睦子・2
多摩ファミリアコーポに引っ越してすぐ、新しい仕事が決まった。
半年前、編集部に送っていた小説の刊行が突然決まったのだ。
「編集部でも評判がいいんですよ。反響次第では、続刊も出せるかもしれません!」
最初は担がれているのかと思った。
原稿を送った当時、担当の反応は冷たく、興味を示していないことが見え見えだった。「いまは忙しいので時間があるときに見ますね」という返事に留まっていた。
特に腹は立たなかった。いまの自分はもう小説家としての価値はないのだという諦めもどこかにあったからだ。
編集者というのは見切りが早い。期待できる作家には早く唾をつけ、見込みがない作家はさっさと切る。送った原稿が塩漬けにされるのも一度や二度ではなかった。
なので今回も、このまま返事が来なければ、原稿を引き上げようと思っていた。その矢先の出来事である。
そもそも今回送った原稿も、流行りの異世界ファンタジーに寄せた二番煎じもいいところの作品であり、激賞される類のものではない。そういう自覚があったので、連絡を受けたときも、喜びより戸惑いのほうが大きかった。
とはいえ、久しぶりに著作を出せるのはやはり嬉しい。まだ商業作家としての価値はあるのだという安心感がある。
さらにもうひとつ、運がよかったのは、団地からそう離れていない場所に、とても感じのいい保育園を見つけられたことだ。
紗代子の入園もあっさり決まり、いい子で過ごしてくれているという。
おかげで睦子は雑誌に掲載するライター仕事としての記事と、刊行する新作の改稿作業に集中して取り組むことができた。
「よ、っこいせ……」
平日の午後。
睦子は引っ越してから、開封していなかった段ボールを開けていた。小説の仕事が決まり、奥底にしまっていた資料を引っ張り出す必要が出てきたからだ。
続刊が決まる可能性もゼロではない。いまのうちにできる準備はしておきたかった。
必要な資料を本棚にしまい直し、軽くなった段ボール箱をしまおうと押し入れの襖を開けた。押入れの中には、「ファンレター在中」と記された段ボール箱が先にしまわれている。
睦子は箱の文字を見て、やるせない気持ちになる。そのまま資料が入っていた箱を置くと、そっと襖を閉じた。
5年前まで、睦子のもとには毎日のようにファンレターが届いていた。ほとんどは中学生から高校生の読者であり、作品の感想を瑞々しい言葉で綴ってくれていた。
特に感慨深かったのは、デビュー作を刊行した際、初めてもらったファンレターだ。送ってくれたのは小学生の女の子で、新刊が出るたびに熱い感想の手紙を送ってくれた。睦子もすっかり彼女の名前を覚えてしまい、なにかあると、うっかりおなじ名前の登場人物を、小説に書いてしまいそうになった。
もう、そんな熱量の高い手紙を受け取ることもなくなったが。
開封を終えた睦子はリビングに出る。インスタントコーヒーを淹れ、テレビを点けた。ちょうど午後のワイドショーが流れており、司会が大げさに憤りながら、過去の未解決事件を報じている。
10年以上前、一家が殺された事件だ。テレビを見ながら、確かにそんなニュースが世間を騒がせていたかもしれないと、ぼんやり思い出す。
事件が起きた頃、睦子は上京してきたばかりで、東京という街に適応するのに必死だった。もう地元には戻らないという覚悟があったためかもしれない。
それが、いまではすっかり東京の人に染まっている。
時の移ろいは早い。
ニュースの事件が起こった頃は、自分が作家になることも、元号が変わることも、娘を授かることも、まったく想像していなかった。
昔の自分がいまの自分を見たら、なんというのか。
よくやった、と褒めてくれる姿は想像できない。
どこからか子どもたちの笑い声が聞こえてくる。
睦子はコーヒーを飲む手を止めて、サンルームの窓から中庭の様子を見下ろした。
子どもたちが笑顔で駆けずり回っている。
この団地は本当に子どもが多く、いつも賑やかな声が絶えない。昔は子どもが苦手だったが、紗代子が生まれてから、その感覚もすっかり消えていた。紗代子も団地の空気に早くも馴染んだのか、団地の子どもたちと中庭で遊ぶことが増えていた。
やはり、ここに引っ越してきたのは正解だったと心から思う。
中庭を見下ろしていた睦子はそのまま顔をあげる。
給水塔と目が合った途端、身をこわばらせた。
「相変わらず、怖い眼をしているね。君は」
恵のことを思い返す。
あの時、彼女はなぜ給水塔に怯えていたのだろう。
武藤一家とはこちらに引っ越してきてから、2回ほど電話をした。こちらでの生活を知りたがっていたが、紗代子も自分も上手くやれそうだと伝えると、ひどく安心した様子だった。
こちらの生活を気にかけてくれるのはありがたい。
