矢上・4

 矢上が真鶴警部について知っていることは少ない。

 警察官僚の父と兄を持ちながら、自身はノンキャリの道を歩んだ異端の警察官。

 その出自ゆえに周りからは煙たがられながら、卓越した捜査能力で数々の事件を解決し、異例のスピードで出世を果たした天才。

 これまで面と向かって話をしたことはなかった。必要最低限のコミュニケーションで事足りていたからだ。

 しかし、いまはそうはいかない。

 なぜトージくんの話に関心を示しているのか、理由を聞きたかった。

 そんな時に限って、真鶴は出張のため不在となっていたが。

峯岸みねぎし萩原はぎわらペア、ただいま戻りました」

 第五係の部屋に峯岸巡査部長と萩原巡査長が戻ってくる。

 峯岸は40代半ば、中年の貫禄が染み付いたベテランで、萩原は20代後半の年若い女性警官である。

「お疲れ、峯岸。一係の応援、無事に済んでよかったな」

「いえ。私は特に。萩原が頑張ってくれましたから」

 峯岸が水を向けると、萩原は恐縮したように「そんなことないです」と小声でつぶやいた。

 もうベテランといってもいい年代だが、若手を委縮させず、柔らかいコミュニケーションができるのは峯岸の長所である。自分には真似できない。

「あ、係長、いまいないのか。報告書をあげとこうと思ったのに」

「俺もだよ。こないだ提出した報告書の返事が全然きやしねえ。なにを考えているんだか、うちの天才上司は」

 矢上がぼやくと、峯岸は苦笑した。

「ホントですよ。どうもあの人は昔から他人の使い方が下手なんですよね」

「お前、係長と付き合い長いのか?」

「新宿署にいた頃、ペアを組んでました。もうかれこれ10年近くの付き合いです」

 つまり現場にいた頃の真鶴をよく知っているということだ。

 それに峯岸は14年前、松濤事件の応援に駆けつけていた。

「峯岸、今夜暇か?」

「あ、はい。もう今日は報告書を書くだけですけど」

「ちょっと付き合ってくれ。話したいことがある」

 矢上は手でお猪口をつくり、あおる仕草を取る。峯岸は首を傾げながらも「了解です」と応じた。


 ◇◆◇


 峯岸が押さえてくれた焼き鳥屋に入ると、障子に囲まれた座敷の個室に案内された。

「すまんな。急な誘いで」

「いえ。主任と飲むのも久しぶりですからね。最近は子どもも大きくなって、子育てもひと段落してきましたから」

「もう雄太郎ゆうたろうくんも中学生だったか?」

「はい。すっかり声変わりして、背も大きくなってます。飯を食う量がえげつないですね」

「ケンカしたら負けそうになる?」

「さすがにそれは。こちらも現役の警官ですから」

 話しながら、峯岸は寂しそうに目を伏せる。

「ただ、少し後悔はしています。家庭を大事にしてたつもりですが、あんまりにもすぐ子どもが早く大きくなってしまって……。父親としての役割を、自分は果たせていなかったんじゃないのかと……」

