矢上・13
泥沼からゆっくり浮上するように、矢上は重い瞼を開いた。
全身に痛みが走る。
両手は背中に回され、手首がなにかできつく縛られている。両足もおなじだ。足首に巻かれているのはナイロン製の結束バンドらしい。拘束された状態で、ブルーシートに寝転がされている。
周りを見渡す。
そこは異様な部屋だった。
白いクロスが貼られた壁には、大小さまざまな鋸やナイフがフックにかけられている。どれも刃物には血痕がついていた。もとはリビングだったフロアにブルーシートを敷いているらしい。
なにより、ひどく臭う。
たとえるなら屠殺場に近いのかもしれない。動物を殺し、解体する場。
なぜ自分はこんな部屋に縛られ、寝転がされているのだろう。
ぼんやりした頭が次第に明瞭になり、意識を失う前の光景が脳裏に蘇ってくる。
バスケットボールを持った子ども。突然のヘッドライト。運転する追い詰められた顔の女。激突。
矢上と岡崎は捜査車両ごと激突され、気を失った。そのまま、拘束され、どこかへ連れてこられたのだろうか。
改めて周りを見渡す。
家具はほとんど見当たらない。広さは7畳ほど。キッチンが隣接しているのがわかる。ガラス戸のドアの向こうには薄暗い廊下が見えた。まだ他にも部屋があるようだ。
間取りは2LDK、あるいは3LDKか。
久能早苗が居住する団地の間取りと一致する。
あの団地にこんな部屋があったというのか。車を運転していた女性。彼女も団地の住民なのか。彼女が自分たちを拉致したのだろうか。
岡崎はどこだ?
廊下の奥から苦しげな呻き声が聴こえた。矢上は痛みをこらえながら床を這い、ガラス戸のそばに寄る。
呻き声と、ぼそぼそとした話し声が聞こえる。聞き覚えのない声だ。おそらく男性。年齢はわからない。呻き声の主は岡崎のように思える。
まだ生きている。だが、安心はできない。
どこの部屋に誰がいるのか。人数はどれくらいか。自分たちをどうするつもりなのか。状況がまったくわからない。
それにもうひとつ。まずいことに気がついた。
脇のホルスターにしまっていた警棒と拳銃の感触がない。相手に奪われた可能性がある。
助けが来る可能性はあるのか。
捜査車両が大破し、張り込み中の刑事ふたりが行方不明になった。本庁が気づいていないわけがない。団地にも捜索が及ぶはずだ。
だが、それがいつになるかはわからない。
いますぐかもしれないし、明日かもしれない。
警察が踏み込んできたそのときに、矢上たちが生きている保証はどこにもない。
大きく息を吐き、考えを巡らせる。
ある意味、これは最大の好機だ。
団地に監禁された事実を伝えられれば、警察は団地全体を捜索対象に広げる。そうなれば、この団地のどこかにいるオリベも保護できる。
最優先にすべきは被疑者の確保と、被害者の保護。
もちろん岡崎を見捨てることもできない。まずは岡崎を助け出す必要がある。そのために矢上自身の命をどう使うか。それが肝心だ。
拘束された手首をほどく方法はないか。
もがく矢上は胸ポケットにしまわれていた物を思い出す。身体をねじり、もがくうち、ぽろりとポケットから零れ出る。
ライターだ。
矢上はそのまま身体を反対に向ける。自由になっている指先だけを頼りに、床に落ちているライターを手繰り寄せ、親指に着火ボタンを引っかけようとした。
試行錯誤の末、ライターが点火する。だが、手元が見えないので、誤って火が指先に触れた。
どうにか声を出すのを堪えた。ライターを点火し続け、誤って肌を焦がす痛みに耐えながら、手首を炙り続ける。拘束が緩み始める。両手で引っ張ると、熱で溶けかけた結束バンドがいとも容易く千切れた。
自由になった手でライターを掴み直すと、さらに足首の結束バンドも焼き切る。
やっと拘束から解放され、立ち上がったそのとき、ドアがいきなり開かれた。
荒んだ目の男がこちらを呆けた顔で見ている。怒りも焦りもなく、人間らしい情動が感じられない。
