睦子・14
団地じゅうが重苦しい沈黙に包まれている。
守部に連れられて、睦子は遊歩道を歩く。手を引かれて、紗代子も一緒についてきているが、先ほどから一言も口を開こうとしない。
継承の儀が始まる。
紗代子が次のオリベになる。
いますぐ、この子の手を取って逃げ出したかった。しかし、結局は重い足取りで守部の後ろをついていくことしかできない。
それ以外の選択が思い浮かばない。
オリベ祭の準備をするいつものフロアには、睦子以外の人間も集っていた。大人ばかりだ。子どもはいない。
どこから持ってきたのか、フロアの隅には竹編みの行李が幾つも置かれている。
「守部さんっ」
甲高い声が響く。亜紀だ。
切迫した顔の亜紀を先頭に、ほかの大人たちは一斉に守部のもとへ近寄った。
みな、不安げな表情をしている。
「大丈夫よ。私たちは定められたとおりに、儀式を執り行えばいい。大丈夫」
守部は亜紀たちに呼びかけると、パンパンと手を叩く。
「さあ、準備を始めましょう」
すると亜紀たちはすべてを承知したように頷き、フロアの隅に置かれた行李を手にした。
睦子が戸惑っていると、亜紀が行李のひとつを押し付けていく。
「早く着替えて」
行李を開けると、中には白い浄衣と厚紙でつくられた仮面が入っている。
オリベ祭で子どもたちがいつもつけている仮面だ。給水塔に描かれた二重丸が紙に描かれている。
フロアの大人たちは、男も、女も、特に周りを憚ることなく、服を脱ぎ捨て、浄衣に着替えていく。
紗代子も着替えさせたほうがいいのだろうか。
すると別の行李を抱えた守部が紗代子の手を引こうとした。
「なにをするんですか」
「紗代子ちゃんには着物を着てもらうの。着付けは私に任せて」
睦子が抗議を重ねる前に、守部はさっさと紗代子をフロアの隅に連れて行った。ちょうどパーテーションで仕切られた空間に、ふたりは消えていく。
残された睦子はそれ以上、なにもできず、浄衣に着替え、仮面を顔に着ける。仮面には三角形に開けられた小さな覗き穴があった。
視界が一気に狭まる。
周りはほとんど見えない。
すると、フロアがいきなり真っ暗になった。視界はすべて闇に閉ざされ、なにも見えなくなる。わかるのは周囲から漏れる息遣いだけ。
みな、身じろぎひとつせず、闇の中で声を潜ませているようだ。
どーん どーん どーん
外から太鼓の音が聴こえた。か細いリコーダーの音色が後に続き、ハーモニカの音がさらに重なる。
ぽっとフロアの隅に小さな明かりが灯った。ひとつ、またひとつ、次々と明かりが灯される。ろうそくの火だ。
睦子も手燭を渡される。誰が押し付けたのかわからない。
そしてバーテーションで仕切られた間からも、ぼおっと火が灯った。
手燭を持った仮面の人物が出てくる。おそらく守部だろう。そして守部の後ろにもうひとり、少女の影。
鮮やかな紅色の振袖を纏い、下駄を履いている。仮面をつけているが、見間違いようがない。紗代子だ。
まるで七五三の衣装のようだ。こんなときでなければ、感激していたかもしれない。だが、これはいわゆる死出の衣に近い。
オリベとなるからこそ、綺麗に着飾られているにすぎないからだ。
どーん どーん どーん
太鼓の音に合わせて、守部と紗代子は歩きだす。手燭を持った仮面の人間たちも後に続く。なにもわからないまま、睦子も列についていった。
中庭に出た仮面の列はざっざっという足音を発しながら、給水塔を目指す。
睦子は母の葬式を思い出していた。
母が亡くなったのは、睦子が5歳の頃だ。生まれつき身体が弱かったらしく、風邪をこじらせて亡くなったと聞いている。
その時、近所の人たちが集まって、母の葬式を執り行ったらしい。
当時の睦子は母の死も、周りの状況もよく理解していなかった。
記憶にあるのは、喪服を来た人たちが列をなして道を歩く姿。憔悴した父が骨壺を抱え、睦子はその隣を歩きながら、呑気に潮風の感触を楽しんでいた。
紗代子はいまの状況を理解しているのだろうか。
自分が自分でなくなることの意味を、本当にわかっているのだろうか。
わかっているとは思えない。睦子にもわからないのだから。
仮面の列は遊歩道を逸れ、まっすぐ給水塔へと進む。オリベ祭と違い、他の住民たちは中庭に出てこない。
芹沢が言うには、継承の儀に立ち会える人間は限られているという。この列に加わっているのは、守部に認められた者だけなのだろう。
