矢上・2


 結城昌也の証言を報告書にまとめ終え、アパートへ帰宅した頃にはすっかり夜の0時を回っていた。

 妻が亡くなってから住み始めた部屋には、あまり生活感がない。

 ふたつある部屋はどちらも和室。片側の部屋には丁寧に畳まれた布団とローテーブル、テレビ、小さな本棚、タンスが詰め込まれて、もう片側には綺麗に整われた仏壇だけが置かれている。男やもめの生活だが、警察学校時代に叩き込まれた作法がいまも身体に染みついている。

 家族との思い出を示すのは、何十年も前に撮影した家族写真と妻の仏壇のみ。

 スーパーで買った、値引き済みの惣菜パックを冷蔵庫にしまい、ネクタイを緩める。普段ならこのまま晩酌を始めるところだったが、いまは別のことに思考が囚われていた。

 収納棚の一番下にある引き出しを開ける。中には過去の捜査で使ったメモ帳の束が年代ごとに輪ゴムで括られていた。矢上は14年前のメモ帳を取り出し、中身をめくる。しばらくページをめくるうち、「松濤事件」の文字が目に入る。

 松濤事件当時の捜査メモだ。

 矢上は捜査メモを追いかける。万が一、外部に漏れたりしないよう、捜査メモには断片的な言葉しか書かれていない。個人名もイニシャルで伏せられていた。

 しかし紙面上の言葉を見るだけで、矢上の脳裏には事件当時の記憶がありありと蘇ってくる。

 焼け落ちた邸宅。聴取をした近隣住民の顔。捜査に関わった同僚たち。

 そして矢上は目的の言葉を見つけた。


『トージちゃん(くん?)=防カメ犯 ← マルの案件』


 この情報は捜査本部では一度もあげられていない。

 矢上がこの名前を知ったのも、同僚である刑事から聞かされたからだ。

 丸山巡査部長。周囲からはマルさんと呼ばれていた。強面に似合わず、細かいところにも気が回る男で、現場のムードメイカー役を買って出てくれていた。

 当時、丸山も地取りに当たっていた。その際、彼は松濤事件の周辺で起こった小さな事件に着目していた。

 事件の前日に起きた、少年たちによる防犯カメラの破壊事件である。


 ◇◆◇

 

 捜査本部が立ち上がり、2週間が経った頃だった。

 マスコミ報道は過熱を極め、捜査本部には常に重苦しい空気がつきまとっていた。

 なんの成果にも繋がらない報告があがるたび、管理官は額に青筋を浮かべ、捜査員たちは死地に赴く兵の顔になる。

 長時間の会議が終わり、矢上は署内にある喫煙室に向かった。

 一服吸おうとするが、たばこの箱が空だったことに気づく。舌打ちすると、横から1本のセブンスターが差しだされた。

「ホープじゃなくて申し訳ないですけど」

 矢上の隣に、丸山が立っていた。

 班は違うが、何度か事件捜査で組んだことがある。たまにふたりで飲みに行く間柄でもあった。矢上は「すまん」と礼を言いながら、タバコを受け取り、火を点ける。

 ふたりは揃って煙を吐き出し、胸に溜まった淀みを少しでも軽くしようとする。

「参っちゃいますね、ガミさん。みんなピリピリしてんだもん」

「せめて例の女の足取りが追えればいいんだが。事件前日に、現場周辺の防犯カメラが故障してたって。笑えない冗談だわな」

 捜査のうえで、犯行現場へ向かってくる被疑者の移動ルートを「前足」、犯行現場から立ち去る際の被疑者の移動ルートを「後ろ足」と呼ぶ。

 松濤事件では捜査の早い段階から、被疑者とされる女性の目撃証言が取られていた。

 このため女性の足取りを追うために、現場周辺の防犯カメラの映像解析を進めようとしたのだが、ここで問題が浮上した。

 事件の前日、現場周辺の防犯カメラが軒並み破壊されていたのである。

 原因は子どもの悪戯だった。近隣に住む少年たちがレーザーポインターを防犯カメラに向けて照射し、内部のセンサーを破損させていたのだ。

「今時のガキは恐ろしいな。防カメを破せるレーザーポインターを自作するなんて」

「造り方なんてネットで検索すれば、いくらでも出てきますからね」

「まったく世も末だよ。そっちも大変だな。ガキの不始末を追わされてよ」

 丸山たちの班は、防犯カメラ破損事件の捜査をしていた。

 主犯が子どもとはいえ、タイミングがタイミングなので、松濤事件との関わりも無視できずにいた。このため、丸山たちは防犯カメラの破損に関わった子どもたちから詳しく聴取を取り、松濤事件と関係がないか調べていたのだ。

