睦子・9

 前回のオリベ祭りから1週間が過ぎた。

 睦子の生活は表面上、なにも変わっていない。相変わらず仕事は順調で、物事がうまく進んでいるように見える。

 しかし団地の人間たちとの交流は変わった。

 彼らは一切、睦子と関りを持たなくなったのだ。隣人の亜紀に挨拶をしても、彼女はこちらを見ようともしない。他の住民も同様だ。まるで睦子をいない者のように扱い続けた。

 問題は、住民の無視が紗代子にも及んだことである。これまでは毎日、誰かしらと中庭で遊んでいたのに、ずっと部屋に一人でこもるようになった。

 紗代子は保育園に友だちがおらず、遊ぶ相手といえば、団地の子どもかトージくんしかいない。

 自分が無視されることは耐えられるが、娘の孤立はかなり堪えた。大麻のことを警察に通報しようかとも考えたかが、結局、できなかった。

 閉塞感に息が詰まりそうになる。

 それにいまは、もっと切迫した問題を抱えていた。

「さっちゃん。ご飯、できたよ?」

 日曜日の正午、昼飯のチャーハンをつくった睦子は紗代子に呼び掛けた。返事はない。どこへ行ったのかと探すと、サンルームに座り込んでいる。

 レゴブロックを組み合わせ、なにかを黙々と作っていた。

 オリベ祭り以来、紗代子はずっとこの調子だった。トージくんと話すそぶりも見せない。まるでトージくんの姿が見えていないかのようだ。

「さっちゃん」

 もう一度、呼びかけるが、返事がない。仕方なく腕を引っ張ると、ようやく紗代子は立ち上がってくれた。

 紗代子はにこりともせず、目の焦点もあってない。まるで夢遊病患者のようだ。

 心配になり、病院にも診せたが、特に異常は見当たらなかった。睦子のほうでも、数日前に娘が大麻の煙を吸った、とは言えなかったため、正確な診断が下せていない可能性もある。

 薬物の影響も心配である。だが、おなじく大麻が使われていた半年前のオリベ祭では特に紗代子に変わった様子は見られなかった。

 もしも睦子が儀式に無理やり介入したせいで、オリベ様の怒りを買い、紗代子になんらかの障りが出てしまっているのだとしたら。

 睦子はチャーハンを食べながら、娘の様子を見守る。

 無言でスプーンを動かし、頬張り続ける紗代子に、

「おいしい?」

 と聞くと、彼女は無言で頷いた。

 こちらの言葉が伝わっていることにひとまず安堵するも、それ以上の会話は続かない。結局、紗代子はなにも言わず、チャーハンを食べ終えると、またサンルームに戻った。

 紗代子の心はずっと内なる世界に籠るようになってしまった。いや、籠っているだけならまだいい。

 先日の祭りの光景がまだ脳裏にこびつりついて離れない。

 意思を宿したかのように睦子たちを取り巻いた煙。

 もしも、紗代子があの煙を吸い込み、大麻の煙とはまったく別のなにかを、身体に侵入させてしまったのだとしたら――

 それ以上は考えるのを止めた。

 食器を洗い終えたあと、睦子は紗代子とのコミュニケーションを再度試みようと、サンルームを覗き込む。

 だが、紗代子の姿はなかった。代わりに床には、紗代子が組み立てたレゴの建造物が置かれている。円錐の上に球体が乗っかった、とっくり型のオブジェ。

 給水塔にそっくりな形をしている。

 先ほど食べた昼飯が胃袋から沸き上がりそうになる。このままオブジェを叩き壊したくなったが、どうにか堪えた。

 子どもがつくったモノを壊してはならないという倫理的な抵抗もあるが、もっと曰く言い難い感情のほうが勝っている。

 畏れの感情だ。

 腕が震えている。睦子は必死に深呼吸をした。窓の外から視線を感じる。こちらの一挙手一投足をすべて見通すかのようなまなざしが向けられている。

 中庭にそびえる視線の主には目を向けない。睦子はレゴでつくられた給水塔を置き去りにして、娘を探した。

 紗代子はすぐに見つかった。

 書斎で一心不乱に本を広げている。挿絵がついた文庫本である。『黄泉の国のアリス』。睦子が書斎の本棚にしまっていた献本を抜き取っていたらしい。まだ文字を読める年齢ではないのに、一心不乱にページに綴られた文章を目で追いかけている。

「さっちゃんにはその本、早いんじゃないかな」

 睦子は呼びかけるが、紗代子は顔をあげようとしない。たまに紗代子は本棚から睦子の著作を取り出すときがある。少年少女向けの小説であり、漫画調の挿絵がついているため、絵本の一種だと思っているらしい。

 そのたびに「まだ、さっちゃんには早い」と取り上げていたのだが、今回はいつもと様子が違う。未知のものに向ける好奇ではなく、本当に書かれている内容を理解しているように見えた。

