睦子・3
武藤一家――武藤達郎、恵、太一の通夜は、達郎の実家がある川崎市で執り行われた。通夜の場所を教えてもらった睦子は、紗代子を連れて、会場へと向かった。
なんで。いったいどうして。
訃報を聞いた日から、おなじ疑問がぐるぐると回っている。
交通事故だったと聞いている。
家族3人で買い物のために車で外出していた際、信号無視をしたトラックと衝突したのだ。
車は圧壊、3人は即死だったという。
武藤一家の死を悼む気持ちもある。
しかし、それ以上の現実に睦子の心は苛まれていた。
多摩ファミリアコーポ403号室は武藤一家の持ち家であり、睦子たちは部屋を借りて暮らしている。オーナーである武藤達郎が亡くなっても、睦子との賃貸契約は依然として継続するため、契約の満期までは居住が認められるはずだ。
しかし、その先がどうなるかはわからない。
相続人が賃貸契約の園長を認めない可能性もあるためだ。そうなれば、また別の入居先を探さなければならない。
その頃には、きっと紗代子も小学校にあがる歳になっているはずだ。進学の準備だってしないといけない。ランドセルや学習机も必要だ。出費は間違いなくかさむ。
そんな大事な時期に、仕事をこなしながら、転居先を探す。想像しただけで気が滅入りそうになる。
晴れぬ不安を抱えたまま、睦子は式場に着いた。
武藤家の通夜は川崎市の葬儀場で執り行われた。大勢の参列者がおり、故人の交流関係の広さを想像させた。
子連れで着ている人たちの集団も見える。亡くなった太一の友達の家族かもしれない。
喪主である達郎の両親は魂が抜け落ちた顔で座っている。
無理もない。息子と嫁、孫をいっぺんに失ったのだ。まだ現実を受け止めきれていないのだろう。
彼らの姿を見ると、胸が痛むと同時に、自分の生活のことばかり心配する己の浅ましさに申し訳なくなる。
どこかで挨拶をしたあと、すぐに帰ろう。
いまの部屋は達郎の好意で住まわせてもらったようなものだ。
そのお礼だけはちゃんと伝えておきたい。
「さっちゃん、太一くんにお別れをいってあげようね」
「うん……」
通夜に向かうときから、紗代子の口数は少ない。人が死ぬことを娘がどう受け止めているのか、睦子には想像もつかなかった。
それでも黒い喪服を着て、張り詰めている母親の姿から、紗代子なりになにかを察しているのは間違いない。
通夜はつつがなく終わり、通夜振る舞いへと移る。会場に並んだご飯や飲み物を取り、式の隅で食べ続ける。
知り合いなどこの場にいるはずもない。
ただ参列者たちの断片的な噂話がBGMのように響く。
交通事故だなんて。ひどい有様だったようね。いつからだったか、ずいぶんとはぶりがよくなっていたよな? 買った株が大当たりしたんだよ。運がいいやつだ、ってみんなで言ってたのに。たしか三田のマンションを買ってたよな? 上り調子だと思ってたのにわかんないよなぁ。
話が聞こえるたび、妙な不安に襲われる。
少なからず自分にも刺さる言葉であるせいだろう。
小説家という浮き沈みの多い仕事をしていると、自分の実力とは関係なく、ある日突然売れてしまう瞬間が訪れる。
その瞬間をチャンスとして掴んだものは、売れっ子への道をのし上がっていくが、多くのものは状況に右往左往され、沈んでいく。
上り調子だったと言われた武藤一家も、ある日突然、運に見放されてしまった。
それが、いまの自分の姿とどうしようもなく重なってしまうのかもしれない。
「みなさん。今日は達郎と恵さん、太一のためにありがとうございます……」
達郎の両親が会場に現れ、親しい参列者が声をかけていく。挨拶できるのはもう少し先かもしれない。
「ねえ、ママ」
紗代子が裾を引っ張る。トイレだろうか。どうしたの、と問いかける。
「太一くん、しんじゃったの?」
ストレートな物言いに、睦子は思わず周りを見やった。
幸い、気に止める者はいない。
「そうだよ。いま、お別れしたでしょ? みんな悲しんでるから、そういうことを大きな声で話したらいけないよ。わかった?」
しかし紗代子はあまり飲み込めてない顔のまま、眉間に皺を寄せている。
やがて口を開いた。
「太一くんがしんじゃったのは、ひっこしたせい?」
「えっ?」
なにを言っているのかよくわからなかった。
太一が死んだのは引っ越したせい。
団地から引っ越したから、武藤一家は死んだ?