計画は本当に実行されるのだろうか。
芹沢は刑事ふたりの処理に取りかかっている。いま、身動きがとれる状態ではないはずだ。睦子も担ぎ手になれたのかはわからない。こうして立ち合いは許されたものの、それにどれだけの意味があるのかもよくわからなかった。
なにしろ守部はこちらの計画など、とっくに見抜いている。
それに紗代子もオリベになることを望んでいる。
仮面の列は給水塔にたどり着く。
守部は地面に手燭を置いた。列をなしていた人々は守部の燭台を中心に、円で囲み始めると、足元に手燭を置く。睦子もおなじく円に加わる。
オリベ祭で、子どもたちが行っている儀式とおなじ構図になった。
これから「かごめかごめ」を始めたとしても、おかしくはない。
だが、まだ準備はできていないはずだ。
オリベを給水塔から降ろさなければならない。
「睦子さん」
突然、名前を呼ばれた。
仮面をつけているというのに、守部は正確にこちらに向けて手招きをしている。睦子はそっと円から外れ、守部に近寄った。
「あなたを担ぎ手とします。私と一緒に、オリベ様の間に来てください」
担ぎ手に選ばれた。
睦子が恭しく頭を下げると、守部はくるりと睦子に背を向け、給水塔へと向かう。
明かりもなく、給水塔の中を進めるのだろうか。
そんな疑問を抱いているあいだに、守部は給水塔の扉を開けた。軋みながら動いた扉の隙間からは、先日とおなじ生暖かい空気が洩れた。
もう二度目だ。驚くことはない。
睦子は給水塔の中へ足を踏み入れるが、照明がないはずの内部がぼんやりとした光に照らされていることに気づく。
光の玉が宙を浮いていた。
ありていに言えば、狐火だろうか。ゆらゆらと揺れる青白い炎が、いくつもいくつも生き物のように蠢きながら、内部を照らす灯りとなっている。
思わず、睦子は宙を踊る光に見とれる。
怖いとは思わなかった。
まるで黄泉の国に迷い込んだかのようだ。
「ついてきて」
守部が中に入り、螺旋階段を昇る。足元を照らすように、狐火たちも守部と睦子の周囲を舞った。
おかげで睦子と守部は危なげなく、螺旋階段を昇り、踊り場にある梯子から貯水槽へと上がっていった。
そしてオリベのいる部屋にたどり着く。
床置きされたテーブルランプに照らされた、玩具を飾ったひな壇に囲まれた、広い子ども部屋。中央には竹でできた御簾に四方を囲まれ、畳が敷いて拵えた祭壇が鎮座している。
御簾の向こう側にいる影が蛍のように光っている。身じろぎひとつしない。狐火たちは住家を見つけたかのように御簾の奥を舞い始める。
先日見たときは、もぞもぞ動く芋虫のようだと思ったが、いまは蛹を連想させた。
守部は祭壇に近づくと、深紅の紐を引き、御簾を巻き上げる。汚れた浄衣を着た老婆――オリベが祭壇の上で横たわっていた。
オリベは白濁した目を大きく見開き、浅い呼吸を繰り返している。とても苦しそうだ。狐火たちはそんなオリベの身体を自由に出入りしている。
こちらに気づいた様子はない。おそらくオリベの目は見えていないのだ。白内障なのかもしれないと、ようやく睦子は思い至った。
守部はオリベのそばに跪く。白髪が混ざったオリベの頭を撫でた。
「おつかれさまでした」
とても優しい声で守部が告げると、オリベはどこか安心したように目を閉じ、守部の膝の上に頭を載せる。
しばらくオリベを撫で続けてから、深々と息を吐いた。
「睦子さん。そこにあるもっこを背負ってもらえる?」
見ると、祭壇の奥にはもっこが置かれていた。竹で編まれた籠はちょうどオリベがすっぽり入るほどの大きさとなっている。
言われるままに、睦子はもっこを背負う。
すると守部はオリベの脇を抱え、赤子のように抱き上げる。もっこになにかがしまわれる感触があった。
すーすーという寝息が頭のすぐ後ろから聴こえる。
恐る恐る立ち上がってみるが、ほとんど重さは感じない。本当に生きている人間を背負っているのか、疑いたくなるほどだ。
睦子はいま、オリベを背負っている。
紗代子の未来が自分の背中で静かに息をしていた。
ここで睦子がオリベを抱えたまま、ここを去れば、団地は心臓を失うことになる。
オリベと童子が支配する檻も瓦解する。
呼吸が早くなる。
「睦子さん」
守部が呼びかける。仮面をつけた彼女は本当の素顔を隠したまま、深々とこちらに頭を下げた。
「その子をお願いします」