 そんなはずはないのに。

 睦子は胸のうちに生じた不安を晴らすため、

「そっか。ママの本、そんなにハマっちゃったかあ」

 と、わざとおどけた声を出してみせた。

 紗代子はまだ本を読んでいる。

『黄泉の国のアリス』の10巻。現時点の最新刊であり、事実上の最新刊である。続きが出ることはおそらくない。

 本を読むこと自体に実害はない。ちょうど睦子もこれから仕事にとりかかろうとしていたところだった。そばで静かにしてくれるなら、それに越したことはないと思い直し、デスクに腰を下ろした。

「続きは、どうなるの?」

 紗代子が問いかける。

 えっ、と睦子が向き直ると、娘は能面のような顔でこちらを見返している。いつもは感情豊かにきらめく瞳がいまは黒いガラス玉のように見えた。

「黄泉の女王に捕まったアリスは、このあとどうなるの?」

 もう一度、問いを繰り返す。

 それはまさに10巻のラストの内容だった。『黄泉の国のアリス』は主人公のアリスが黄泉の国の支配者である黄泉の女王と戦い、敗北するところで話が終わっていた。クリフハンガー形式である。

 紗代子が内容を正確に理解していることに、睦子は驚く。筋書を教えたことなどないのに、いつのまに知ったのだろう。

 もしかして、トージくんだろうか。

 彼の年齢がどの程度なのかはわからないが、文字を読める可能性はある。

 この団地の幽霊とも神ともつかない存在が自分の本を読んでいるなど、想像もつかなかったが。

「ごめんね。その本、続きはないの」 

「どうして?」

「もう、書けなくなったから。いまのママには、物語の続きを書く資格がないの」

『黄泉の国のアリス』は、睦子が小学生の頃から温めていた話だ。つたない想像を丹念に育て、綴った小説だ。睦子のなかにいる「子どもの空想」を源泉として生まれた物語だ。

 しかし現実を思い知り、作家としての矜持が砕け散り、自分の空想を信じ切れなくなった。自分の空想に価値があると思えなくなった。

 そして夢から醒めたように、睦子のなかから「子どもの空想」は消えてしまった。

 11巻以降のプロットもすべて破棄してしまった。

 だから、書けない。

 そんな葛藤など、幼い紗代子に理解できるわけないのだが。

「うそつき」

 紗代子の声がぞっとするほど冷たかった。

 蛍光灯の灯りがちらつく。照明の点滅によって、影と明が交互に切り替わる。

「……さっちゃん?」

 睦子は目の前にいる紗代子の顔をよく見つめる。そこにいるのは自分がお腹を痛めて生んだ愛する娘だ。

 なのに違和感がある。

 目の前の少女が自分の娘だと、脳が拒否しているかのような違和感が。

「うそつき、うそつき、うそつき。書けなくなったなんて嘘。ほんとは書けるのに。うそつき、うそつき、うそつき、うそつき」

 違う。

 紗代子はこんなことを言わない。自分をこんなふうに自分を糾弾するはずがない。

 娘の姿をした何者かはゆらりと立ち上がった。

 一歩。

 また一歩と、睦子に近づく。

「続きを書いて。センセイの頭にある続きを書いて。楽しみにしてたのに。あなたは逃げた。うそつき、うそつき、うそつき、うそつき!」

「う、うそじゃない!」

 反論の言葉が口から出てしまう。

 本当に訊きたいのは別のことなのに。

「もう本当に書けないの! 私の中に、アリスはどこにもいないの! いない子の物語は書けないの!」

 それは噓偽りない睦子の実感だ。そんな実感が伝わるはずもないとわかっていながら、言い訳のように叫んでしまう。

「だったら、先生の中にアリスを連れ戻して。続きを書きなよ」

 うっすらと佐代子の唇に笑みが浮かぶ。

 いままで見たことのない、嘲りの笑みだ。

 紗代子が手を伸ばし、睦子の額に指先を押し当てる。まだ小さな指先から、逃れようのない「圧」を感じる。

 睦子は震えながら、訊ねた。

「あなた、誰なの?」

 ふふふふふふ!