「違うよ、さっちゃん。太一くんが亡くなったのは交通事故。引っ越しは関係ない」
声が険しくなってしまう。
いったいなぜそんなことを紗代子は言い出したのだろ。
睦子ではない。
そんなこと考えたこともないし、口に出したこともない。
「なんでそんなことを言ったの? 誰が引っ越したせいだなんて――」
「トージくんが言ったの」
思いがけない返事に、睦子はただ言葉を失った。そのとき、背後に気配を感じた。
振り返ると、達郎の母親が立っていた。
会場では生気がなく、ぼんやりとしていたのに、いまはひどく張り詰めた顔でこちらを見ている。
まるで不倶戴天の仇でも見つけたかのように。
「あなたたち、もしかして多摩の人?」
睦子は驚いた。
名乗っていなかったのにどうしてわかったのだろう。
母親の気配に気圧されながら、睦子は挨拶した。
「は、はい。多摩ファミリアコーポに住んでいる八津川です。武藤さんたちには生前、とてもお世話に――」
「あの子たちになにをしたア!」
母親の怒声が部屋中に響き渡った。
参列者たちはしんと静まり返り、こちらを見ている。
なにが起きているのかわからず、睦子は弁明すらできなかった。
母親はさらに声を震わせながら、睦子に迫る。
「あんたたちのせいよ! あんたたちのところへ行ってから、孫がおかしくなった! やっと、やっとあそこから離れて、全部もとに戻るはずだったのに!」
「あの、なにをおっしゃって――」
「トージくんなんでしょ!」
時が止まったかと思った。
なぜこの人が、その名前を知ってる?
「太一くんとおなじことを……。あんたたち、いったいなんなの……なんなのよぉーー!」
母親はそのまま床に崩れ落ち、人目も憚らず泣き続けた。
睦子は見下ろすしかできない。
参列者たちの視線が針のように突き刺さる。睦子はなにも言わず、紗代子の手を引いて退室した。
「ママ」
「お願い、静かにして」
トージくんは紗代子の空想のお友だちじゃなかった。太一くんにも見えていた。
それに母親のあの言葉。
――やっとあそこから離れて、全部もとに戻るはずだったのに!
武藤一家はあの団地を離れたがっていたというのか。
式場を出ると、雨が降っていた。
乱暴に傘を差し、雨の中を進む。傘に激しく雨粒がぶつかる、
弾くような雨音が、やけに耳にこだまし続ける。
「ママ、ママ」
「黙って」
あの破格の家賃はサービスではなかった。
武藤達郎は睦子を見て、ちょうど良い人だと言っていた。
親切心などではない。
最初から部屋を押し付けられる相手を探していた。
それにまんまと睦子は引っかかったのだ。
「ママ」
「なに!」
振り返ると、紗代子が泣きそうな顔になっていた。小さな左手をつぶしそうなほど強く握っていた。
「ごめんなさい!」
慌てて手を離し、娘を抱きしめた。
いったい自分たちはどんな場所に入り込んでしまったのだろう。
冷たい雨が容赦なく、睦子の身を叩き続ける。傘をさし、駅に戻るあいだも、水の冷たさがべっとりと背中にまとわり続けた。
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