睦子・4

 武藤一家の葬式から数日後。

 睦子は、駅前にある不動産会社の支店を訪れていた。

「ですから八津川様。以前、あの部屋で亡くなった方の情報をお伝えすることはできないんですよ」

 担当者である田中はいつもどおり、気弱な笑顔を浮かべている。

「そもそも、もとは武藤様が住んでいた以上、あの部屋は心理的瑕疵のある物件とは認められません。よって告知義務は発生しないんです」

「すぐに部屋を引き払いたいとか、じゃあないんです。住民として団地の状況を知りたいだけなんですよ。それでもお答えできませんか?」

「申し訳ありませんが、そういった相談は管理組合で相談していただければ」

 そんな無責任な、という言葉が出かかる。

 多摩ファミリアコーポは管理会社ではなく、管理組合による運営が行われている。

 つまり団地内に問題が生じた時、外部に相談できる機関がないことを意味していた。

 念のため、睦子はあのことを訊ねる。

「トージくんのことはご存知ですか?」

「トージくん?」

 田中は首を傾げるばかりだった。

 結局、なにひとつ手がかりは掴めず、睦子は支店を後にした。

 あの団地はおかしい。

 もしそれが本当なら、団地の自治を司る管理組合にも相談はできない。

 帰る気にもなれず、駅前を歩いていると、1軒の古書店が目に入った。

 個人が経営しているであろうこじんまりとした古書店で、狭い店内にはギリギリまで本棚が敷き詰められている。

 店の軒先にも小さな本棚が置かれており、こちらでは百円均一で投げ売りされた古書が揃えられていた。一昔前のビジネス書や、かつてのベストセラー小説が並ぶ列を上から順番に眺めていた睦子はある列に目を留めた。

 樋川ひかわキャロルの『黄泉の国のアリス』シリーズ、全10冊。綺麗に帯までついている。奥付をみると、すべて初版だった。最終巻の帯には「アニメ化決定」というコピーが印字されている。

 樋川キャロルは睦子のかつてのペンネームである。『黄泉の国のアリス』は睦子が子どもの頃から頭にあった空想を練り上げ、綴った物語だった。

 あの頃は、ただ小説の執筆だけに没頭すればよかった。

 編集部には内緒で付き合っていた担当編集者も、妻とは別居状態であり、近々離婚するつもりだと話していた。

 シリーズが完結したら、結婚しよう。

 相手のそんな甘言をすっかり信じ込んでいた。愚かだった。

 結局、担当編集の妻が編集部に怒鳴り込んだことで、不倫が発覚した。

 乗り込んできた妻のお腹には第二子が宿っていた。離婚どころか、別居自体、最初からしていなかったのだ。

 シリーズは刊行中止となり、アニメ化の企画も消えた。噂を聞いた読者からは誹謗中傷の手紙が届くようになり、気がつけば、樋川キャロルの名前で本を出すこともできなくなっていった。

 いまはペンネームを変えて、なんとか文筆業を続けている。だが、もう昔のように自分だけの空想を信じて筆を執ることはできない。

 それになにより、多くの人を裏切った罪は消えない。 

 押し入れの奥にしまわれたファンレターを、睦子が見返すことはもうないのだ。

「お客さん。あんまり店の前に突っ立って入れると迷惑なんだけど」

 睦子は我に返った。

 はたきを持った店主が軒先に出てきたらしい。睦子はすぐに謝り、本棚の前からずれた。

 迷惑をかけた詫びに1冊くらい買っておくか。そのまま睦子は古書店の中に入った。インクの匂いを嗅ぎながら、黄ばんだ背表紙の本を眺める。

 本棚はジャンル別に仕分けされている。心惹かれる本はないか、と棚に刺された背表紙を眺める睦子はある本棚の名前で足を止めた。

『遠野のザシキワラシとオシラサマ』、『妖怪学講義』、『ザシキワラシの話』、『民間信仰辞典』、『昔話・伝説小事典』。

 本棚のある列がごっそり妖怪や幽霊に関する民俗学の専門書で埋め尽くされている。他の本棚とは様相が異なるため、妙な存在感があった。なぜか書名にはザシキワラシを取り上げたものが多い。馴染みがあるのは『遠野物語』の文庫本くらいだ。