睦子も、武藤家の長男である太一を気にかけていた。娘を連れて、顔を出してもいいかもしれない。
やがて迎えの時間となったため、睦子はガウンを羽織り、玄関の外へ出た。
「あら、八津川さん。いまからお出かけ?」
ドアを開けると、ちょうど階下の踊り場から声をかけられた。
隣人の
「はい。これから娘の迎えに」
「あらー、そういえばさっちゃん、保育園だったわねえ。親子ふたりだけですと、なにかと大変よねえ」
亜紀は笑いながら言った。そのたびに彼女の頬にたっぷりついた肉がぷるぷると揺れる。
「なにかあったら、遠慮なくいつでも言ってね。私もね、この団地の人たちに助けられて子育てしてるようなもんなんだから」
ぞろぞろと階段を上る音が続く。すると亜紀の後ろから子どもがひとり、またひとりと小さな顔を出した。亜紀にそっくりな子どもたちが4人。年齢は小学校の低学年から中学年程度だろう。みな、買い物袋を手にしている。
「ほら、お隣の八津川さんよ。挨拶しなさい」
「こおんにちはあっ」
音の伸ばし方から呼吸の間までぴたりと揃えて、亜紀の子どもたちが挨拶する。
まるで生き写しのように彼らの顔はそっくりだった。
「あ、急いでるんだったわよね。ごめんなさいねえ、引き留めちゃって」
「いえ、それじゃあ……」
睦子は恐縮しながら、亜紀たちの横を通り過ぎる。甘い香水の匂いが鼻先をくすぐった。ブランドはわからないが、睦子が持っているブランドよりずっと複雑な香りで、頭の奥をじんと痺れさせるような陶酔感がある。
濃厚な匂いを放つ亜紀に続き、子どもたちもゆっくり階段を上る。
隣の部屋に住む志村家は八人家族だ。亜紀と夫の
都内の物件としては広い間取りを持つ団地とはいえ、8人家族が住むとなると手狭ではないかと思う。悪い人ではない。しかし、なにか違和感がある。その違和感がなんなのか、睦子にはわからなかったが。
団地のそばにあるバス停からバスに乗り、丘の裾野にある保育園にたどり着くと、クラス担任の
「睦子さん、お迎えありがとうございます」
「すいません。こちらこそ、遅くなって……」
睦子は恐縮しながら、保育園の中を覗き込む。紗代子は部屋の隅で絵を描いていた。クレヨンを握り、画用紙に一生懸命殴り書きをしている。まだ部屋には残っている園児たちの姿があったが、彼らには目もくれようとしない。
こちらの心配を感じ取ったのか、明美はフォローするように言った。
「さっちゃん、いい子にしてくれてますよ。とても大人しいし、私たちのいうこともちゃんと聞いてくれてますし」
「そうですか……。誰か、他の子と仲良くしたりは……?」
「いえ。相変わらず、一番のお友だちはトージくんのままですね」
トージくん。
いまの団地に引っ越してから、紗代子にできた一番の友達。
しかし睦子はトージくんの姿を見かけたことがない。睦子だけでなく、ほかの誰にもトージくんを見ることはできない。
紗代子だけがお話しできる、空想のお友だちだ。
「気にすることないですよ。この年代の子にはよくあることですから」
明美はのんきに笑うが、不安は晴れない。
母子家庭であることに加え、引っ越しによる環境の変化が、紗代子の幼い心に強い負担をかけているのではないか。現実のストレスから逃れるために、トージくんをつくりだしたのではないか。
そんな疑念が頭から離れない。
「さっちゃーん。お母さん、お迎えに来たよ」
明美の言葉に、紗代子はむくりと顔をあげる。睦子の顔を見つけると、途端に笑顔になり、画用紙を持って嬉しそうに駆けだした。
「これ見て、ママ! トージくんとかいたの!」
画用紙には、どこかの庭にいるふたりの子どもが描かれていた。
ひとりは笑顔を浮かべる女の子。おそらく紗代子だろう。そして彼女の隣には、白い子どもがいた。
黒いクレヨンで輪郭だけが描かれた白い子ども。目や鼻、耳はなく、横倒しになった三日月だけが顔の部位に置かれている。
まるで、白い子どもがこちらに笑いかけているようだった。
「これはさっちゃんとトージくん?」
「そうだよ。ママにはトージくんが見えないから、かいてあげたの」
「そう、ありがとう。じゃあ、この絵は大切にしまわないとね」
睦子は鞄に入れていたファイルに画用紙を入れると、紗代子の小さな手をつなぎ、保育園をあとにした。
バスに乗り、団地への帰路につく。急勾配の坂を登るたびに生じるバスの揺れも、いまではすっかり身体に馴染んだ。
車道のわきには常葉樹が植えられ、鬱蒼とした森になっている。
森の景色を眺めるのが、睦子は好きだった。
あの木陰にはなにが潜んでいるのかとつい想像を働かせてしまうからかもしれない。悪戯好きな妖精、異界へと続く入り口、年を取らぬ魔女、女性を連れ去ってしまう山人。