それは本心からの言葉に思えた。守部はこちらの計画を知っているのに、睦子がここから逃げないと心から信頼しているようだ。
はい、と睦子は答える。
もう、ここから逃げられない。
逃げようという意志も挫かれてしまった。
紗代子がオリベになることを選んだ時点で、どんな未来を娘に与えればいいのかわからなくなってしまった。
もっこを担ぎ直し、守部と共に給水塔を降りる。
梯子を下りる時は、さすがに慎重になる。いくら重さを感じないとはいえ、オリベを落とすわけにはいかないからだ。
梯子の一段一段に足をかけながら、下りていく。なるべく、もっこを揺らさないように努める。
ふふ、という笑い声が背中で漏れた。オリベからこぼれた狐火たちが睦子の周囲をくるくると踊り舞う。
不意に誰かの声が聴こえた。子どもたちのざわめき声だ。
男の子、女の子。まるで学校の休み時間に紛れ込んだかのように、さまざまな子どもの声が聴こえる。
おっかあ、お腹すいた。だるまさんがーこーろんだ。いのちみじかし、恋せよ乙女。かあさま、絵本を読んで。兵隊さん進め進め。そーれ、力動山だ。がおー、がおー。鈴木くん家にあそびにいってくる!
時代も、性別も、バラバラだ。
団地の子どもではない。おそらくこれは童子の声だ。
守部は言っていた。オリベは童子であり、童子はオリベである。オリベの魂は童子と一体化する、と。いまなら守部の言葉の意味もわかる。
童子には、これまでオリベとなった者たちの魂や記憶が息づいている。子どもたちの魂の総体なのだ。
紗代子もこの声に加わるのか。娘の魂も、童子の中で生き続けるのだろうか。
拝啓、 樋川キャロル先生
梯子を下りる途中で、足を止めた。捨てたはずの名前で急に呼ばれる。
いつも『黄泉の国のアリス』シリーズ、楽しみにしています。新刊も最高でした! アリスと兎ちゃんの冒険がどうなるのか見届けるまでは死ねません。どうか先生もお体に気を付けてお過ごしください。
これは、誰の声だ? ざわめきというより、手紙を読んでいるかのようだ。
睦子の記憶になにかが引っかかる。しかし、すぐそこまで思い出しかけているのに、それがなんなのかわからずにいた。
声はふたたび聞こえなくなる。
気を取り直し、睦子も再度、梯子を下り始める。
1階に降り、給水塔の外へ出る。
入ったときと変わらず、仮面の円陣は維持されていたが、円の中心に焚き木が組まれていた。
オリベ祭とおなじように、焚火をして、みんなで『かごめかごめ』をしながら焚火を取り囲むのだろうか。
そんなことを考えていると、守部が声をかけた。
「さあ、睦子さん。オリベ様を焚き木へ置いてください」
「焚き木?」
睦子は組まれている焚き木をもう一度よく見る。
オリベ祭のときと積まれ方が違っている。平らにならされ、土台となる木の枠も組まれていた。
どうやら、もっこごと、オリベを土台に置くのが儀式の流れらしい。
睦子は戦慄した。
そのあとは、どうするのか。
こーわしましょー
こーわしましょー
オリベさまをーこーわしましょー
頭上から子どもたちの輪唱が聴こえる。
まるで睦子を囃し立てるかのように。
もーやしましょー
もーやしましょー
オリベさまをーもーやしましょー
睦子はようやく、オリベ祭の意味を了解した。
あれは継承の儀の見立てであり、ごっこ遊びだったのだ。
焚き火は、燃やされるオリベの見立て。子どもたちは火を囲み、オリベから解放された童子に次のオリベを選んでもらう。
これから、睦子たちはおなじことを行なう。
違いは、オリベを生きたまま燃やすこと。
オリベが燃え、肉体の檻から解放された童子は、焚火の煙と同化し、紗代子の中に入り込む。
そして睦子は、次のオリベとなる。
仮面を被った者たちが一斉に睦子を見ている。
無言の視線が睦子に行動を促す。
早く、早く、オリベを置け。オリベを燃やせ。がちがちと歯の奥が鳴る。足が竦んで動けない。
震える睦子はその場で唯一、仮面をつけていない者と目が合った。
振袖を着ていない紗代子がまっすぐに睦子を見ている。まるで母親の真意を問いかけるかのように。
どうすればいいのか。
迷っていた、そのときである。
枯れ葉を踏む足音が聞こえた。何者かが円陣に入ってきた。
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