『遠野物語』は遠野郷の民話を集めた説話集である。ザシキワラシも、もともとは岩手県遠野郷で語られた神の一種だった。

 ザシキワラシは旧家の座敷に12、3歳頃の子どもの姿として時折、人々の前に姿を現す。ザシキワラシが居ついた家には富がもたらされ、しばしば人を助けてくれるという。

 だが、遠野に伝わるザシキワラシの逸話には、非常に恐ろしいものもある。

 有名なのは、山口孫左衛門の話だ。

 孫左衛門の家には、童女のザシキワラシがふたり、居ついているという噂があった。しかし、ある年、ザシキワラシは揃って孫左衛門の家を出て、離れた村に住む立派な豪農の家に行ってしまった。

 それからほどなくして、孫左衛門の家は主従ともども毒キノコにあたり、1日のうちに死に絶えたのである。家の主が亡くなったのち、親類を名乗る者たちが家に押しかけ、生前に貸しがあるといて、家財を残らず持ち去った。

 村の長者だった山口孫左衛門の家は一朝にして跡形もなくなってしまったという。

 富とは人から人へと循環する。このため、ザシキワラシは一ヵ所に留まらず、必ず別の家へと移動する。そういう意味では、ザシキワラシが現れた家はいずれ滅ぶことが宿命づけられているともいえるかもしれない。

 睦子はじっと書名に記された「ザシキワラシ」の文字を見つめる。

 ザシキワラシ、漢字では座敷童、あるいは座敷童子と記す。童子という字は仏や菩薩、明王の眷属にもつけられる他、酒呑童子や茨木童子など、鬼の名称にもつけられている。

 童子、ドウジ。トージ。

 頭の奥がじんと痺れたような感覚があった。なにか根拠があるわけじゃない。ただ言葉の響きが似ているだけ。

『遠野物語』を棚から取り出した。『遠野物語』の古書には何度もおなじ個所を読み返したのか、ページに折り目がついている。ザシキワラシの話が記載されたそのページには鉛筆の手書きでこんなメモが記されていた。

【トージくんのことか?】

 睦子は声をあげそうになった。

 すぐに『遠野物語』を手にし、カウンターにいる店主のもとへ持っていた。

「この本、誰が持ち込んだか覚えていますかっ」

「ん? いやあ、そういうのは教えちゃいけない決まりになってんだけど――」

「お願いします。教えられる範囲で構わないので!」

 店主はめんどくさそうにしながらも、「ちょっと待ってろ」と言って店奥に引っ込んだ。

 取引の記録を確認しているのだろう。しばらくして店長は台帳を手に戻ってきた。

「本を引き取ったのは3年前だね。他の蔵書と一緒に引き取ったんだ」

「他の蔵書というのは、あの列にある本ですか?」

「たぶん、そうだと思うが」

「それって、多摩ファミリアコープの人ですか?」

 店主は驚いたように目を見開く。そのまま慌てたように顔を伏せた。

「そういう勘繰りは勘弁してほしいんだがなあ」

「教えてください。本を売った人はどうしてるんですか? いまもあの団地に住んでるんですかっ!」

 睦子があまりに強く食い下がったためか、店主は観念したように答えた。

「いまはいないはずだよ。部屋を引き払うから、もうこの本はいらないんだって、引き取ったんだよ。この手の専門書ってのは値が張るからね。もったいないとは思ってたんだが」