背中に手を回している。ほぼ確実に凶器を隠し持っている。
矢上は何度かこういう目をした人間に会ったことがある。
すべてが面倒くさくなり、大した理由もなく倫理の一線を超えた人間の目。
「なに? ほどいちゃったの?」
男は呟いてから、ぽりぽりと頭をかいた。
矢上は距離を取りながら、問いかける。足を動かすたび、鈍い痛みが生じた。骨にヒビが入っているのかもしれない。
「あんた、団地の住民か? もうひとり、ここに運び込まれなかったか?」
こちらの質問にすぐ反応せず、何度か目を瞬かせた。それから「ああ」と呟く。
「いま、尋問してる。トージのこと、知ってるか、確認しないといけなかったから」
相手が口にした名前に、矢上は総毛だった。
「トージというのは、オリベ童子のことか?」
男が目を細める。表情は変わらないのに、全身から獰猛な気配が立ち込める。
「そっかあ。オリベ様のことも、知ってんのかあ」
わざわざ『様』をつけている。笹木家と状況はおなじだ。やはり、ここではオリベが神として祀られている。
団地ごとグルだったのだ。
「刑事に手を出して、タダで済むと思うな。警察はお前らを追い回す。徹底的にだ。わかってるのか?」
「警察?」
不思議そうに男は首を傾げる。それから、おかしそうに肩を震わせた。口元から覗く歯が欠けている。
『ひだまりの家』の卒園生である阿部達也にそっくりだ。
この男も幼少の頃から、団地で育ち、トージくんを見てきた。ヨリマシの候補として扱われ、定期的に薬物を吸わされてきた。
「無理だよ。警察なんかに、トージはやられない」
「どうして、そう言い切れる?」
「だってさ、10年以上、俺を捕まえられなかったでしょ?」
何人も解体したのにさ。
と、男は付け加える。
「トージは、自分に近づく大人を許さない。捕まえようとしたって、みんな報いを受ける。これは、絶対なんだ」
「そうか。解体してるのか」
予想はしていたので、驚きはなかった。
オリベ童子を中心とした団地には外界とは異なる秩序があるのだろう。
この男の役目はさしずめ、死体処理係か。団地内で発生した不都合な遺体をこの部屋で処理し続けてきたのではないか。
きっと、この男だけではない。
団地じゅうをガサ入れすれば、いくらでも罪状が転がり出てくるはずだ。
「だったら、なんで俺たちをわざわざ殺そうとする? 放っておいたって、報いを受けるんだろ?」
男はなにも言わない。
心底、興味がなさそうに肩をすくめる。
「どーでもいいよ。いま、邪魔されるのは困る」
男は背中に回していた右手を高く掲げた。手には黒光りする金槌が握られている。
足早に間合いを詰めてきた。
相手のほうが上背はでかい。急に大きな壁が迫ったような錯覚を抱く。
逃げ場はない。
正面から対峙するしかなかった。
男が金槌を振り下ろす。
咄嗟に矢上は身を掲げ、相手の懐に飛び込もうとした。直後、鳩尾に重い衝撃がくる。男の膝蹴りをまともに食らってしまう。意識が飛びそうになった。
「古い檻はもうすぐ壊れる。だから新しい檻にしないといけない。そいつを、邪魔する奴は許さない」
男がなにかを言っている。頭上から振り下ろされる金槌の気配を感じた。
迫りくる死を実感した瞬間、身体が動いた。
振り下ろされた男の片腕を抱える。相手の勢いを利用し、片腕を自分の脇に入れると、一気に背負った。
綺麗な一本背負いが決まる。
男は背中からブルーシートが敷かれた床に叩きつけられた。受け身も知らないのか、男は短い悲鳴をあげた。
起き上がるかと思い、身構えるが、ぴくりとも動かない。失神したらしい。
矢上は懐から手錠を取り出すと、男の両手首にかけた。さらにガムテープを見つけると、両足にぐるぐる巻いて固定する。
この拘束は正当防衛の要件を満たしているのか。過剰防衛に当たるのか。判断がつかない。