 紗代子は背中を丸め、全身を震わせる。ふたたび顔を持ち上げたとき、今度はあざけりではなく、満面の笑みを浮かべていた。

 口元を三日月のように歪め、白い歯を覗かせた笑み。

「童子。あるいは、オリベ」

 佐代子の顔をした何者かは、耳元まで顔を近づけ、囁いた。

「オリベ童子」

 書斎に、怪鳥の鳴き声のような叫びがとどろく。その悲鳴が自分の喉から発せられると気づいた直後、睦子の視界は真っ暗になった。

 どれほど気を失っていたのか。

 気がつくと、窓の外は夜の帳が下りていた。書斎は真っ暗であたりにはなにも見えない。夢現の状態だが、気を失う前のことははっきりと覚えている。

「……さっちゃん?」

 睦子は娘の名前を呼びかけながら、部屋の灯りを点けようとする。すると足元で紙を踏んだ感触があった。

 訝しく思いながら、書斎の灯りを点ける。自分が踏んでいたものを見下ろし、短いを悲鳴をあげた。

 部屋一面に、大量の画用紙が敷き詰められていた。スケッチブックから乱暴に引きしたのか、どの画用紙も破れ目がある。床に敷き詰められた画用紙は巨大なキャンバスとして敷かれており、そしてキャンバスにはある絵が描かれていた。

 白い子どもと給水塔。

 頂に巨大な眼を備えた給水塔のふもとで、白い子どもが手を振っている。顔にあたる部分に目は描かれていない。その代わり、三日月のような笑みの口だけは存在している。笑みを浮かべる白い子どもの隣には、黒い子どもの姿があった。

 いつか、紗代子が保育園で描いた絵を思い出す。あの絵に描かれたトージくんと紗代子の姿にそっくりだ。

 奇妙なのは、どちらの子どもも正面を向いていないこと。白い子どもはこちらを振り返るように横顔だけを向けており、黒い子どもは完全に背を向けている。

 まるでふたりでこれから給水塔に向かおうとするかのように。

 部屋の中がしんと静まり返っている。

 誰の気配もない。いるはずの人間の気配がない。

「さっちゃん……さっちゃん……?」

 何度も呼びかけながら、部屋中を探す。リビング、子ども部屋、キッチン、トイレ、風呂。そしてサンルーム。

 どこにも紗代子の姿がない。サンルームに置かれていたレゴでつくられた給水塔も消えている。

 まさかと思い、玄関に引き返した。

 三和土から紗代子の靴がなくなっていた。

「紗代子!」

 玄関を飛び出した睦子は、慌てて亜紀の部屋のチャイムを鳴らす。何度も鳴らすと、扉が半分だけ開けられた。

 チェーンがかかった扉の隙間から、亜紀が顔を覗かせる。

「すいません。そちらに紗代子は来ていませんか? あの子が部屋からいなくなって……」

「はっ? なに? うちの子が連れ去ったとでも言いたいの?」

「ち、違うんです! ただ、あの子の居場所が知りたくて……!」

「お前んとこのガキがどこ行ったかなんて知らねーよ。子どもの面倒も満足に見れないのかい? これだから片親は」

 この女をいますぐ殺してやりたいと思った。

 しかし、アドレナリンが血流を駆け巡ったおかげで、かえって冷静になれた。

「……もしかしたら、あそこに行ったかもしれません」

 睦子は中庭にある給水塔を指さした。

 亜紀は急に青ざめた顔になる。

「教えてください。あの給水塔には、どうやって入ればいいんですか?」

「……し、知らない。そんなの、知らないっ」

「知らないわけないでしょ。だって、あそこにはオリベ様が――」

「ええい、近づくな!」

 扉の隙間から突き出された手が睦子の胸を押した。睦子がしたたかに腰を打ってるあいだに、亜紀はさっさと扉を閉めてしまう。

 すかさず立ち上がった睦子は何度も扉をノックした。

「お願いします! 開けてください、亜紀さん!」

 何度扉を叩いても、返事はかえってこない。睦子はその場にうずくまり、頭をかきむしった。まるで泥酔したかのように、眼前の光景がぐにゃりと歪む。それでも自分を見失わないよう、必死に思考の手綱を握るうち、ある考えが浮かんだ。

「……そうだ、警察」

 睦子は部屋に取って返し、110番をかける。すると、すぐに相手が出た。


 あーそびましょー

 あーそびましょー

 オリベさまとーあそびましょー


 か細い女の声が受話器から響く。すぐに睦子は電話を切った。

 代わりに別の番号をかけようかと考えるが、おそらく意味はないだろう。

 先日、堀田が死んだときとおなじだ。外の助けは呼べない。交番に駆け込むことも、おそらくできない。子どもたちの監視から逃れることはできないからだ。

 ならば、どうするべきか。

 強い風が吹き荒れる。睦子はふらふらとサンルームのほうへ出て、窓を開けた。

 巨大な眼と視線がかち合う。

 給水塔に描かれた眼をまともに見たのはいつ以来だろう。

 こちらを睥睨する眼に、睦子は正面から向き合う。

 震える心を律し、どうにか深呼吸して逸る身体を落ち着かせると、物置きに向かい、懐中電灯を取り出した。

 誰の助けも借りられない。ならば、自分で向かうしかない。

 この団地のシンボル――オリベ様がいる給水塔の内部に。

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