矢上・3
休暇日に訪れた渋谷は喧噪に包まれていた。
秋風を感じながら、矢上は群衆をかきわけ、道玄坂を上っていく。
坂を上るにつれ、喧騒さは次第に薄れていき、猥雑な街並みは閑静な住宅街に装いを変えていった。どの家も高い塀に囲まれ、俗世と隔絶された空気を漂わせている。
松濤は渋谷区の高台に位置する住宅街だ。医者の一族や実業家、政治家、芸能人といった人間が集うこともあり、一部の同僚はここを貴族の街とも揶揄していた。
そんな貴族の街の一角に、ある廃墟がある。
もとは3階建ての豪奢な邸宅だったが、青い防護シートに覆われ、外からでは全貌が見えない。周囲を囲む灰白色の塀は、無造作に伸びた庭木の枝に侵食されている。
邸宅の門へと続く石段の前には立ち入り禁止のバリケードが設置され、入り口に掲げられた「笹木」の表札が虚しく掲げられている。
邸宅面積は300坪。時価20億の豪邸もいまや見る影もない。
高級住宅街の景観を著しく損ねる、廃墟を放っておくと治安にも悪影響がある、と地域住民からも取り壊しの要請がたびたび上がっているとは聞いている。
しかし解体費用だけでも数千万の金がかかるらしく、土地の買い手もつかないため、14年経ったいまも放置されているという。
投資家だった笹木圭吾は証券業界では名前が知られた人物だったらしく、圭吾が購入した株券は必ず急成長を遂げると言われていた。
だが、笹木圭吾の死後、保有していた資産は株も含めて軒並み暴落。投資家たちのあいだではササキショックとまで呼ばれたという。
まさに諸行無常の響きありである。
矢上は廃屋を見つめながら、松濤事件の概要を改めて思い返す。
捜査本部が立ち上がった直後、まずは近隣住民からの聞き込みが行われた。
そこで、ある女性が重要参考人として浮上してきたのだ。
証言したのは、笹木家の向かいに住む隣人の主婦である
「ちょうど事件が起きた日の昼間でしたね。家の表で子どもが騒ぎ出しまして。それを咎めようと外に出た時、笹木さんのお宅を訪ねていく方を見かけたんです」
若い女性だったという。
つばの広い黒の帽子を被り、サングラスをかけていた。人相はわからないが、振る舞いはとても若々しく、20代前半ではないかと目撃者の主婦は思ったらしい。
彼女は笹木家のインターフォンを押し、そのまま家の中に入ったらしい。
お昼を過ぎたあと、午後2時頃。その後、夕方5時頃になってガレージが開けられ、プリウスが出ていくのが目撃された。
誰が運転していたのかははっきりと見ていない。しかしサングラスに、リボンがついた束の広い帽子を被っていたことから、あの訪問客の女性だと思ったらしい。
プリウスは悠々と笹木家の邸宅を去っていった。その日の深夜、火災が発生した。
死体の損傷から死亡推定時刻ははっきりしていないが、火災前に死亡していたのは確実と考えられる。
また女性が邸宅に入ったあと、勇輔は友人とメールを交わしているが、午後3時15分を最後に連絡は途絶えた。
さらに現場からは長女の瑞穂が所有していた白のプリウスがなくなっていた。
このことから捜査本部では、犯行時刻は午後3時15分以降から、帽子の女性が邸宅を去った夕方5時頃までのあいだと結論づけた。帽子の女性を重要参考人とし、徹底的に彼女の足取りを追った。
目撃証言、防犯カメラの映像から、女性が渋谷駅から徒歩で笹木家を来訪したことが判明している。だがそれ以上の前足――犯行前の行動を遡ることはできなかった。
後足――犯行後の行動解析はさらに困難を極めた。
こちらも目撃証言および各家に設置された防犯カメラから、新宿方面へ出たことはわかっているが、白のプリウスなど珍しくなく、高速道路の使用を避けたのかNシステムにも引っ掛からなかった。
笹木邸は厳重なセキュリティシステムが施されており、塀をよじ登るなど不当に侵入した形跡は発見されていない。
14年経ついまも、警察が突き止めている状況に変化はない。
ここに、トージくんという存在はどう関わるのだろう。
彼はいったい何者なのか。そもそも本当に生きている人間なのか。
事件現場には、一家4人の遺体しか発見されなかった。自然に考えるならば、そんな人間は最初からいなかったと結論付けるのが普通である。