上層部への言い訳は生きて戻ったあとで考えればいい。
矢上はガラス戸を開け、廊下を進む。浴室のほうから呻き声が聴こえた。
「よお。元気か、岡崎」
「や、がみ、さん」
浴室では、岡崎が両手と両足を結束バンドで縛られていた。額から血を流している。目はとろんとしており、焦点が合ってない。口の端から涎を垂らしている。
床には空になったピストンが転がっていた。
自白剤を打ち込まれたのか。
「すんません。おれ、ぜんぶ、しゃべって。あいつ、びびって。けいじなのに」
「そうか、そうか。よく頑張った。動けるか?」
矢上は岡崎の手足の拘束を解く。肌の一部が青黒く変色し、腫れている。折れているのかもしれない。いまは無理に動かさない方がいい。
「ちょっと待ってろ」
矢上は浴室を出て、部屋を探し回った。警棒と拳銃はすぐに見つかった。
弾を抜かれている。矢上の懐から抜き取って分解したはいいが、使えないと判断したのかもしれない。
警棒と拳銃をホルスターに戻す。携帯電話を探すが、どこにも見つからない。車ではねられたとき、壊れたのだろう。あるいは逆探知を恐れ、捨てられたか。
外へ連絡する手段がない。団地を出て、助けを呼ぶしかないが、本当にここの敷地を脱出できるのか、矢上には自信がなかった。
団地じゅうの人間が敵なのだ。彼らはオリベ童子を守るためなら、どんなことでもやる。こちらの常識は通用しない。
どーん、という音が外から聴こえた。なにかと思い、矢上は窓を見る。団地じゅうの戸の窓に明かりがついている。
みな、窓から顔を覗かせている。楽器を構えている者もいた。 伴奏に合わせるように、様々な楽器が鳴らされる。ギターであり、ピアノであり、笛であり。音楽と呼ぶには単調な旋律が、団地のあちこちで鳴り響き、一体感を醸し出す。
これは祭なのか。しかし祭のような華やいだ雰囲気がない。どちらかというと、葬式に似ている気がする。
先ほどの男の言葉を思い出した。
古い檻が壊れる。新しい檻に交換しないといけない。
あれは、どういう意味なのか。
そこまで考えて、矢上はふと思い至る。
笹木邸で発見された人骨は成人女性。推定年齢は20代後半から40代とされている。足を切り落とされたのが、圭吾が笹木家に婿入りした30年以上前と考えると、現在の年齢は若くても初老。高齢者になっている可能性が高い。
古い檻が壊れる。
いまのオリベが死に、新しいオリベに童子が継承されるということなのか。
得体のしれない霊を、子どもに憑りつかせようとしている。
それはすぐに阻止しないといけない。
しかし外部への連絡手段はなく、岡崎も身動きは取れない。
どうする? どうすればいい?
焦る矢上は、無意識のうちに手首を触っていた。これだけの乱闘があっても、いまだに紐は切れずに残っている。
ご利益があるのかは正直よくわからないが。 触るうち、矢上はあることに気づく。もう一度、浴室のほうに取って返した。
「悪い、岡崎。手首を見せてくれ」
「て、くび?」
ぼんやりしている岡崎には答えず、矢上は岡崎の手首を見た。矢上とおなじように真鶴から渡された紐が巻かれている。
紐を触る。矢上の巻いている紐とおなじだ。異物感があった。
これの正体がなにかを考え、思い至ったときには、
「あのクソ係長」
自然と暴言が口をついて出てしまう。
だが、おかげで覚悟が決まった。
「必ず戻る。お前はここで助けを待ってろ。いいな?」
「やがみ、さん。どこ、いくん、ですか」
「例の給水塔に向かう。お前の手錠、借りるな?」
なにかが行われるとしたら、給水塔の付近以外にはあり得ない。
あそこがこの団地の中心なのだから。
警察手帳、手錠、警棒、そして拳銃。
矢上を警官たらしめるものを身に着けると、玄関を開け、外へ出た。
事件の決着をつけるために。
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