかりと大穴が空いている。暗闇に満たされた穴の向こうに、岡崎は懐中電灯の光を差し込む。
照らされた先には、四方がコンクリートの壁で囲まれた空間が広がっている。受水槽を設置するための地下室だろうが、受水槽本体はすでに消失している。
かろうじて焼け焦げた箱型のフレームと、FRP樹脂の残骸だけが、部屋に設置されていた物の存在を伝えてくる。
矢上は捜査員に頼み、脚立を持ってきてもらう。床の大穴の縁に、脚立をたてかけると、慎重に地下室へと降りて行った。
床には薄く水が溜まっている。歩くたびにピチャピチャと音がする。
あとから岡崎も降りてくるが、
「ん?」
その場でしゃがみ込み、なにかを拾いあげる。
小さな人形の腕だ。もとはヒーローのソフビ人形だったのだろう。熱で溶けかけており、表面が焼け焦げている。
「なんで、こんなところに人形の腕が?」
「爆発の衝撃でどこかの部屋にあったのが紛れ込んだとか?」
そう言いながらも、岡崎は緊張した面持ちで懐中電灯を周囲に向ける。
矢上は床に転がっている受水槽の残骸を手に取った。しかし変わった点はなにも見つからない。残されたフレームからして、受水槽のサイズは高さ、幅、奥行きがともに1・5メートルほどだろう。
「ここに受水槽があったとして、そこに誰かを閉じ込めることができると思うか?」
「あんまり想像したくないですね。冷蔵庫に監禁されて生活するようなもんじゃないですか。大人が暮らすには狭すぎるでしょ」
岡崎の言葉に同意しつつ、矢上は別の想像を働かせる。
たしかに大人が暮らすには狭すぎる。
だが、子どもならどうか。
横になることにも立つことにも支障はないはずだ。とはいえ、この地下室にも誰かがいた痕跡はない。
岡崎が拾った人形の腕も、別のところから紛れ込んだ物として説明はつく。再捜査をするには、笹木邸はあまりに長く放置されすぎたのだ。
それでも、矢上はくまなく辺りを見回した。そろそろと歩いてる途中でなにかにつまずく。倒れそうになったところを、岡崎にフォローされた。
「気をつけてくださいよ、主任。まだ足腰が動かなくなる年齢じゃないでしょ?」
「……すまん。助かった」
矢上はバツが悪い想いを抱えながら、床を見た。けつまずいたのは、受水槽を設置するための土台である。
コンクリートでつくらえた土台には、川の字になるように凸部分が直線で並んでいる。受水槽には六方面からのメンテナンスができることが義務付けられており、底面の点検もできるよう、わざと土台から浮かし、隙間をつくる構造になっている。
以前、臨場した現場で得た知識を思い返しながら、何気なく土台を見つめる。
土台の一部が変色していた。
近づいてみると、土台に亀裂が走り、内部が露出している。剥がれたコンクリートの下から、赤茶けた物が見える。鉄筋ではない。ステンレスのようだ。しかも鉄筋ではなく、ひとつの塊をなしている。
ためしに矢上は懐中電灯の端で、錆びたステンレスが露出した箇所を叩いた。雨水の吸収と、内部の鉄筋の腐食で劣化していたコンクリートは容易く削れていく。
コンクリートの破片が取り除かれ、出てきたのはステンレスの箱だった。長さ60センチほどある。
「収納ケースか? ずいぶん頑丈だな」
「これ、もしかして蓋外せませんか?」
岡崎の指摘のとおり、箱の上部には周囲を取り囲むように隙間ができている。矢上は蓋を外そうとする。錆ついているためか、うまく取り外せない。
矢上はステンレスの箱を叩きながら、錆を落としていく。少しずつ蓋が動き始め、やがて完全に外された。
開けた途端、氷のように冷たい空気が一瞬、矢上の顔を通り過ぎた。思わず、蓋を落としそうになる。
薄紫の袱紗に包まれた物体が箱に納められている。ステンレスの箱に保護されていたからなのか、布は柔らかい質感を保ったままだ。
矢上は慎重に袱紗を外し、覆われていた中身を開ける。
包まれていた物の正体に、言葉を失った。
岡崎の声が震えている。
「なんだよ、これ……。なんで、こんな物が……!」
出てきたのは、白い骨だ。
足から膝下までの脛骨である。
矢上もまた動揺していたが、一方で刑事としての自分が冷静に思考を進める。
慎重に箱の中身を手に取る。
「断面は鋭利な刃物で切られている。長さは40センチから50センチのあいだ。詳しい鑑定は検分を待ってからだが、まず成人のものとみて間違いない」
「両足を切り取った? なんで、そんなことを……」
「自分の足で逃げられないようにするためだろ」
矢上は吐き出すように言った。
「子どもじゃなかった。ここに閉じ込められていたのも、連れ去られていたのも、子どもじゃなかったんだ……」
しかし、ここにいるのが子どもでなかったとしたら、結城が証言したトージくんを始めとする子どもの幽霊は何者なのか。
オリベ童子。
トージではなく、童子。
――大事なのは中身じゃない。オリだ。オリなんだよ。
――俺を選ばないでくれ、俺を選べないでくれ。オリベになんてなりたくない、なりたくない、なりたくないんだっ!
いままで矢上はずっと、オリベ童子とトージくんを同一のものだと考えていた。
しかし、それが違うとしたら?
オリベとは、トージくんを閉じ込める檻だったのではないか。
しかも、その檻の正体は――
「……渋谷署の人達、呼んできます。すぐにこいつを鑑定に回さないと」
「ああ、頼む」
岡崎はすぐに脚立で上にあがろうとするが、そこで携帯電話が鳴った。
こんなときに、と顔をしかめながら、携帯電話を取り出した岡崎は「ん?」と首を傾げる。
「あれ? ハギーからだ」
「ハギー?」
「うちの萩原ですよ。峯さんとペアを組んでる」
矢上は、5係所属の女性刑事の顔を思い浮かべた。
警察官というには内気すぎる若い女性。うっすらと矢上は彼女に苦手意識を持っていた。距離感がわからないのに加え、娘と年齢が近いせいかもしれない。
「ちょっと電話でます」
岡崎は断ってから、電話に出た。いつもより柔らかいトーンの声で「おう、どうした」と応じる。
萩原が職務中に電話をかけてくるなんて珍しい。峯岸に負けず劣らず、実直な性格だったと記憶していた。なぜ、このタイミングで電話をかけてきたのか。
唐突に丸山の顔が頭をよぎった。
最後に喫煙室で会話した丸山の姿。なぜ、いまそれを思い出すのか。
「えっ?」
急に岡崎が声を張り上げる。背中を向けているので、顔はわからない。その後、岡崎はまるで感情を押し殺すように相槌を続け、「わかった」と返事をする。
「主任には俺から伝える。またあとで連絡するから。ん」
電話を切り、岡崎は深々と息を吐きだした。
「なにかあったのか?」
と、尋ねると、ようやくこちらを振り返る。
無表情を装っているが、岡崎の顔からは血の気が引けている。
「峯岸さんが、事故にあったそうです」
「は?」
「歩道橋の階段から転落したらしくて。意識不明の重体です」
矢上はなにも答えられなかった。
頭上から、びゅうっと風が吹く音がする。吹きさらしの廃屋を通り過ぎた風は、嘲笑うような反響音を残していった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます