睦子・5

 睦子は、海沿いの小さな集落で生まれ育った。

 兄弟はいない。母は早くに亡くなり、家にはいつもアルコールの匂いを放つ父親しかいなかった。

 早く嫁に行け。結婚して俺を養え。

 父の言葉で覚えてるのはそのふたつだけ。あとは聞くに耐えない罵詈雑言だけだ。

 睦子にとっての家は檻とおなじだった。

 家に帰るのが嫌で放課後も学校の図書室に入り浸り続けた。司書の趣味なのか、図書室には海外SFやミステリー、児童ファンタジーが充実しており、本を開いているあいだだけ、睦子は現実を忘れることができた。

 あるとき、新聞の広告に小説の新人賞の広告が掲載されていた。

 小説を書く。そんなの考えたこともなかった。自分にできるだろうか。

 漠然と頭に浮かんだイメージを足掛かりに、小学生の睦子は普通横罫の大学ノートを広げ、ボールペンを走らせた。気がつけば、拙かったはずの想像は大学ノート1冊分では到底足らないほどの物語に変わっていた。

 自分にも書けるかもしれない。睦子は小説の執筆に熱中し、投稿を続けた。

 父親にバレるわけにはいない。もしもバレたら、どんな目に遭うかはわからない。

 だから息を潜めるように、小説を書いた。

 受賞すれば、もっと広い世界へ行ける。この狭い檻から抜け出せる。そんな夢みたいなことを無邪気に信じていた。

 あの頃は知らなかったのだ。

 檻を出た先には待ち受けているのは、違う姿をした檻であることを。

 

 ◇◆◇


 睦子はキーボードとモニターの前で突っ伏していた。仕事をしなければならない。それなのに全然手が動かない。

 作業机には、守部から渡されたチラシが置かれている。

【第26回オリベ祭り】

 オリベ祭りとは、団地内で執り行わられる催しものだという。

 隣人の亜紀にも聞いたところ、

「住民の交流会みたいなものよー。子どもたちも交えて、ワイワイ楽しくやりましょう、ってだけだから、身構えなくても大丈夫よー」

 と答えるばかりだった。

 念のため、オリベ様についても尋ねたが、

「お祭りに行けばわかるわ」

 の一点張りで、肝心なところはなにもわからない。

 おそらく亜紀はトージくんのことも知っているのだろう。亜紀の子どもたちにもトージくんは見えているのだろう。子どもの幽霊がうろつき、出たら死ぬと言われる団地での生活を、彼女はどう受け止めているのか。

 そこまでは聞けなかった。確かめるのが怖かった。

 なにもわからないまま、とうとうオリベ祭りの当日を迎えてしまった。

 カーテン越しに差し込んできた夕日が部屋の中を茜色に染め上げていく。サンルームのほうからは紗代子の笑い声が聞こえた。

 誰かと話している。

 いま、この部屋には睦子と紗代子以外の人間はいないはずなのに。

 数日前までは、空想のお友だちと遊んでいるのだと思っていた。この年頃の子どもにはよくあることだと微笑ましい気持ちで見守っていられた。

 だけど、もう無理だ。トージくんの正体がなんであれ、娘が生み出した空想のお友だちだとは思えない。

 だからといって、娘を止めることができない。

 もしも娘を無理にトージくんから引き離したら、どうなるのか。

 武藤一家は団地から逃れようとして失敗した。噂で囁かれる4家族も。あのザシキワラシの蔵書を遺した一家も。

 トージくんを怒らせたら、どんな報いを受けるのか。想像がつかない。

「ママ」

 睦子は慌てて振り返った。和室の襖を開けて、紗代子がこちらを見ている。お腹がすいたのだろうか。

「ごめんね、さっちゃん。もうお夕飯の時間だね。いまご飯つくるから……」

「トージくんがね、はじまるって」

 紗代子の言葉に、睦子は息を呑んだ。

 こちらがなにか問いかける前に、紗代子は誰もいないはずの隣に顔を向ける。それから、うんうん、とまるで誰かの話を聞いているかのように相槌を打ってから、「わかったあ」と返事をした。

「お祭り。みんな、あつまってるから、ママもいこ?」

 そう言って、紗代子は小さな手をこちらに差し出した。睦子は紗代子の隣を見つめる。誰もいない。そこには誰もいないのに。

 ふっと生暖かい風が吹いた。

 誰かの息遣いを感じた気がした。白い子どもが笑っているように見えた。

 睦子は慌てて紗代子を抱き寄せると、見えない子どもから引き離した。

「ママ?」

「聞いて、さっちゃん。トージくんなんていないの。そんな子どもはいないんだよ」

「いるよ? トージくん、そこにいるよ?」

「いないの! トージくんなんて、どこにもいないの!」

 何度も言い聞かせるが、紗代子は泣きそうな顔で首を振った。「いるもん!」と怒りながら、睦子から逃れようとした。

 オリベ様なんていない。トージくんなんていない。錯覚だ。幻だ。そんなものはどこにもいやしない。

 扉のチャイムが鳴った。

 睦子は玄関のほうに目を向けた。もう一度、チャイムが押される。しかし誰も出てこないのを受けて、トントンと扉が叩かれた。

 守部だ。

「八津川さーん。お迎えにあがったわ。一緒に行きましょう」

 睦子は耳を塞ぎたかった。

 扉を開けてはならない。オリベ祭りがなんなのかわからないが、行ってはならないという確信だけはあった。

 しかし紗代子は睦子の拘束から逃れると、部屋を飛び出した。

「ダメ、さっちゃん!」

 母親の制止も聞かず、紗代子はドアノブを回した。

 玄関を開けた先には、黒衣の女性が立っていた。

「ありがとう、さっちゃん。扉を開けてくれて」

 黒衣の女性――守部は紗代子の頭を撫でた。紗代子は笑いも嫌がりもせず、黙って守部の顔を見上げている。

 立ち上がることすらできない睦子に、守部は「さあ」と再度呼びかけた。

「支度をしなくてはいけないわ。さっちゃんと一緒に、こちらへいらして?」

 その声に逆らうことができない。逆らう気力が急速に失せていった。

 睦子はふらふらと立ち上がり、守部についていく。紗代子を伴い、部屋を出て、階段を下りていく。

 中庭は夕闇に沈もうとしていた。給水塔の前に井桁が組まれている。太い丸太を4本組、細木と枯れ草が積まれている。

 さらにA棟の1階、管理組合室の前にはテーブルが置かれ、大勢の大人たちが集まっていた。風に乗って、脂っこい匂いが漂っている。

 すると紗代子は急に睦子のもとから離れた。

「あっち。よんでる」

 紗代子は給水塔を指さす。よく見ると給水塔のまわりには小さな人影が集っている。子どもたちが集まっているようだ。

 睦子は呼び止めようとするが、守部が先に紗代子へ声をかけた。

「行ってらっしゃい。みんな待ってるわよ」

 それを聞くと、紗代子は嬉しそうに頷き、迷いなく駆け出していく。

 なにが起きているかわからず、睦子は見送るしかできない。

「なにも心配はいらないわ。これはただのお祭りよ。みんなで神様をおもてなしする。どこの世界にもある、ごくごく普通のお祭り」 

 神様をもてなす。それはいったいどんな神なのか。

 ザシキワラシ? トージくん? それともオリベ様?

 急に寒気を感じた。気温のせいではない。睦子は恐る恐る上を見上げた。

 中庭を取り囲む棟すべての部屋の窓が開けられている。陽が落ちて薄暗くなっている中、影法師となった住民たちが一斉にこちらを見下ろしていた。

 無数の視線が突き刺さる。まるで睦子の一挙手一投足を監視するかのように。

 行きましょう。

 守部の白い手に引っ張られ、睦子はおぼつかない足取りで進む。

 連れてこられたのは管理組合室の前。

 折りたたみ式の長テーブルが設えられており、その上にはたくさんの料理が置かれている。唐揚げ。カレー。ケーキ。他にもお菓子類やジュース。まるでこれから子供の誕生日会でも開くかのようなメニューだ。

「八津川さん! やっと来たのね! 待ってたのよ!」

 大きなお腹を抱えながら、亜紀が駆け寄ってくる。

「いまね、やっとミケの用意ができたところなの! みんなで頑張ったんだから!」

「みけ?」

「もう、みけといったらみけよ! オリベ様へのお供えに決まってるじゃない!」

 お供えという言葉から、睦子は思い至る。

 御饌みけ。あるいは神饌。

 いわゆる神に献上するための食事だ。

 しかし目の前にある供物は、神様というより子どものためのご馳走としか思えない。

「唐揚げはね、私たちの班がつくったの。油っこいモノは得意なの。食べ盛りを5人も抱えてるから! あ、もうすぐ6人ね。アハハ!」

 亜紀が張りでたお腹をポンと叩くと、まわりの住民たちは一斉に笑った。

「いやーね、亜紀さんってば」

「わたしも、もうひとりこさえようかしら」

「いいじゃない、こさえちゃえなさいよ」

「子どもは何人いても困らわないわ」

「そうそう。まさに子は宝だものね」

 甲高い笑いが耳に突き刺さる。

 誰も彼もが賑やかで、楽しげで、息が詰まりそうだった。

「それにしても、武藤さんたちは残念だったわね。せっかく、オリベ様に当てられたのに、ここを出てっちゃうんだもの。亜紀ちゃん、止めたげなかったの?」

「止めたわよ。でも聞きやしないんだもの。部屋の名義さえそのままなら、大丈夫とでも思ったのかしらね。そんなことで逃げられるわけないのに」

 亜紀はそこで初めて、睦子の様子に気づいたのか、「大丈夫よー」と声をかけた。

「ここに住み続けさえいれば、なーんにも心配することないんだから! だから出てこうなんて思っちゃだめよー?」

 背中を遠慮なしに叩かれる。痛みをこらえながら、睦子は「はい」とか細い声で答える。

 笑顔を浮かべながら、亜紀はこちらを探るような目で見つめる。

 自分がいる場所からの抜け駆けは決して許すまいとする目。

 パンパンと手拍子が叩かれる。守部がみんなに呼びかけた。

「それではこれより、第26回オリベ祭りを開催します。みなさま、どうぞお遊戯を見守りください」

 ワーッと大人たちから拍手があがる。

 どこからか、子どもたちの輪唱が聴こえてくる。

 

 あーそーぼー

 あーそーぼー

 オリベさまとーあーそーぼー


 部屋にいる観衆が窓から懐中電灯を点ける。

 無数のライトに照らされ、給水塔が闇から浮かび上がった。

 頂に描かれた顔が闇夜に浮かび、こちらを睥睨し、給水塔の前に組まれた焚き木が小山のように盛り上がっている。

 頭上からどん、どん、と太鼓の音が響く。それに続くように、リコーダーの旋律、鍵盤ハーモニカの音色が、一斉に鳴き始めた蝉の声のように中庭じゅうを包み込んだ。

 すると住民のひとりがジッポを手にし、 焚き木に向かって投げた。

 火はあっという間に焚き木につき、炎となって燃え盛った。

 白い煙が天に昇る。風に乗って、かすかに甘い匂いが漂ってきた。

 懐中電灯の一部が給水塔から、C棟の1階へと向けられる。

 照らされた先には子供たちが集っていた。

 彼らはみな仮面をかぶっている。丸く切り抜かれた画用紙に笑った顔が描かれた仮面は、雅楽で用いられる雑面に似ていた。

 子どもたちの手によるものなのか筆致は稚拙で、給水塔とおなじ顔をしている。彼らは列を作り、リズムに合わせて行進していく。

 やがて彼らは焚火の周囲を囲み始めると、手をつないで、輪になってぐるぐる回りだす。

 住民たちの演奏が、聞きなじみのある曲へと変わる。

 かごめかごめ、だ。

 しかし、子どもたちの歌は違った。


 おーりーべ おーりーべー

 おりべのなーかの とーじーさまー

 いーついーつ でーやーるー


 かごめかごめの曲に乗せ、子どもたちは謡い続ける。

 ぱちぱちと爆ぜる炎に照らし返される子どもたちの仮面。

 どれが紗代子なのか、睦子にも判別できなかった。

 子どもたちの唄を喜ぶかのように、炎がさらに勢いを増す。

 甘い匂いもどんどん強くなる。

 まるで熱に浮かされたように、子どもたちの回転も速度を上げる。

 ざっざっざっと、と土を踏み鳴らす音が響き渡る。


 よーあけーの ばんにー

 つーると かーめが すーべった


 睦子は動悸が止まらなくなっていた。 

 かごめかごめがどんな遊びかは知っている。ひとりが鬼役となり、他の子どもたちはうずくまっている鬼役を取り囲んでグルグル回る。

 そして歌が止んだとき、鬼役は自分の背後にいる子供が誰なのかをぴたりと充てる。そういう遊びだ。

 ならば、仮面をつけた子どもたちはいま、誰を取り囲んでいるのか。

 いったい誰が鬼役なのか。

 

 うしろのしょうめん だあーれ?