 武藤家とおなじだ。あの団地から引っ越した人間がいたのだ。

「その人が、引っ越したあとのことはわかりますか?」

「そんなの答えられるわけがないだろ」

「名前や住所が知りたいんじゃないんです。その人が無事かどうか、それだけでも……!」

 店主は睦子をじろじろと眺める。

「もしかして、お客さん。あの団地の人かい?」

 店主が尋ねる。隠す理由もないため、睦子は頷くしかできなかった。

 すると店主は「そうか」と力なく返事をする。

「悪いことは言わん。あの団地から出ないほうがいい」 

「なにか知っているんですか?」

「知ってることはない。ただ、噂で聞いてるだけだ」

「噂?」

「あそこは、出たら死ぬ団地なんだと。商店街の連中はみんなそう言ってる」

 冗談を言っている雰囲気ではない。

 睦子が怒る前に、店主は広げた手のひらを掲げてみせる。親指だけを折り曲げた手は「4」の数字を示していた。

「聞いてるだけで4家族が死んでる。全員、あの団地から引っ越した直後にだ。だから、あの団地から出ようだなんて思うな」

 頭をがんと殴りつけられた衝撃に襲われた。答える睦子の声が、震える。

「でも、噂、なんですよね?」

「少なくとも、この本を売った人は亡くなったよ」

 店主は言った。

「査定に時間がかかってね。振り込みの相談のために、転居先に連絡したんだよ。そしたら、遺族の方につながってね」

 団地を転出した書籍の持ち主は転居先に入ってまもなく、家族ごと亡くなったという。

 死因は食中毒だった。


 ◇◆◇


 そこから先、どうやって帰ってきたのか思い出せない。

 中庭から聞こえる子どもたちの笑い声が、いまはとても忌まわしく聞こえる。

 彼らにも、トージくんが見えているのだろうか。

 田中も以前言っていた。

 多摩ファミリアコーポは滅多に空き部屋が出ないと。その理由が人気だからすぐに部屋が埋まってしまうのではなく、みなこの団地から出られないせいなのだとしたら。

 喉がひどく乾いた。

 そろそろ娘の迎えの時間も近い。

 化粧をし直さなくては。

 テーブルから立ち上がった睦子は、ふと視線を感じた。

 部屋を見回す。リビングにも、和室にも、キッチンにも、人の姿はない。この部屋にはいま、自分以外に誰もいないはずだ。

 なのに視線を感じる。どこから?

 顔を上げた睦子はサンルームのほうへ視線を向けた。

 給水塔の頂に描かれた二重丸と窓越しに目が合う。

 もう、ただの模様だとは思えなかった。

 眼だ。

 こちらを監視し、睥睨し、嘲る眼だ。

「あなたが、トージくんなの?」

 睦子が呟いた途端、中庭に響いていた子どもたちの笑い声がぴたりと止んだ。

 一瞬の静寂に包まれたのち――


 あっははははははははははははははははははははははは!


 哄笑の渦が団地じゅうに響き渡る。

 わけがわからないまま、サンルームに寄った睦子は絶句した。

 子どもたちが、ベンチに腰かけている堀田が、402号室を見上げている。彼らの視線がまっすぐ睦子を射抜いている。

 睦子は悲鳴をあげ、倒れ込んだ。

 もうダメだ。ここにはいられない。紗代子を連れて逃げないと。

 どこへ?

 どこでもいい。早く、この檻から出ないと。

 財布を手にし、ハンドバッグに詰めると、着のみ着のまま、玄関を開けた。

「こんにちは、八津川さん」

 扉を開けた先に黒衣の女が立っていた。紙のように真っ白な肌の顔に細い三日月を浮かべている。

「守部、さん……」

 管理組合の理事長を務めている女性。これまですれ違ったときに挨拶する程度で、きちんと話したことがない。

 その守部が、なぜこのタイミングで来訪してきたのか。

 彼女には、トージくんが見ているのだろうか。

「どうして、うちに……。あなたも、トージくんが、見えて……」

「案内が遅れてごめんなさい。今日はこれを渡しに来たの」

 守部が手渡したのは一枚のチラシだった。

 給水塔と、白い子どもが描かれたチラシにはこう記されている。

 

【第26回オリベ祭り】


 オリベ。先日、堀田が口にしていた言葉だ。

「トージくん、じゃないの……?」

「残念ながら、私たちにドウジは見えないの」

 守部が優しく声をかけた。頭に仕込みこむような、澄んだ声だった。「ドウジ?」とオウム返しに繰り返すと、守部はゆっくり頷く。

「本当は童子どうじなんだけど、トージのほうが名前として呼びやすいからね。そっちのほうが定着してしまうみたい」

「童子」

 古書店で見たザシキワラシの本を思い出す。座敷童子の童子。

 さまざまな感情や想いが泡のように沸き上がっては消え、手足がしびれたように動かない。守部の言葉だけが伽藍洞になった頭に響く。

「童子と戯れる資格があるのは無垢なるわらべだけ。俗世にまみれた私たちにできるのは、オリベ様を祀ることだけ」

 不意に冷たい感触が顔にあてがわれた。守部が手を伸ばし、睦子の頬を撫でる。生者の体温ではない。まるで亡者の温度だ。

「お祭りになれば、きっと八津川さんにもわかるわ」

 冷たい指で睦子の輪郭をなぞりながら、守部は囁く。

「オリベ様がいる限り、私たちの繁栄は約束されているのだから」

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