「人の親の苦労は尽きないな」

 矢上は娘のことを思い返す。感傷を紛らわせるためにビールを呷った。

「自信があろうがなかろうが、子どもと奥さんは大事にしとけ。警察にしがみついたって、組織はなんにも助けちゃくれないよ」

「それ、主任が言います?」

「俺だから言うんだ」

 矢上は笑ってみせたが、うまく笑えたのか自信はなかった。峯岸はといえば、妙に真剣なまなざしをこちらに向けている。

 家庭の事情を話したことなかったが、聡い男なので、なにかを察しているのかもしれない。場の空気を変えるため、わざとらしく矢上はせき込んだ。

「ちょっと聞きたいことがあってな。ここ最近の係長の動きで、なにかおかしなことはなかったか?」

 峯岸は怪訝そうな顔でしばらく考え込むが、すぐにそれは苦笑へと変わった。

「どうでしょう。思い当たる節が多すぎますね。あの人は超がつく秘密主義者ですし」

「警官はだいたいそうだろ」

「係長のは少し違います。秘密を隠しているというより、見てる世界が違うんです」

 矢上は峯岸の言葉の意味を考える。

 しかし、いくら考えても、どういう意味なのか掴みかねた。

「それは凡人と天才では見てるモノが違う、って話か?」

「うーん、天才っていうのか……」

 峯岸は困ったように眉をひそめた。やがて意を決したように口を開く。

「係長、感じる人らしいんですよ」

「感じるって、なにが?」

「……この世ならざるものの気配」

 およそ刑事にはふさわしくない言葉が聴こえた。峯岸はこんな冗談を言う男ではない。冗談を言ってる顔でもなかった。

「つまり、われらが係長には霊感があると?」

「彼女は単に“直感”という言い方をしてます。どうも心霊などは信じてないみたいで」

「信じてないのに、なんでこの世のものじゃないってわかるんだ」

「真鶴が関わった事件には大抵、妙なことが起こるんですよ。祟られている、としか思えないような出来事が」

 祟られている。

 不運が続く現場を「呪われている」と揶揄することはあるが、祟られているという表現は初耳だ。

「祟られている、ってたとえば?」

「死者の声や姿を聞いたという証言が出てきたり、関係者たちが失踪したり、怪死したり……。真鶴と組んだ事件はそんなのばかりです」

 いつのまにか峯岸は、真鶴を敬称抜きで呼んでいる。それだけ“祟られた事件”の記憶と真鶴の存在が強く結びついてるのかもしれない。

「そんな事件をどうやって解決するっていうんだ。お祓いでもするのか?」

「まさか。警察官として当たり前のことをするだけですよ。聞き込みをし、物証を集め、容疑者を逮捕。検察に引き渡す。それだけです」

「じゃあ、祟りに対してはなにもできないと?」

「できませんよ」

 峯岸は顔を伏せた。個室の淡い電球により、その顔に暗い陰影ができる。

「我々、警官が相手できるのは法に定義された存在だけ。この世ならざる者の相手なんてできるわけがない。……と、これは真鶴からの受け売りですけどね」

 言い切ると、峯岸は自身の言葉を飲み込むようにビールを流し込んだ。少し目つきがぼんやりしてる。疲れもあるのだろう。酔いが回ってるのかもしれない。

「飲みすぎだ。お前、酒は強くないだろ」

「飲まないとできない話だってありますよ」

「勘弁してくれ。俺がアルハラしてるみたいじゃねえか」

「主任はどうして真鶴のことを調べてるんです?」

「上司のことを知ろうとするのは部下として当たり前だろ」

「あなたは根拠のない噂を嫌う人だ。それでもこんな話を聞きたがるのは、なにかの必要に迫られてるからでしょ?」

 峯岸は充血し始めた目をこちらに向けた。

「係長に報告書を提出したといっていましたが、なんの報告書です?」

 彼もベテランの刑事だ。矢上の意図について、いくつか推測は立てているのかもしれない。矢上は酒を飲もうとしたが、すぐに止めた。アルコールでごまかしていい話ではない。

「お前、松濤事件を覚えてるか?」

「もちろんです。忘れようと思って忘れられる事件ではないでしょ」

「こないだ、新しい証言が出てきた。それがずいぶん、おかしな話でな」

 そして、矢上は話し始めた。

 松濤事件にもたらされた新たな情報。トージくんの噂。丸山が追っていた防犯カメラの故障。そして事件現場を訪れていた真鶴警部。

 峯岸は口を挟まず、最後まで話に耳を傾けた。コップの中の酒はまったく減らなかった。酔いはいつのまにか覚めていた。

「どう思うよ、峯岸。松濤事件も“祟られている事件”になるのか?」

 峯岸は答えなかった。黙って腕組みをしている。

「どうした?」