最近の流行も、売り上げも気にせず、子供の頃から親しんできた空想を存分に広げられる、この時間が好きだった。
黄色い蝶がひらひらと木々のあいだを舞うように飛んでいる。蝶の姿を目で追っていると、隣に座る紗代子がおかしそうにくすくすと笑った。
「どうしたの?」
「トージくんがね、あそこにいるチョウチョを妖精さんだっていうんだよ」
紗代子は黄色い蝶を指さしながら言った。
「あれはね、モンキチョウっていうんだよ。妖精さんじゃないんだよ」
「そうだね。さっちゃんは虫にくわしいもんね」
睦子が褒めると、紗代子は誇らしげに笑った。
団地へ越してから、笑顔を見せることが増えたように思う。それに蝶と妖精を重ね合わせる感性はどことなく共感できる部分があった。
いつのまにか黄色い蝶の姿は見えなくなり、バスも坂を上り切る。
団地近くのバス停に降りた睦子と紗代子はそろって、多摩ファミリアコーポの敷地に戻ってきた。
もうすっかり日が暮れている。まだ夕焼けの時間のはずだが、団地の一帯はひと足早く、夜の闇に沈もうとしていた。
夕闇の中庭は、昼間とは違う顔を見せる。
目に見える景色は影に沈もうとしており、住棟の明かりだけが中庭の輪郭を淡く照らしている。子どもたちの笑い声は絶え、静寂がすっかりあたりを包み込んでいた。
屋外灯に照らされた遊歩道を頼りに、睦子たちは歩き続ける。
砂利を踏む何気ない足音がざっ、ざっと中庭じゅうに反響するが、それがかえって人の気配のなさを実感させていた。
花壇に植えられた花もいまは目に見えることができず、昼間と変わらぬ匂いだけを夕闇の中庭に残している。
「こんばんわあ」
遊歩道のベンチに座る若い男――
最初は気味悪さを覚えていた睦子だったが、住民が誰も気にしてないことを受け、それに倣うことにした。
睦子は軽く会釈し、堀田の前を通り過ぎようとする。
「もう団地には慣れましたあ?」
えっ、と睦子は振り返った。堀田はこちらを見ようとしない。焦点の合わない目で中庭を見据えている。
こんなふうに話しかけられるのは初めてだ。なんと答えればいいのか迷っていると、堀田はこちらの返答など構わずに話し続けた。
「オリベさんには会いましたあ?」
舌ったらずな口調のせいではっきりとは聞き取れなかった。オリベさんといったが、管理組合の理事長だという守部の間違いだろうか。
「はい。守部さんとはときどき、挨拶はしていますけど」
「そうですかあ。それはよかったあ」
にへら、と堀田は笑った。歯の無い口のせいで、老人の笑みのように見えた。
「オリベさんは怒らせると怖いですからねえ」
怖い。そうなのだろうか。
まだ睦子は守部とそれほど接点がなく、上品な女性だという印象しか持っていない。ただ、あまり長話をしていても仕方がないので紗代子の手を引こうとした。
紗代子は道端で立ち止まっていた。中庭の闇にじっと目を凝らしている。なにを見ているのか、と思ったとき、視線の向きが堀田とおなじであることに気づいた。
ふたりはおなじモノを見ている。
中庭に屹立する巨大な影――あの給水塔を。
「なにしてんだ」
急に鋭い声があがった。遊歩道の向こうから人影がゆっくりと近づいてくる。
ジャージ姿の青年だった。ぼさぼさの髪を無造作に伸ばしている。ジャージの襟はひどく汚れている。常に上品な団地の住民たちと違い、とてもみすぼらしい。
髪のあいだから、覗く目に生気がなかった。
青年は睦子たちに構わず、堀田の手を取った。
「さっさと帰れ。いくぞ」
「あー。シンちゃんだー」
堀田は相変わらず、間の抜けた声で青年に呼びかける。青年は乱暴に堀田を引っ張りながら、じろりと睦子たちを一瞥した。
「ほら。さっちゃん、行きましょう」
娘の手を無理やり引いて、睦子は足早にその場を去る。
なんだかわからないが、とにかく関わり合いになりたくなかった。
403号室の扉を開け、部屋の明かりをつけると、ようやくひと息つけた。
自分がなにを怖がっているのかわからなかった。
まるで巨大な生き物に睨まれでもしたかのように――
やめよう、と睦子は頭を振った。
いい歳をした大人が、こんな子どもじみた空想に怯えるなんてどうかしている。
「帰ってきたらお手洗い、でしょ?」
「はーい」
娘と一緒に洗面台へと向かおうとしたとき、着信音が鳴った。電話を取ると、相手は不動産業者の田中だった。
「突然の電話、恐れ入ります。緊急でお伝えしたいことがあります」
相手の口調はどこか暗い。
咄嗟によくない報せだと直感した睦子は、動揺を押し殺しながら「なんですか」と尋ねる。田中は事務的な態度を装いながら言った。
「武藤さま一家が、亡くなられたようです」
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