それでもトージくんの実在を前提とするなら、かつ事件当時もトージくんが笹木家の邸宅にいたとするなら――トージくんは事件現場から連れ去られた可能性がある。
当時、捜査本部で議論になっていた事柄のひとつに、プリウスの件があった。
なぜ帽子の女は現場を去るのに被害者の車両を使ったのか。
邸宅にはプリウスの他、勇輔が所有する大型バイクが2台、さらに圭吾所有のメルセデスベンツが置かれていた。しかし容疑者はこれらの高級車には目もくれていない。
必要なのは車だった。しかもすぐに足がつく高級車ではなく、人目につかない大衆車である必要があった。
考えられる理由は、運搬である。
容疑者は笹木邸からなにかを運び出した。そのために車を必要としたというのだ。
この推測は捜査本部でも有力な線として支持されたが、めぼしい手がかりはなにも見つからなかった。笹木邸は多くの家財が焼失していたため、なにが失われたのか、わかりようがなかったためだ。
しかし帽子の女が運搬したのがトージくんだとしたら、どうなるか。
気になるのは両者の関係性である。
14年前、防犯カメラを壊した子どもたちはトージくんに唆されたと証言している。これにより、警察は帽子の女の後ろ足に繋がる手がかりを失った。
このことから、トージくんと帽子の女は共犯であるという見方が成り立つ。
しかし、そもそも子どもたちが話したトージくんと、結城が証言したトージくんは本当に同一人物なのだろうか。
小学生の頃に会ったという結城の証言が正しければ、事件発生当時、トージくんは
結局、本当にトージくんが実在したのかという一点に問題の焦点は尽きる。
「あのー、すいません」
いきなり声をかけられた。振り返ると中年の女性が恐る恐るこちらを伺っていた。
女性の顔に、矢上は見覚えがあった。
「ひょっとして
「やっぱり矢上さんですよね! 笹木さんの事件を調べてた!」
湯川。笹木家の邸宅の向かいに住む隣人。
事件当時、邸宅に入る帽子の女性を目撃したのも彼女である。
「その節はずいぶんお世話になりました。しかし、よく私の顔がわかりましたね?」
「わかりますよー。人様の顔を覚えるのが、私の数少ない取り柄なんですもの。生の刑事さんなんてお会いするのは初めてでしたし」
当時、彼女から目撃証言を聞き取ったのが、矢上だった。
証言の裏を取るため、彼女や彼女の息子から何度も話を聞きに行ったのだ。湯川の顔には経過した年月が刻まれているが、上品に笑う仕草は昔と変わらない。
「
「うちの息子のことも覚えてくださったんですね。あの子はもう大学を卒業して、アメリカにいます。外資のIT企業に入っちゃって」
「そうでしたか。もう社会人なんですね……」
時の流れは残酷だ。
進む者と停滞する者を容赦なく浮き彫りにする。そして人は少しずつ、過去に起きた出来事を忘れていく。
「本日はどうしてこちらに? もしかして、笹木さんの事件でなにか?」
「いえ、所用で通りかかっただけです。私はもう捜査の担当を外れていまして」
「そうですか……」
湯川は頬に手を当てながら、向かい側の廃墟に目を向けた。
「犯人はいまも逃げたままなのですね。あの時、私がもっと気をつけていれば……」
「とんでもない。こちらこそ証言していただいたのに、検挙できず申し訳ない限りです」
「でも、あの日を思い返すたび、もっとよくお顔を見ていれば、と思ってしまうんです。私、人の顔を覚えるのは得意ですし」
ぽつりと、湯川は言った。
「あの時も、こんなふうに花壇に水をあげていたんです。そしたら、あの女の人が笹木さんの家に入っていこうとするのが見えて……」
何度も記憶を反芻したのだろう。
湯川の視線は、14年前の女性の姿を追いかけていた。
「風が吹いて、女性の帽子が飛ばされたんですよね?」
「そうなんです! その時に帽子を拾おうとしたんですけど……」
ある意味、そのときこそ、重要参考人の顔を記憶できる千載一遇のチャンスだった。
しかし、ここでも不運は起こる。
「当麻が急に出てきて、私の袖を引っ張ったんです。気持ちが悪いって、青白い顔をしてたものだから、私、動転してしまって……」
息子の様子を聞きながら、もう一度湯川が女性の方を見た時には、彼女はインターフォンを鳴らしたのち、家に入っていくところだった。
それが帽子の女を見た、最後の瞬間となる。
「たしか、そのあとで当麻くんを病院へと運んだんですよね?」