「ここからの話は他言無用でお願いしたいのですが」

 峯岸はなにかを思い直したようにグラスを置いた。

「14年前、真鶴も松濤事件の捜査に関わっていたんです」

 初耳の話だった。むろん、相当数の捜査員が関わっていたのだから、真鶴が参加していたもおかしくはない。

「どこの部署だ? 14年前なら地域課か?」

「SSBCです。地域課を出たあと、すぐに配属されたと聞いています」 

 SSBC――捜査支援分析センター。

 警視庁刑事部の一部隊であり、殺人、窃盗、知能犯罪を問わず、電子機器の解析や捜査支援システムより得られた捜査情報の分析を主務としている。

 松濤事件においては主に防犯カメラの画像解析を担当していた。

 地域課からすぐ本庁の部隊入り。大抜擢である。

「ペア時代に一度だけ、真鶴から聞かれたことがあります。笹木家には被害者以外の人物がいた可能性はなかったかと」

 唖然となった矢上はつい張り上げた声が出てしまう。

「係長は以前から、あの家に誰かがいることを掴んでたっていうのか?」

「そのようです。例のプリウスらしき車両を記録した映像を発見していたらしくて」

 バカな、と口に出しそうになる。

 捜査本部では一度もそんな話があがったことはない。白のプリウスの足取りは追えなかった。それが公式見解のはずだ。

「なぜ捜査本部にその情報が回らなかった? 映像があったんだろ?」

「わかりません。ただ、アクシデントがあったと」

 またアクシデントか。

 松濤事件では、犯人にとって都合のいいアクシデントが続いている。

 たまたま事件の前日に防犯カメラが故障し、たまたま目撃者は息子に呼び止められ、犯人と思われる女性の顔をはっきりと見ることができなかった。

 そして、事件解決につながる重要な線を掴みかけていた刑事はたまたま交通事故で亡くなった。

 待てよ、と矢上は気づく。

「そいつは捜査本部が縮小した件と関係しているのか?」

 あれだけの重大事件にも関わらず、捜査本部の規模は早々に縮小した。矢上が知る変事とは別におそらくなにかがあったのだ。

 警察の不祥事とも捉えられかねない明確アクシデントが。

 そして防犯カメラの映像が提出できなかった理由。

「映像データに問題が生じた?」

 峯岸は固く口を閉ざす。

 その沈黙がなにより雄弁に、矢上の推測の正しさを物語っていた。

 真鶴が発見したという問題の映像データは、捜査本部に提出する前に破損、あるいは紛失された。少なくとも証拠能力を失うアクシデントが発生した。

 だから矢上たち、現場の捜査員には情報が伏せられた。そして捜査ミスを隠蔽するために、捜査本部は縮小の憂き目を見た。

 祟られている。

 その言葉の意味を、矢上は実感する。

「真鶴は……いえ、係長はまだ諦めていないのかもしれません。主任の報告を聞き、再捜査に乗り出したのでしょう」

「つまり、五係うちで動くということか?」

「それは、どうでしょうね」

 峯岸は苦笑した。

「言ったでしょ? 彼女は他人を使うのが下手なんです。自分にしかわからない世界が見えてるせいですかね」

「だからって、係長は現場に出る役職じゃねえ」

「そんなことは彼女もわかってるでしょう。でも、我々を使うことはおそらくしない。どんな危険が降りかかるか、わかりませんから」

「俺たちは使いものにならない、ってか?」

「我々が、というより、警察という組織が、でしょう。我々の職務は治安維持であり、悪霊退治ではない。法が想定しない相手に警察は無力です」

 実際、峯岸の言葉どおりだ。

 矢上には40年近い警察官人生で培われた経験と知見がある。それでも祟りに対処する術は持ち合わせていない。

 台風や地震が裁けないように、この世ならざるものを裁く法などこの世に存在しないからだ。

 丸山の死という事実があり、偶然で済ますにはあまりに不条理なアクシデントが続いている。

 下手に捜査に関われば、どうなるか。

 まさに、どんな危険が降りかかるかはわからない。

 だとしても――

「もし、係長が事件の捜査命令を下したら、どうする?」

 矢上は訊ねた。

「もしも、祟られた事件の捜査をしろと言われたら……お前、どうする?」

 峯岸も、矢上も、すっかり酔いは醒めている。特段気負った様子もなく、峯岸は肩をすくめながら答えた。

「そりゃあ、やりますとも。上司の命令ですから」

「だよな」

 矢上はここに来て、初めて心から笑った。

「俺もそう思う」

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