 関連があるなんて考えている捜査官は誰もいない。しかし、十中八九、無駄だとわかっていても可能性がある限りは潰さなければならない。警察とはそういう仕事だ。

無駄だとわかっている捜査をやらされて、丸山もやりきれない気持ちになっているだろうと、矢上は考えていた。

 しかし当の丸山はそのとき、思いもよらないことに気を囚われていた。

「ガミさん、現場で聞き込みをしてたとき、トージくんって名前、出てきませんでした?」

「トージくん?」

 記憶を巡らせてみるが、特に思い当たる節はない。

「どういう字を書くんだ?」

「わかりません。たぶん男の子だとは思うんですが」

「性別もわかんねえのかよ」

「それどころか実在してるかも不明です」

「なんだそりゃ。幽霊かなにかか?」

 冗談のつもりで言ったのだが、丸山は笑わなかった。

「防犯カメラを壊した子どもたちが、妙なことを言ってるんです。あれはトージの提案だった、って」

「ガキどもの中にそういうあだ名の奴がいるのか?」

「犯行に関わった子たちの同級生を全員当たりましたが、該当する子どもはいません」

「じゃあ、架空の人物をでっちあげたとか?」

「というわけでもないんです。これは松濤に住んでいる子どもたちから聞いたんですが」

 丸山は煙を吐き出しながら、言った。

「友達と外で遊んでいると、いつのまにかトージくんって子が紛れこんでいる。その子が男の子なのか、女の子なのかはわからない。トージくんと出会えた子どもは幸せになれる。そういう話があるんだそうです」

 矢上は黙って話に耳を傾けていた。

 いつのまにか吸い殻が短くなっている。

「そりゃ、なんだ? 学校の怪談かなにかか?」

「というより都市伝説ですかね。今風に言うと洒落怖とか? くねくねとかコトリバコとか、知ってます?」

「俺が知ってるのは口裂け女くらいだ」

 とても重大事件の捜査本部が置かれた警察署でする会話とは思えない。

「そんな話を信じてるのか?」

「まさか」

 ただ、と丸山は続けた。

「悪戯をした子どもたちの様子がね、ちょっと気の毒だったんですよ。自分たちのせいで一家が死んだんじゃないかって、泣いちゃってて」

「シャレにならない悪戯をしたんだ。それくらいの後悔は当然じゃないのか?」

「だとしてもですよ? 本気で後悔して、本気で凹んでる子どもが、子どもだましの都市伝説を持ち出したりするのか、どうにも引っかかって」

「……死ぬほど後悔してるからこそ、なんにでもすがるんだろうが」

 矢上は吸い殻を乱暴に灰皿に押し付けた。自分の声にわずかな苛立ちが混ざっていることを自覚する。

「お前は刑事の癖に甘すぎる。いまの話、管理官には絶対するなよ」

「わかってますって。だからガミさんに言ったんじゃないですか」

 丸山は人懐っこい笑顔でニコニコ笑いながら、タバコの箱を掲げる。矢上はうんざりしながら、眉をひそめた。

「タバコ1本で、貸しにする気かよ」

「どう受け取るかはお任せします」

 刑事失格だな、と心の中でつぶやく。子どもへの情に惑わされている丸山も、馬鹿らしいと思いながらタバコの恩くらいは返すかと思っている自分自身にも。

「現場でトージくんの名前を聞いたら、気に止めておく。それでいいか?」

「お願いします」

 また今度飲みに行きましょう、と他愛のない言葉を交わしてから、矢上は丸山と別れた。約束した手前、トージくんの名前もその場でメモを取った。

 あとで聞いた話によれば、丸山はトージくんの話を知り合いの刑事たちにも訊ねて回っていたようだ。

 しかし、誰もトージくんの正体を突き止めることはできなかった。 

 喫煙室での会話から3日後、丸山は交通事故に遭い、急死したためだ。

 丸山の死が捜査本部に与えた影響は大きかった。捜査員の士気は目に見えて下がり、時をおなじくして捜査本部の上層部でも慌ただしい動きが生じた。

 それが具体的にどんな動きだったのかはわからない。しかし管理官は何度も交替させられ、そのたびに捜査本部の規模も縮小していった。

 そして自分も日々の業務に忙殺され、事件の記憶を風化させてしまったのだ。喫煙室で交わした、ささやかな約束も忘れて。

 原田が言いださなければ、矢上は最後まで思い出せないままだっただろう。

 しかし原田がトージくんを信じていたとは思えない。単純に丸山が言い遺した都市伝説というだけで、あんな劇的な反応はしないはずだ。

 丸山が追っていた線は正しかったということなのか。

 トージくん。子どもにしか見えない子ども。

 そんな存在が、一家殺人にどう関わるというのか。

 わからない。なにもかもわからない。

 矢上は顔をあげた。すると遺影の妻と目が合った。

 優しく微笑む妻の顔を見ると、胸の奥が押しつぶされそうになる。

 自分はよき夫ではなかった。

 妻も娘も愛していたはずなのに、家庭人としての生き方がなんなのかわからなかった。

 不思議なものだ。大した使命感もなく、たまたま公務員試験に受かったという理由で警官の道を選んだのに。気がつけば、公でも私でも警察官以外の生き方がなにかわからなくなってしまった。

 肺炎をこじらせた妻が病院に搬送されたときも、矢上は事件の捜査にかかりっきりだった。結局、死に目に間に合わず、病院に駆け付けたときには霊安室での面会となった。

 付き添った娘によると、妻は最後まで自分の名前を呼んでいたらしい。あの人はどこ、どこなの、と。

 娘とは妻の葬式以来、顔を合わせていない。

 結局、矢上には刑事という肩書き以外、なにも残らなかった。警察組織を退職したら、いよいよ空っぽの人間になる。

 それでも、だからこそだ。

 刑事である以上は、事件に関して「わからない」は許されない。足を動かし、頭を働かせ、わからないを無くすのが刑事という仕事だ。

 ならば、最後まで全うすべきだ。

 腹を括る。

 やるべきことが見えた気がした。

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