 そこでぴたりと演奏が止んだ。子どもたちの唄も、足音も、すべてが静止する。

 聴こえるのは焚き木の爆ぜる音と、人間の息遣いだけだ。

 みな、闇の中でひっそりと呼吸を潜めている。

 誰かが声を上げた。

「しむらてるあきくん」

 すると、雪崩のように子どもたちの声が続く。


 てるあきくん てるあきくん てるあきくん てるあきくん てるあきくん

 てるあきくん てるあきくん てるあきくん てるあきくん てるあきくん


 志村輝明てるあき。亜紀の息子だ。

 子供のひとりが焚火に近づき、仮面を外す。

 炎に照り返されたまま、輝明は仮面を焚火に向かって投げ捨てた。

 仮面はあっという間に消し屑となる。

 すると炎はごうと最後の息吹を上げ、すーっと煙だけを残して鎮火していった。

 懐中電灯が次々と消えていき、わずかに残った光の中に立つ輝明は笑っていた。

 口元を三日月に歪め、白い歯をむき出しにした、満面の笑顔だった。

「次代のオリベ様が決まりました」

 凛とよく通る声が響く。守部の声だ。

「オリベ様の親は御饌をこちらへ」

「はい」

 返事をしたのは亜紀である。料理を一品ずつ、皿に盛り付けると、輝明のもとへ向かい、皿を差し出した。

 輝明は手づかみで料理をむしゃむしゃと食べる。そんな息子の姿を、亜紀はうっとりした目で眺めていた。

「ごちそうさまでしたっ」

 すると周りから安堵したような息が漏れる。この場の緊張が解けた。祭りが終わったらしい。輝明は急に目を瞬き、目の前にいる母親をぼんやり眺めている。

 亜紀は涙を流しながら、息子を抱きしめた。

「みんなもいらっしゃーい。お供え、たーくさんあるからね」

 大人の呼びかけに、子どもたちは歓声を上げてテーブルに群がる。

 仮面を外し、唐揚げや寿司を無邪気な顔で頬張る。

「ママ、いっしょに食べよ」

 紗代子が皿を持って、そばに立っていた。額のあたりには先ほどまでかぶっていた仮面がひっついている。

 紗代子はいつもと変わらない。

「さっちゃん。いまの遊びは誰から教わったの?」

「トージくんだよ」

 紗代子はこともなげに答えながら、燃え跡を指さした。

「さっき、みんなで囲んだんだよ。ママも見てたでしょ?」

 燃え跡にあるのは焼け炭だけで、祭りの残滓のように細い煙が立ち昇っている。

 あそこに、トージくんがいた。

 だったらオリベ様とは、いったいなんだ?

 明かりが消え、給水塔の頭は暗闇の中に紛れている。

 いまもなお給水塔の顔がじっとこちらを見据えている気がしてならなかった。

「残念だったわね、選ばれなくて」

 いつのまにか後ろに守部が立っていた。思わず紗代子を庇うように抱き寄せると、守部はくすくすと笑った。

「どうしてそんなに怖がるの? オリベ様は私たちを守ってくださるのに」

「変なことを言うのはやめてください。そんなもの、いるわけない」

「だったら、この団地から出てみる?」

 睦子は言葉に窮した。

 そんな反応を見て、守部はおかしそうに笑う。

「あなたは素直で賢明な人ね。ちゃんと自分の心の声に耳を傾けられる。武藤さんも他の人たちも、そうできればよかったのに」

「武藤さんたちは……まさか、あなたたちが殺して……」

「いいえ。あの人たちはただ、見放されただけよ」

 それから守部は給水塔を見つめながら、そっと目を細めた。

「そして私たちも、見放されないようにお守りしないといけない」

「見放される?」

「ザシキワラシと一緒よ。ザシキワラシが去った家は没落する。なら、没落を防ぐにはどうすればよいか」

 そっと守部は耳打ちした。

「ザシキワラシがここから離れないようにすればいい」

 彼女の言葉で、ようやく睦子は理解した。

 ここは城などではない。檻だ。

 目に見えぬ看守が囚人たちを生かし続ける監獄なのだ。

 

 トージくん。オリベ様。呼び名はなんでもいい。

 ただ、わらべの姿をした神様から見放されないよう、睦子たちは怯えて暮らすしかない。

 この檻から出る術はない。

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