「はい。それなのに着いた途端、ケロッと治ったんです。本当に人騒がせな子で……」
「その時、おかしなことはありませんでしたか?」
「おかしなこと?」
困惑していた湯川の目が不意に、戸惑うように揺れた。
その一瞬を矢上は見逃さなかった。
「直接、事件に繋がることでなくてもいいんです。湯川さんが気になってることを話していただければ」
「あの、本当に笑い話みたいなことなんですけどね?」
どこか恥ずかしそうに、湯川は答えた。
「病院へ連れて行く時、当麻ってば変なことを言ってたんです。子どもの幽霊を見たって」
子どもの幽霊、という言葉に、矢上は鳥肌が立った。
まただ。また、得体のしれない子どもの影がちらつき始めた。
「それは、もしかして、トージくんという名前の幽霊ですか?」
「えっ?」
なぜか湯川は大きく驚きながら、
「さあ、名前まではわからないですけど」
と、首を振った。
反応に不自然さを抱くが、トージくんの名前自体に心当たりはないらしい。
「私も幽霊なんて信じてないですけど……あとで思い返したとき、ザシキワラシみたいだなって思ったんです」
「ザシキワラシ、ですか?」
「はい。ほら、よく言うじゃないですか。家に住み着くと幸運になる子どもの妖怪! 週刊誌でも『ザシキワラシに去られた家』なんて失礼な書かれ方をされてましたし。その影響だと思うんですけど」
たしかに、そんな記事の見出しを見た覚えがある。
ザシキワラシ。
子どもの姿をした妖怪で、居ついた家に富と幸運を呼び込むと言われている。その一方で、ザシキワラシが去った家はあっという間に没落するらしい。
当時はただの与太話と捉え、歯牙にもかけなかったが、いまは別の考えが浮かんでいた。
犯人に連れ去られたトージくん。
ザシキワラシが去った家。
もしも、もしも、トージくんの正体がザシキワラシなのだとしたら――
すぐに矢上は自分の想像を打ち消す。
いくらなんでもそれは推論ではなく、ただの妄想だ。妖怪なんて超自然的なものを持ち出すのは、あまりに馬鹿げている。
「それにしても、トージくんかあ」
なぜか湯川は感慨深そうにつぶやいた。
「こないだ、お見えになられた刑事さんもおなじことを質問されてましたね。なんのことかはわからないけど。事件に関わる大事なお名前なんですね」
「刑事さん?」
矢上はついオウム返しに尋ねる。
松濤事件の捜査本部は長らく、解散状態となっている。捜査本部の責任者は原田だが、先日の様子からして積極的に捜査を続けているようには見えなかった。
「はい。3日前くらいかしら。矢上さんとおんなじように笹木さんの家を眺めてる方がいましてね。私に気づいて、声をかけられたんですよ」
と、湯川は向かいの廃墟を指差した。
「その刑事さんからも訊ねられたんです。トージくんという子どもが笹木さんちにいなかったか、と。なんのことかはわからなかったんですけど」
矢上は思わず息を呑みそうになった。
警察関係者でトージくんのことを知っているのはふたりしかいない。
聴取に立ち合った自分と原田。だが、原田がわざわざ捜査を行うとは思えない。
それに正式な捜査であれば、ペアで行うのが通常のはずだが、彼女の口ぶりからして、現れたのはひとりのようだ。
いったい何者なのか。
湯川が狼狽えたように恐る恐るとこちらを伺う。
「あの、なにかまずかったのでしょうか? その方、警察手帳も見せてくださいましたし、大丈夫だと思ったんですけど……」
「その刑事はどんな人でした?」
「女性の方でしたよ。綺麗な顔立ちをしてて……。たしか警部さんで、お名前はなんだったかしら」
「警部? その人は警部だったんですか?」
「はい。警察手帳にも書いてありましたよ」
警部といえば、矢上よりも階級が上である。現場に乗り出すことはなく、捜査本部の指揮を取ることも多い。
それに女性の警部。
ひとつだけ、思い当たる名前がある。
「ひょっとして、その人は
「そうそう、真鶴さん! 真実の真に、鶴の鶴で、真鶴さんです」
矢上はゆっくりと息を吐いた。
真鶴警部。
警視庁捜査一課・特命捜査対策室第五係の係長。
矢上に報告書の提出を命じた、直属の上司である。
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